第4話 知っていること、知らないこと.4

「どういうこと、聖名」


 昼下がりの学生食堂にて、聖名は美味しそうなオムライスとあからさまに不機嫌そうな茉莉花を前に、半ば辟易としながら作り笑いを浮かべていた。


「どういうことって…えっとぉ、何が?」


「誤魔化すな。分かってるでしょ、オオカミのことよ」


 茉莉花は、何かとこちらの交友関係に口を出す人間だったから、こうなることは予測できていた。しかも、普段は駅を出たあたりで一緒になった他のクラスメイトと通学してくる聖名が、自分の気に入らない静海と共に教室に入ってきたのだから、面白くはないのだろう。


 態度の大きさのわりに食の細い茉莉花は、曖昧に笑ってごまかそうとする聖名に真っ直ぐフォークを向けた。彼女の昼食はナポリタンだ。


「何?オオカミと友だちになったって。聞いてないんだけど。なんで?」


「まぁ、成り行きで…」


「どんな成り行きよ」


 聖名は満員電車での一件は伏せて、校章を拾ってもらったことを茉莉花に伝えた。伏せた理由としては、単純に自分が恥ずかしかったのと、せっかくできた甘酸っぱい思い出にケチをつけられたくなかったからだ。


「ふぅん」


 すると、茉莉花は納得したような、納得していないような顔をして、横向きに大きく足w組んだ。


 短いスカートでそんなことをするから、白い太腿が大胆にも覗いた。その性格の苛烈さから、男女問わずに恐れられることの多い茉莉花だったが、蠱惑的な白の輝きに色々な人の視線を浴びている。


