無愛想で、空気が読めない、発達障害の愛しい彼女。
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一章 知っていること、知らないこと
第1話 知っていること、知らないこと.1
五両列車の一番後ろの車両の、さらに一番後ろのドア。駅に列車が到着しても、終点まで開くことのないドアの前。
そこが『彼女』の指定席。いわゆる、いつものポジション。
たいして手入れをしているようには見えないのに、艶やかな光をまとう癖毛っぽい黒髪。
すらりと伸びた、無駄な脂肪のついていない四肢。
窓の外を睨むように眺めている、丸々とした瞳。
美しく、気高い狼を彷彿とさせる少女だった。『彼女』――
秋口の車内は、寒いような暑いような、よく分からない空気感でいっぱいだったが、静海の周りだけは、一際強い冬の冷気が巡っている気がした。
ガタン、ガタン…と規則的なリズムを刻んでいる車輪の音。
他人という他人が詰め込まれたこの空間に、居心地の良さなどまるで見当たらない。聖名は経験したことはなかったが、都心のほうの満員電車はもっと人間らしい時間を奪われるのではないかと、彼女は勝手に考えていた。
聖名が使っている電車はローカル線。通勤、帰宅ラッシュの最中にはさすがに席に座れるかどうか怪しいくらいは混むが、少し早めの時間に家を出れば、座席は普通にがらんどうだ。
それにも関わらず、静海はいつもあの場所に立つ。そして、窓の外を流れる毎日代わり映えしない風景を鋭い目つきで眺めるのだ。
聖名が、自分とは違う世界が見えているのだろうかと思いたくなるほど、静海は毎日それを繰り返す。
(大月さん、今日もクールだ…)
携帯の画面はすでに自動で消灯しており、その半透明の黒には、ぼうっと静海を盗み見る聖名の顔が映っていた。
周囲には、聖名と同じ制服に身を包んだ少女たちがチラホラといて、誰も彼もが右にならえするように、手元の携帯に視線を落としている。
それは他の乗客だってそうだ。
疲れた様子のサラリーマンも、優先席に座る妊婦も、大学生らしい青年も…。一様に、携帯を見つめている。
かくいう、聖名だって普段はそうだ。例外は…静海と一緒になるこの空間、この時間だけ。
朝7時45分すぎの電車のなかだけは、いつも伏し目がちになる聖名の瞳は持ち上がり、大月静海をこっそりと捉える。
高校に着いても、まだ時間に余裕が生まれてしまうこの電車に聖名が乗るのは、全てこのためだ。
一方、静海の猫のような両目が捉えるのは、目まぐるしい変化を見せる携帯の画面ではなく、流れて行く田舎の風景。
場所によってはビルが立ち並ぶ景色も見られるが、基本的には林や山、田園風景だ。
そんなものを見ていて、何が楽しいのだろうかと不思議に思うが聖名も人のことは言えないのが現状だ。
そうしているうちに、車内に終点到着のアナウンスが流れる。
乗客の何人かが早めに席を立って出口側の扉に並んだが、聖名も静海も動かない。聖名はある程度人が少なくなると立ち上がるが、静海は本当に最後まで動くことはない。
聖名は毎朝電車から降りるとき、『もう少し粘ってたら、大月さんと一緒のタイミングになるかな…』と迷っては諦めてを繰り返していた。
それは今日も変わらない。
電車が止まったって、静海の瞳の奥には魅力的な何かが映っているのだろうと言いたくなるくらい動かない彼女を置いて、聖名は降車する。
聖名にとって、気分的に置いて行かれているのは、いつだって自分のほうだった。
後ろ髪引かれて、何度も古ぼけた赤い列車を振り返る。
朝の太陽光が窓に眩しく反射するから…聖名の目に、静海の姿は見えなかった。
とにもかくにも蛍川聖名は、猫も杓子も首を折って携帯に夢中になっているなか、窓の外の風景を目で追い続ける大月静海のことが気になって仕方がなかった。
高校1年の秋――季節の移ろいが、葉を染め、町を染め、そして人を染めんとする季節のことだ。
「あぁ、オオカミね」
教室でなんとなくを装って振った話題に、聖名の昔からの友人である
「ちょ、ちょっと茉莉花…」
『オオカミ』というのは、無論、狼のことではない。大月静海――『オオ』ツキチ『カミ』をもじり、陰で呼ばれているあだ名だった。
名前の由来は、クラスにおいてどのグループにも属さず、親しい友人を作ろうともしない、一匹狼然とした姿にある。単純に、目つきや身長、言動の無遠慮さから恐れられて付けられたという側面もあるが。
