第7話 『名前』.3

二人の緩慢だが着実な変化に、いち早く気づいたのは茉莉花であった。


聖名の親友であり、静海を嫌っている茉莉花だからこそ、深まっていく二人の仲に誰よりも早く気づいたのだろうが、もちろん、彼女にとってそれは決して歓迎するべきことではなかった。


紅葉が見頃を過ぎてしまいそうな、ある昼下がり、食堂での昼食を終えた聖名と茉莉花が教室に戻ってのことだった。


「聖名、オオカミとはどういう話すんの」


「…茉莉花」


「…大月静海さんとは、どのような話をなさるのですかぁ」


不服さを隠すことなく言い直した茉莉花に、くすっ、と聖名は笑う。それに対しても茉莉花はムスッと唇を尖らせたが、聖名の邪気のない笑顔を見ているうちにその気も失せたようで、ため息と共に相手の言葉を待った。


「特別な話はしてないよ。趣味の話とか、今日どうだったのか、昨日はどうだったのかとかかな」


「えぇ、それをあいつとやって楽しいわけ?」


「もちろん、楽しいよ」


「ふぅん」即答する聖名を、茉莉花はつまらなさそうに頬杖をつきながら見返す。「そもそも、特別な話って何よ。どんな話のことを言ってるわけ」


「え…」


自分でも無意識のうちに出ていた言葉を拾い上げられた聖名は、『特別』の意味するところを想像し、すぐさま赤くなった。


「い、いやぁ、別に…」


「別に、何よ」


普段だったら言葉に詰まる聖名を待ってくれる茉莉花も、今日ばかりはそうもいかないらしい。


『特別な話』…きっと、静海が自分にしてくれた障害の話は、それに値するだろう。しかし、自分にとってはもっと別のものを想像する言葉だった。


聖名自身、自らが思春期真っ只中であることも、静海に対して『特別』な感情を抱いていることも自覚している。だからこそ、その単語を出されると頭のなかがぐるぐるとしてしまった。


ますます赤くなって俯く聖名に、茉莉花が、「聖名、やっぱりあんた…」と顔を曇らせていた、そのときだった。


「蛍川さん、今、ちょっと大丈夫?」


鼓膜を震わせる、無感情でクールな声。考えなくとも声の持ち主が誰だかすぐに分かった。


「あ、大月さん」


普段、教室では挨拶か授業に関する事務的やり取りぐらいしかしないので、こうしてまともに声をかけてくれるのは初めてのことだった。


聖名はつい嬉しくなって腰を上げた。しかし、それが気に入らなかった者もいる。茉莉花だ。


「『蛍川さん』は、今、私と話してんの」


ぴりっとした物言いにも関わらず、静海の表情は沈着だ。


「ね、聖名」


「え、あ、まぁ…」


上手な返しが浮かばず、曖昧な返事をしたことを後悔しているうちに、静海が真冬を思わせる冷ややかさで言った。


「それは見れば分かる。だから、今大丈夫なのかって聞いたんだけど」


「なに、その言い方」


「…何か問題があった?」


無表情のままの静海に対して、茉莉花は今にも憤りをぶちまけてしまいそうな顔つきだった。周囲のクラスメイトは興味を示してはいるものの、巻き込まれまいと距離を取っていた。


「あんた、いい加減に――」


このままでは、いらぬ揉め事が自分の前で起きてしまう。そうなる前に止めなくては。


そう判断した聖名は茉莉花の言葉を遮り、割り込むようにして静海に説明を始める。


「お、大月さん、えっとね、茉莉花は、『私と聖名が話をしているから、今は話に割り込まないでほしい』って言いたいんだよ」


急に自分の言葉を代弁した聖名に、茉莉花は怪訝な表情を向けるも、彼女はそれを気にすることはなく、静海としばし見つめ合っていた。


すると、ややあって、静海のほうから茉莉花に尋ねた。


「そうなの?」


無表情から一転、きょとんとした顔になった静海。その表情がうつったみたいに、茉莉花もきょとんとした顔になって返す。


「そ、そうだけど」


「…そっか」と途端に静海は踵を返す。


聖名がその背中に向けて、「大月さん、また後で声かけるね!」と明るい声で告げれば、静海は一度背を向けたままで頷いたが、ふと思い立ったように立ち止まると聖名のほうを振り返った。


「うん、分かった。待ってるね」


昨日お願いしたことを、また実践してくれている。


聖名はその真摯で律儀な振る舞いを見て、静海が自分との関係を大事にしようとしてくれていることを、理屈ではなく心で感じた。


(…嬉しいな)