「…なんかやたらと気にかけてると思ったら、そういう経緯があったわけね。へぇ、人見知りの聖名が、勇気を出したわけねぇ」


「あはは、含みのある言い方だなぁ」


 軽く受け流すくらいの気持ちでそう言えば、じろり、と茉莉花に見つめられた。


「それで?結果として、公衆の面前でお手々つないだわけ?」


「ちょ、ちょっと言い方…」


「事実でしょ。聖名たちが教室に入ってくるまで、その話題で持ち切りだったよ」


「私は、友だちになってもいいよって言ってもらえたから、握手しただけ」


「はぁ?何その言い方。『なってもいいよ』って。聖名みたいに可愛い子と友だちになれるのに、なんで上から目線なのよ」


「いやいや、可愛くないし――というか、そんな感じだったってだけだよ。全然、上からとかじゃなかったし」


「…やたらと庇うじゃん。聖名」


「茉莉花こそ、なんかしつこいよ?どうかしたの?」


 女王気質の茉莉花に、『しつこい』なんて面と向かって言えるのは、聖名くらいのものだった。彼女でなければ、即刻罵られることだろう。


 一瞬だけ茉莉花はムッとした表情を覗かせたが、そのうち、フォークでナポリタンをぐるぐる巻きにしながら机に突っ伏すと、唇を尖らせて言った。


「…私、聖名の親友だよね」


「え…う、うん。そうだよ」


 気恥ずかしかったが、素直に答える。こんなことで答えに窮したくない。


「親友って、他の誰よりも仲良いんだよね」


「そうだろうね」


「…オオカミよりも?」


「ふふ、なにそれ?っていうか、変なあだ名は駄目だよ、もう私の友だちなんだから」


「答えてよ」


「言い直さないと答えません」


「…大月静海よりも、大事?」


「はいはい、茉莉花のほうが大事だよ」


「なによぅ、駄々っ子みたいな扱いして」


「ふふ、だって、今の茉莉花、子どもみたい」


「ちぇ」


 がばっ、と上体を起こした茉莉花は、少しだけ頬を赤らめていた。十分、子どもみたいな真似をしたと自覚があるのだろう。


 やがて、茉莉花は聖名がオムライスを頬張っているのをじっと見つめていたかと思うと、頬杖をついてそっぽを向いてから、独り言のようにぼやいた。


「高校生になってから、手なんてつないだかな」


 それを聞いて、聖名はつい吹き出しそうになった。


 こんな場所で口の中のものを吐き散らかしたら、大惨事になる。


 どうにか留まり、急いで水を飲むと、こちらを心配そうな顔で見つめてくる茉莉花に対し、聖名らしからぬ大きな声で笑った。


「あはは!なぁに、茉莉花ってば。もしかして、私が大月さんと手をつないだから嫉妬してるの?」


「あ、え…あぁ!?なによ、それ!違う、違うわよ!」


「うふふ、嘘だぁ。顔、真っ赤だよ」


 普段は向けられることのない荒っぽい言動を受けても、聖名は幸せそうに笑っていた。こんなことで嫉妬したり、顔を赤くしたりする幼馴染のことを面白く思ったのだ。


「真っ赤になんてなってない!あれだから、ナポリタンのケチャップだから!」


「はいはい」


「はいはいって、分かってないでしょ、聖名!」


 フォークの先端をこちらに向けて憤る茉莉花は、たしかに傍目から見ると恐ろしい生徒かもしれない。


 しかし、聖名は知っている。茉莉花は不器用なだけで、本当は優しい人間であることを。


 適当にあしらっているうちに、茉莉花は暖簾に腕押しであることに気づいたらしく、舌打ちをしてから再び食事を始めた。


「可愛いね、茉莉花」


 聖名は、ただ思ったことを他意なく伝えただけだったが、茉莉花のほうはその賛辞を受けて頬を染めると、「うるさい、馬鹿」と目を逸らした。


 子どもみたいに互いの友情を確かめ合う茉莉花を、聖名は一人の友人として愛おしく思うのだった。




 ひらひらと舞い落ちてくる紅葉したヤマボウシの葉を見上げ、鉛筆を走らせる。


 紅葉観賞は秋の醍醐味だ。講座のなかに写生大会のある古めかしい学校でなによりであった。


 絶えず流れ続ける時間のなか、こうして、ふと立ち止まって季節の瞬きを感じられることを、静海は本当に嬉しく思うし、日本人に生まれたことを多大な幸福と思えた。


(本当は、写真に収めたいんだけど…そうもいかないな)


 一度学校側に頼んだことがあるが、高級品だから、盗難の危険性を鑑みても許可が難しいと言われた。


 写真という美しいものを嗜む行為が、あるべきルールを守れない人間の唾棄すべき行為のために縛られるというのは、どうにも許しがたい気がしたが、命よりも大事な祖父の形見を盗まれるかもしれないというのは、到底耐えられない話だった。そのため、静海は大人しく規則に従っている。


 自分を納得させられるだけのものがあれば、比較的静海は社会というものに従順だった。


 今は学校という小さな枠のなかだが、やがて社会という大海に漕ぎ出しても、きっとそれは変わらないだろう。むしろ、ルールを破ることをアイデンティティとしているものが少ないぶん、そちらのほうがマシかもしれない。