「茉莉花ってば、やめなよ…。大月さんが聞いたら嫌な思いするかもだし」
「大丈夫だってぇ。どう考えたって、周りの意見なんて気にしてないよ、あの女」
「口が悪いなぁ、もう」
「ふふっ、今に始まったことじゃないでしょ」
ふわり、とバニラの香水の匂いを漂わせながら、得意げに笑う茉莉花に、確かにそうだと聖名は静かに頬を綻ばせた。
「高校生になっても変わらないね、茉莉花」
「それはお互い様だよ、聖名」
茉莉花とは、小中学校からの付き合いだ。
引っ込み思案で言いたいこともきちんと口にできない聖名に比べ、茉莉花は男の子にもくってかかる気の強さを持っており、よくちょっかいを出されていた聖名を守ってくれる頼りになる存在だった。
周囲には、茉莉花と聖名が仲良くしていることを不思議がる声も多い。そのなかには、強引な茉莉花に聖名が無理やり付き合わされていると誤解する者もいるが、そうではない。彼女らは互いに互いの意思でそばにいた。
初めは茉莉花をシェルターとして使っていた聖名も、茉莉花の奔放さ、無謀さを止められる数少ない人間になったし、ともすれば心が荒んでしまいそうな家庭環境にある茉莉花が道を外れないための歯止めにもなった。
茉莉花も、初めは聖名を自分のヒロイックな願望を満たすために無意識的に利用していたが、次第に聖名の世話好きなところ、愛情あふれる家庭に育った者特有の、黄金をまとう穏やかな優しさに惹かれ、彼女の隣が定位置になっていった。
「で?オオカミがどうしたのよ」
椅子に座った茉莉花が足を組み替えてそう尋ねた。あまりしたくない話題なのだろうが、それよりも、短くした制服のスカートから覗く白く健康的な足のほうが気になった。
「えっとぉ…」
どうしたのか、と問われると上手く言葉が出ない。いつものことである。
聖名はどういった言葉が自分の気持ちを的確に表現し、齟齬なくそれを伝えられるかを考えると、いつだって頭を抱えてしまいそうになる。
大概の場合、そうして自分の本当の言葉を探しているうちに相手が話題を勝手に変えたりするのだが、茉莉花はそうではない。
「うん」
勝ち気な顔立ちから感じる印象とは違い、我慢強く、聖名の言葉を待ってくれるのだ。
「ゆっくりどうぞ」
余裕のある笑み。茉莉花がスクールカーストで位置する場所のために得られている余裕以外のものが、確かにそこにはある。
「お、大月さんって、仲良い友だちとかいるのかなぁ?」
どうにかまとめた言葉に、一瞬で茉莉花の表情が曇った。
「知らないけど…いないでしょ、あんな空気の読めない奴に親友なんて」
鋭い言葉の刃にきゅっと胸が痛くなる。聖名自身、周囲から受けたことのある敵意だ。
「あ、あはは、相変わらず辛辣だね」
「いーのよ。私、あいつに『邪魔』って言われたことあるんだから。オオカミが後ろに立ってるのに気づかなかっただけでね」
「そうなんだ」何回聞いたか分からない話に適当な相槌を打つ。
「オオカミっていえば、一、空気が読めない。二、言動がいちいち刺々しい。三、人の顔より外を見てる。あと…あぁ、四、男子並みに背が高い。――ほら、こんな奴、友だちできないわよ」
二と四については茉莉花も人のことを言えないと思ったが、聖名はそっと言葉を隠し、曖昧に微笑みながら、また適当な相槌を打った。
茉莉花の目にも、自分とは違うものが見えているようだった。
聖名から見える大月静海は、『孤高』という言葉が人の皮を着て生きているような人間だった。
もちろん、茉莉花が並べた特徴だって的外れなものではないが、それは『孤高』に生きるうえでの副産物にすぎず、静海の本質ではない気がする。
それを上手に言葉に変えて説明できそうにないと判断した聖名は、このくらいで話を変えようと次の話題を考えていた。すると、程よい話が浮かぶより早く、茉莉花が心配そうな面持ちで小首を傾げた。
「…なに、オオカミに何か嫌なことされたの?」
聖名の机を挟んで、ずいっと前のめりになる茉莉花。
何事も大人の言うことに縛られるのが嫌いな茉莉花は、それを象ったみたいな校則を守らないことをアイデンティティにしているみたいで、いつも胸元のボタンは2つくらい空いていた。スカートだって、規定よりだいぶ短い。
こんなにも下着が見えそうにもなっている――というかたまに見えるのに、それを踏まえても得られるもののほうが大きいと思えるのが、なんだか聖名には信じられないことだった。