口にはせず、胸のうちで呟く。


一触即発の事態かと思われた状況を、ほんの少しの言葉だけで丸く納めた聖名に、茉莉花や周囲の人間は何か魔法でも使ったのかと不思議そうな目を向けていた。だが、彼女からすればそうではない。もっと簡単なことだった。


知っていることしか知らないから、ああしたことが起きる。ならば、それが伝わるよう通訳をしてあげればいいのだ。


静海のことを知っている自分だからこそできる、『特別』な役割。


胸が踊った。


(私の、『特別』…)


昼休みなのに誰とも関わらず、ぽつんと座っている静海の背中を見つめながら、聖名はそんなふうに考えていた。




類は友を呼ぶ、という言葉があるから、静海は根拠もなく、聖名が紹介してくれる人物は、きっと彼女のように人畜無害で穏やかな気質の人だとばかり思っていた。


だが、現実はいつだって無慈悲なものだ。


「え、え?静海さん、なに?写真部入りたいと?っていうか、え?聖名、え?どういう関係なん?」


目まぐるしく表情を変えながら、聞き馴染みのない方言で喋る女子生徒を前にして、静海は辟易としながら眉間に皺を寄せていた。


「ちょっと、優奈ゆうな。色々と一度に聞かないで?大月さんが困ってるから」


聖名に苦言を呈されたのは、その友人でもあり、写真部部員でもある、金門優奈かなどゆうなだ。


好奇心旺盛そうなくりくりとした瞳は、どことなく小動物を思わせるが、とにもかくにも、無遠慮さのほうが目立った。


「え、困っとる?」


ぱっ、と目が合う。こちらを覗き込む瞳に、警戒心というものはなさそうだった。


「うん、普通に」


「ありゃぁ、ごめんね。怒らんでばい」


「怒ってはないよ」


優奈の洗礼を受けている静海は、早速、部活動に入ろうとしたことを後悔していた。しかし、聖名が気遣わしげに何度も、「大丈夫?」と聞いてくるものだから、ここで退却することもできそうにないなと考えていた。


「で、どういう関係なん?」


困っている、と確認したうえで再三の質問。自分とは生きているリズムが違う、となんとなく静海は腰に手を当てる。


「どういうって…普通だよ。普通の友だち」


「普通の友だちぃ?逆に怪しくない?それ」


「あ、怪しくないよ!」


「お、なん、急にムキになったやん。まさか、聖名ったら、私を差し置いて大人の階段を…」


「う、うぅ…」


自分にはたいして関係のない話だと、静海は事態を静観していた。しかし、聖名が赤くなって言葉に詰まり、俯いてしまったため自分から口を開くことに決める。


「優奈さん…だったよね」呼び名に反応し、優奈がこちらを向く。なにやら驚いているふうだ。「蛍川さんも、多分だけど困ってる。やめてあげて」


優奈は、「お、おぉ…」と変な声を上げて聖名から身を離した。


写真部の部室には他にも何人か生徒がいて、静海のほうを観察していた。ただ、彼女のことは、どうやら優奈に一任されているらしく、関わってくる様子はない。


後で聞いたところ、先輩たちも受験の準備で忙しいか、ほとんど幽霊部員状態であるらしく、だいたいこの程度の人数で部活動を行っているらしかった。


人が少ないに越したことはない。多すぎれば、そのぶんだけ問題が起きるリスクが高まるからだ。


そのうち、硬直していたように見えた優奈が、静海の周りをぐるぐると歩き回り始めた。


一体、何をやっているのかと彼女を観察していると、やおら、優奈が口を開いた。


「静海さん、声、かっこいいんやね。ってか、全体的に…ふむ、写真撮ってよか?」


「は?なんで」


「え?分からんと?」


「分からないよ」


「カメラ使いよると、こう…パッ、と取り出して、写真撮りたくなるときない?」


「あぁ…それはある」


流れる世界を見ていると、確かにそういう瞬間は多々ある。


暮れる夕日の前を、カラスが群れを成して帰っていくときとか。


真っ白い雪が降り積もって、静寂に満ちた古い寺の前を通ったときとか。


…そう、この間もあった。


ヤマボウシの下で、その紅葉の鮮やかさにも負けない朱に染まった、聖名の横顔を見たときだ…。


「やろぉ!それと一緒」


「…なるほど」


優奈の言葉で写生授業のことを思い出して、なんとなく、聖名を見やる。すると、彼女もこちらをじっと見つめていたのだが、普段はにこにこしている顔が今は険しい感じになっていた。