 和色に彩られるヤマボウシを白の上に落とす。


 風が吹く度に揺れる影、そして、葉の囁き声…。


 自分に優しいのは、いつだって風景。


 時と共に緩慢に変わっていく景色だけが、余計な神経を使わせずにいてくれる。


 ふぅ、と静海は息を吐いた。そうして、再びヤマボウシをうっとりとした目で見上げていると、突如、後ろから誰かが自分の名前を読んだ。


「大月さん」


 聞き覚えのある、柔らかで優しい声。


 振り向かずとも分かったから、顔を正面に向けたままで静海は答える。


「何か用、蛍川さん」


 指先を動かしながら尋ねると、ぴたり、と後ろから聞こえていた足音が止んだ。


「あ、お邪魔だった…?」


「いや、別に邪魔じゃないけど。なんで?」


「…だって、こっち、向いてくれないから」


「あぁ」と静海は振り向く。「そっか。みんなはそういうものか」


 そうすることで、ようやく蛍川聖名と目が合った。


 いつもは長い髪を結ばずに垂らしているのだが、今日は違った。わずかに編み込みを入れていて、少し幼いが、可愛らしい印象だった。


 不安に揺れる眼差しが、徐々に穏やかな色を取り戻していくも、静海にそれは理解できず、「これでいい?」と単調な口調で聖名に確認を取った。


 聖名は少し怯んだようだったが、すぐに朗らかな笑顔を浮かべると、明るい声で相槌を打ちながら、「ありがとう、大月さん」と言って静海に近寄った。


「あの、隣、いい?」


「…それって、私の許可がいること?」


「え、えぇ…?うん、まあ…?いや、どうだろう」


「…とりあえず、郷には従っとく。ということで、どうぞ」


 聖名は少しばかり困惑した様子だったが、だからといって去っていくことはなく、そのままお礼と共に静海の隣に膝を抱えて腰を下ろした。


 ふわり、と甘い匂いが秋の風に乗って漂ってくる。


 電車で嗅いだものと同じだ。自然と警戒心が薄れるような、リラックスさせてくれる香りである。


 何か用があるのだろう、と静海は聖名の横顔をじっと見つめた。


 聖名はこちらの視線に気づかず、両膝に顎を乗せて赤い落ち葉溜まりを見つめているようだったが、そのうち、ちらり、と静海のほうを覗き見た際に視線が交差して、あっという間に頬を紅潮させた。


「あ、え?なに?」


 木々の紅葉にも負けない、色鮮やかな赤。


 綺麗だ、と静海はなんとなくそう考えた。


 今、カメラがここにないことが悔やまれた。そうしたら、すぐにでも聖名の横顔を写真に閉じ込めたことだろう。


「え、それはこっちの台詞だよ?」


「あ…うぅ」


 かあっ、とさらに頬が染まる。


 それは静海に、とある日の夕焼けを思い出させた。


 写真に切り取り、永遠に封じ込めてしまえばよかった、あの日の夕焼け。


 なかったことにしたいのか、と静海は表情にも出さず自嘲する。


 そんなことで、今更何が変わるというわけでもないくせに。


「ごめんね、大月さん」


 聖名のしょぼんとした声にハッと我に返る。


 どうやら、考えてもどうにもならないことを考えていたらしい。


「なんで謝るの?」


「じろじろ、見てたから…」


「…別に、気にしてない」


 静海は再び写生に意識を戻そうとしたが、隣でそわそわして落ち着かない様子を見せる聖名のことが気になってしまい、ため息と共に一度鉛筆をスケッチブックの上に置いた。


「書かないの」


「…書く」


「そう」


「あの…邪魔?」


「だから、邪魔じゃないって。私、邪魔なら絶対にそう言う」


「そっか」


 少しだけ嬉しそうに口元を綻ばせる聖名は、緩慢な動きで真っ白のスケッチブックを広げ、深呼吸しながら、ヤマボウシの木を仰ぎ見た。


 感嘆しているように、口がぽかんと開いている。綺麗なピンク色の唇を見て、静海は自然と春の柔らかな桜を思い出した。


「この木、とっても綺麗だね」


「そうだね」


 これには違和感なく同意できた。


「公園のほうのイロハカエデも、びっくりするくらい綺麗だったけど、私はこっちのほうが好きだな」


「イロハカエデ?」


「そう。ほら、みんなが集まっていた辺りの」


「あー…あれって、イロハカエデって言うんだ」聖名は呑気な声を発すると、「物知りなんだね、大月さんは」とはにかんだ。


「そうでもない。ただ、知ってるだけ」


「えっと…それを物知りっていうんじゃないのかな?」


「違う。たまたま知ってるだけで、博識ってわけじゃない」


 静海はきょとんとした顔の聖名を見て、真面目腐った調子で続ける。


「人間は知っているだけのことしか知らない。自分の価値観や感覚、想像を通してしか物事を感じられない私たちにとって、それはあまりにも大きな意味を持つよ」


「え、っとぉ…」


「…つまり、全部が自分基準ってこと。だから、比較にはたいした意味もない」


 静海は、どこをどう見たって理解できていないだろう聖名に対し、できるだけ分かりやすく自分の考えを伝えたつもりだった。しかし、彼女は一生懸命頭を回転させている様子ではあったものの、ちんぷんかんぷんなようだ。