一度それを尋ねたところ、誇らしげな顔で、『ポリシーなの』という言葉を貰った。それから、ニヤケ顔で、『どこ見てんのよ、スケベ聖名』とからかわれたのを覚えている。
追憶もそこそこに、聖名は顔の前でゆっくりと手を振る。
「違うよ、いつも一緒の電車だから、なんとなく気になっただけ」
「なんとなく、ねぇ?」じろり、とこちらを探るような目を向けられる。それに対しても曖昧に笑って答えているうちに、茉莉花は、「じゃあ、いいけど。なんかされたら、すぐに言いなよ」と次は腕を組み、椅子にふんぞり返るように姿勢を変えた。
茉莉花がやると、生徒の誰もが座るただの椅子が女王の椅子に見えるから不思議である。
「うん。いつも頼りにしちゃって、ごめんね?茉莉花」
「ふ、いつものことでしょ。それに、そういうときは『ありがとう』よ。聖名」
優しく笑う親友に諭され、聖名は改めてとびきりの笑顔で、「ありがとう、茉莉花」と言い直すのだった。
秋が穏やかに深まりつつある朝、聖名はいつもの電車に乗るべくホームの階段を上がった。
その時点から、何かいつもと違う雰囲気を感じていたが、開けた場所に出てようやく、人が異様に多いことに気がついた。
(うわぁ、どうしたのかな。前の電車の出発が遅れちゃった?)
稀にあることだった。人身事故や急な点検などで前の電車が遅れてしまい、そのしわ寄せが後続に来ているのだろう。
朝から運が悪いな、と思いつつも、長く伸びた列に並ぶ。先頭を見やれば、いつもどおり、静海の姿があった。
(大月さん、こんな日でもいつも通りクールだ…)
しゃんと伸びた背中を携帯の画面と交互に見比べているうちに、電車がやって来た。いつもとは違う変な時間だ。やはり、出発時刻がずれていたらしい。
中に乗っていた人が一斉に降りてくる。都市部ではないとはいえ、こういうときは怒涛のような人波である。
ようやく乗車できるようになったので、列に続いて前に進む。
今日は座れそうにないなぁ、と考えていた通り、あっという間に座席は人で埋まった。
(しょうがない。今日は通路のほうに――)
窮屈ではなさそうな場所を探すも、後ろから来る人の波に押され、それもままならなくなる。そうして人に圧倒されている間に、気づけば、聖名は静海の真正面に押しやられていた。
閉塞感を感じさせない、静海のすました横顔がすぐそこにある。相変わらず、周囲の人間の姿など視界に入っていないかのように、彼女の瞳はただ一点、窓の外に注がれていた。
秋の青い空が滲んだ、アクアブルーと黒の瞳。
色鮮やかだと思った。その中に飛び込めば、自分にも彼女と同じものが見えるのなら、是非ともそうしたい…と考えるくらいには。
少しきつい姿勢のまま、電車は動き出した。
触れるつもりがなくても、触れてしまいそうな距離感に高鳴る心音は、レールの軋む音と車両の弾む音にかき消される。
下から、静海の顔を覗き込む。
聖名自身が160センチ弱あるから、角度の急さ加減から計算して、静海の身長は170センチ近くあるのではないだろうか。静海より少し小さそうな茉莉花で160センチ後半はあるから、おそらく的確な目算だ。
鋭い目つきに仏頂面。自分以外を自分の世界に入り込ませない孤高に、聖名はきゅっと唇を結んで瞳を伏せる。
(…かっこいい。こういう人が、女子校とかで王子様扱いされるのかな…。いや、でも、愛想は悪いしなぁ…でも、そういうところも悪くなかったり…)
手にした携帯の画面が聖名の視界に入る。電車が動き出してからずっと操作してない画面は透き通る黒に染まっており、その水面に聖名のそぞろな顔つきが浮かべていた。
そうして落ち着かないままに、電車は二つほど駅を通過していた。すでに、乗車人数ギリギリといった感じで、車内は人々の言葉を抑え込むように窮屈である。
これ以上人が増えたら、周りの人にもたれかからずにはいられないのでは、と心配していると、案の定、次の駅で車内は飽和状態を越えた。それこそ、乗れない人が出てくるほどだった。
それにより、聖名はほとんどつんのめった姿勢になってしまっており、ぷるぷるとふくらはぎを震わせながら立っていた。
(う、うぅ…朝から、なかなかにハードだよ…)
幸い、次の駅ではいつもたくさんの人が降りるので、それまで我慢すれば少しは楽になる…のだが、駅と駅の距離がかなり開いていて、また当分かかりそうだった。