「どうしたの?蛍川さん」


問いかけられた聖名は、しばしの間、視線を右に左にと揺れ動かしていたのだが、ややあって、考えがまとまったのか、口を開いた。


「大月さん。初対面の相手に対して、いきなり下の名前で呼ぶのは失礼なことだよ」


「…そうなの?」


自分の知らなかったルールがここにも、と優奈を振り向けば、彼女はきょとんとした顔つきで、「初耳なんやけど」と小首を傾げた。


珍しく、聖名のほうが少数派である。


「常識だよ」


何気なく答えた聖名の一言が、静海の胸の奥の冷たい部分に触れる。


常識。嫌な言葉だ。


ずっと、それが自分の邪魔をしてきた。


他人の迷惑になっていようといまいと、それに反するだけで、こちらに牙を剥き、傷つけようとしてくるもの――それが、静海にとっての常識だった。


「そうは言っても、最初に下の名前で呼んできたのは優奈さんだけど」


「優奈の真似はしなくていいの。破天荒なんだから」


「なんだとぅ」と非難の声を上げる優奈を無視して、静海は聖名に噛みつく。


「蛍川さん、それは優奈さんに失礼なんじゃない?」


「だから、優奈さんじゃなくて、『金門さん』って呼ばなきゃ」


「優奈さんは別に気にしてないんだから、問題ないと思うけど。っていうか、今、初めて名字まで聞いたし」


淡々とした物言いで言葉を淀みなく紡ぐ静海。一方、聖名はとうとう言葉を詰まらせ、黙り込んでしまった。ただ、責めるような眼差しは依然として静海に向けられている。聖名にしては執拗で、やはり、珍しいことであった。


「ははぁ」不意に、優奈が得心したふうに声を上げた。「大月さんや、ここは聖名の言う通り、折れてあげましょうじゃないですか」


芝居がかった口調になった優奈を怪訝な目で見つめ返す。低い位置で二つに結った優奈の髪が、彼女が意味深に笑うのにつられて揺れる。


「どうして?」


「物事には、順序というものがありましてな」


「順序?」遠回しな伝え方に少しイラッとして、眉間に皺が寄る。「もっと分かりやすく教えて」


「ふふふ、眠り姫にキスをするのは、どこぞの村人Aじゃなくて、王子様が先ってことばい」


「はぁ…?もっと分からなくなったんだけど…。具体的に話して」


「えー?それは聖名が許可してくれんと、駄目とやないかなぁ?」


どうしてそこで聖名の名前が出るのだ、とますます意味が分からなくなっていると、自分の名前を出された聖名が、慌てて会話に飛び込んできた。


「あ、ちょ、ちょっと、優奈…!変なこと言うつもりでしょう、やめてよぉ」


「変なことじゃないやぁん」


楽しそうに笑う優奈と、顔を赤くして優奈の腕を抱きしめる聖名。


自分だけ蚊帳の外に押し出されたようで不服だったが、口を挟んでいいことなのかも分からなかったので、静海は事態を静観していた。


やがて、聖名をからかい飽きたらしい優奈が、「本題に戻ろっか」と写真部のことへ話を戻してくれた。


優奈の話をまとめたところ、写真部への入部はいつでも歓迎であるということであった。しかしながら、人の写真を撮る趣味がないことを静海から聞いた優奈は、コンテストでもない限り、学校の手伝いで人の写真を撮ることのほうが圧倒的に多いのだと改めて忠告した。


それに興味がないのであれば、無理して部活動に入るより、個人で楽しんだほうが気楽かもしれない…そんなふうに合理的に説明できる優奈のことを、静海は正直、意外に思った。


「…どうするの、大月さん」


上目遣いになって、聖名が下から尋ねてくる。


次第に弱くなりつつある陽光を受けて輝く聖名の瞳を見て、やっぱり、カメラがここにあれば…と惜しく感じた。


「私、人には興味ないからね」


すると、断るつもりで口にしていた言葉を優奈が遮った。


「いやいや、結論を急ぐことはなかよぉ?意外と食わず嫌いかもやし」


「…そうかな」


「うんうん、可能性を検証してからでも遅くないけん。そうやろ?」


それもそうだ、と頷けば、優奈はなぜか嬉しそうに破顔し、一つの提案をした。


「じゃあ、今度の日曜日にでも、早速検証してみたらいいやん!」


「検証って言っても、道行く人を撮るの?本当にどうでもいいんだけど」


「んー…それは失礼になったりするけんねぇ」


ちらり、と優奈が聖名のほうを一瞥する。


「あーあ…どこかに大月さんと家が近くて、写真の被写体になってくれる可憐な少女はおらんとかなぁ?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る