 聖名の思考がまとまるのを待つ合間に、ヤマボウシのスケッチに勤しむ。


 西日に透ける葉の美しさは、とても自分の画力では描写できないな、と残念がっていると、ようやく聖名が口を開いた。


「とにかく、大月さんはすごい」


「ふふっ、なにそれ」


 やはり分からなかったようだ、と思わず笑ってしまう。すると、それを見た聖名がとても驚いた顔をしてみせた。


「笑った…」


「今みたいに言われたら、それは笑うでしょ」


 人をロボットか何かかと勘違いしていないかと心外に思ったが、直後、聖名が見せた可憐な笑顔を目の当たりにして、どうでもよくなった。


「あはは、そうかな、ごめんね」


 とても嬉しそうに笑う人だ、と目の前の相手のことを分析する。


 蛍川聖名という人間は、決して派手な笑い方をする人間ではない。むしろ、奥ゆかしいはにかみ顔のほうが多く見られるタイプだ。


 だからこそ、こうして大輪の花のような笑顔を見せられると、そのギャップに感心させられるような心地になってしまう。


「ねえ、大月さん。もしかして、この木の名前も知ってるの?」


「もちろん。この木はヤマボウシ」


「へぇ、すごい。じゃあ、あっちは?」


「あっち?」


「そう、あの白い石の正面の木」


「ああ、あれは――…」


 静海は、久しぶりにこんなに長いこと他人と会話していた。


 自分と話したって、面倒なだけだろうに…という気持ちが絶えずそばにある静海だったが、聖名の楽しそうな表情に欺瞞があるとは思えず、自然と警戒心を緩めて会話を楽しんでいた。


 やがて、遠くから美術教師の声が聞こえてきた。そろそろ時間だから、集合場所に戻るようにということだ。


 もうそんなに時間が経っていたのか、と驚いていると、同じようなことを聖名が口に出して言った。


「え、嘘、もう時間なの…?」


「そうみたいだね。行こう、蛍川さん」


「うん…」


 すると、さっきまでの幸せそうな様子が嘘みたいに、聖名の面持ちが沈んだ。とても残念そうに見えたが、どうしてそんな顔をする必要があるのかは静海には分からなかった。


「どうしたの、蛍川さん」


 聖名はわずかに逡巡してから答えた。


「もう少し、大月さんとこうしていたかったな…」


 なんてね、と照れたように笑う聖名。


 静海は、それを見ていると、どうしてかわけも分からず胸が締め付けられるような気持ちになってしまった。


 誰かに期待しかけている。


 そんな自分を認識して、馬鹿な真似はよせ、と心が吐き捨てる。


 いつもは耳を貸せる忠告が、今は葉の隙間を縫って流れる秋の風のように聞き流してしまう。


「…変わってるね、蛍川さん」


「え?な、なんで?」


「私と友だちになりたいって言ってる時点で、絶対に変わってるよ」


「そうかなぁ…」


 スケッチブックを畳みながら、二人は立ち上がる。そして、互いに向き合うと、聖名のほうから自然と口を開いた。


「でも、それを言うなら大月さんだって、変わってると思うけどなぁ…。みんなとは何かが根本的に違うっていうか…――あ、悪い意味じゃなくてね」


 刹那、静海は温まりかけていた心にすうっと冷たいものが流れ込んでくるのを感じた。


 聖名に悪気はないのだと分かっている。だが、どうにもこらえきれないものが静海のなかにはあった。


「勘が鋭いね。私は実際に変わってるし、みんなとは違うよ」


 ほんのわずかに綻びかけていた口調が、元の冷淡さを取り戻す。聖名もその変化に気づいたのだろう、急に表情を強張らせた。


 普段なら、他人なんてどうでもいいから説明しようとも思わない言葉が、静海の口から苦悶の呻きのように飛び出す。


「私は、障害者だから」


「しょ…」


 聖名の絶句が、さらに静海の心を揺さぶった。


 愛の告白か、殺人予告か。


 それほどまでの告白を受け取ったみたいな反応だ。


「ASD――自閉症スペクトラム…知ってる?蛍川さん」


「あ、え、いや…」


「だったら、私たちがどれだけ苦労してるかは知ってる?」


 言葉も出ないまま、青ざめた聖名が首を左右に振る。


 聖名は、賢明に静海の心に応えようとしていた。


 だが、静海にはそれが分からない。


 ふっ、と静海が嘲笑を洩らした。


 聖名の良心を打ちのめす、暗い微笑だった。


「ほらね?私たちは、『知っていることしか知らない』んだよ」

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