静海は大丈夫なのだろうか、と顔をわずかに上げる。彼女は終着駅まで開かないドアにもたれかかっているので、余裕そうだった。
不意に、ガタン、と車体が大きく揺れた。
(わっ)
その衝撃で姿勢を維持するのが困難になった聖名は、遂に前の乗客へ倒れかかることになった。
そう、つまり…。
弾かれたようにパッと顔を上げれば、常に景色を映し続けていた美しいオブシディアンが自分を捉えていた。
真っ直ぐ自分を見下ろす、大月静海と目が合う。
唖然として瞳を見開いた聖名とは打って変わって、静海は表情一つ変えず、止まった時のなかで呼吸しているみたいに無表情だった。
自分の状況を改めて考え直せば、静海が怒っていることは当たり前だ。
聖名は、無駄な脂肪が一切ない静海の両腕に掴まっていた。しかも、上から押さえつけるようにがっしりと。聖名が細身で非力だからいいものの、そうでなければ、かなり危うい状況だ。
「あ、あの」反応がない。
頭のなかが不安でいっぱいになった聖名は、慌てて態勢を戻そうと足と腰に力を入れた。しかし、なだれかかる人の力に抗うことはできず、少しでも静海にかかる自重を軽くすることで精一杯だった。
きつい姿勢だ。足はぷるぷるしているし、腰もピリピリしてきた。
(が、頑張れ私…!)
嫌われたくない、これ以上、迷惑をかけたくない。
そんなことを考えていると、おもむろに頭の上から、低く、淡々とした声が響いてきた。
「無理せず、よりかかっていいよ」
え、と再び顔を上げる。
静海は相変わらず、無表情のままこちらを見下ろしている。そのため、幻聴だったかと俯いて同じ姿勢を保てば、唐突に聖名の体が静海によって引き寄せられた。
「わっ」電車のなかだが、つい声が漏れた。
聖名は初めのうち、この金木犀みたいな甘い香りと柔らかさの正体が一体なんなのか、まるで分からなかった。だが、段々と体にかかっていた負荷が消え、姿勢の維持に意識を割かなくてよくなったことで、自分の状況をハッキリと認識し始める。
ゆっくりと顔を上げる。先ほどよりもずっと近くに大月静海の顔があった。
甘い匂いは、静海の匂い。
柔らかな感触も、静海の胸の膨らみが成す感触。
抱きとめられている、あの大月静海に。
「…ごめん、なんで無理するのか分からなくて。引き寄せた」
あまりに寡黙なので、ほとんど声を聞いたことがなかったが、聖名が想像していたよりもずっと柔らかな口調であった。
言葉を紡ぐこともできなくて、ただ、呆気に取られた表情で静海を見上げていると、それを不思議に思ったらしい静海が言葉を重ねた。
「もしかして、迷惑?」
「え、あ、いや、全然!」
自分が何も反応を示していないことに今更ながら気がついて、慌てて返事をする。
「そう」
静海は、話は終わりだ、と言わんばかりに顔をまた窓の外へと向けようとした。それがあまりにももったいなく思えて、聖名はまとまらないままに言葉を発する。
「お、大月さんこそ、迷惑かけてごめんね…!は、早くどくから」
「迷惑?」すぅっと、またこちらに視線が向く。それがとても嬉しかった。「迷惑って、何が?」
「よ、よりかかっちゃってるから…」
「ああ」と淡白な返事。「こんなの迷惑のうちに入らない。…蛍川さん、華奢だし、それにまだ、足に力入れてるでしょ。無理しないでいいって」
「な、名前――」
さらに、ぐいっと引き上げられる。
楽になる体と反比例して強くなる匂いと感触に、聖名は体が熱くなっていくのを感じていた。
恥ずかしい、というだけでは言い表せない感情と共に、恋人にしか許されないのではという距離から静海を上目遣いに見つめる。
「…私の、名前」
あぁ、言葉がまとまらない。もっと、伝えたい気持ちがあるのに。
「名前?」と静海が小首を傾げた。「そ、そう、名前…知っててくれたんだ…って」
「あぁ、そんなこと。クラス一緒だし、電車だってずっと同じだから、さすがに覚えてるよ」
そんなことじゃないよ、という気持ちがぐるぐる頭を巡っていると、静海が事もなげに続ける。
「蛍川聖名さん…だったよね。覚えてる、ちゃんとフルネームで」
私も覚えてるよ、と言いたかったのに、言えなかった。
驚きと喜び、それから、ほんの少しの後悔を胸に、聖名はきゅっと目を閉じた。
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