第20話黒椿


 教室内に異様な緊張感が漂っている。


 なぜなら、中性的なエルフ、新学院長が授業の視察に来たからである。


「他国の大学から異世界文学部の新設を望む声が多く出ています。そのために視察の申請が多くて。視察するとすれば、我が国の異世界詩学の権威であるアシモフ先生の所となるわけですが、さすがに学院長である私が、その授業内容も知らず視察を了承するわけにもいきませんので」


 と、言い、一番前の席に並んで座る『血殺し』と〃聖女〃の横に並んで座り、ニコニコ笑みを浮かべている。


 飼い主は権威に弱い。


 学院長の視線に、ムズムズやりにくそうな仕草をしながら、授業を始めた。


「今日は詩学の骨子、発想・配置・修辞・記憶・発表のうち、修辞の話しをします。

 修辞には、文体、体制、表現術、表現法を含みます。

 その中から、レトリックの本質、比喩の話しをします」


 吾輩とベルフェゴールは、教卓の上に寝そべり、日の光を腹に当てる。エルフの使い魔である鼠も仲間に入れてやる、友達なのでな。


「比喩表現の基本は二つに大別できます、それは隠喩と換喩です。

 隠喩とは内包するもの。

 換喩とは隣接するもの。

 そのように覚えてください。

 例えばこの黒猫」


 飼い主は吾輩を抱きあげる。


「隠喩的に表現するなら、『私の黒椿』となります。

 換喩的に表現するなら『私の日向ちゃん』となります。

 黒椿のような美しさはベルの中に内包されていて、日向はベルに隣接しているからですね。

 このように、比喩表現は、内包と隣接を基本とします。

 これは単語生成の基本です。

 嬉しい時、嬉しいと書き、悲しい時、悲しいと書くと、読者の脳で言語の関門を通るとき、嬉しいや悲しいは記号化され過ぎていて、読者それぞれの、記号バッケージが反復的に開き、一個人としては単一的な感情の形を現象にします。

 それぞれ個別の脳内で、それぞれ個別の記号パッケージが、別々の現象をおこす。

 それも個人の中では毎回同じ、単一的な現象をおこす。

 それではみんなに同じような感動も伝えられないし、みんなに新しい感情を伝えることもできません。

 なので、単語は操作しなければなりません。

 意味の上で、形を滑らせるのです。

 猫は猫と呼ばず、猫と言う意味を持った黒椿と書きます。

 猫を猫と呼ばず、猫と言う意味を持った日向と書きます。

 そしてその、意味を理解させ黒椿と書かれているのに、日向と書かれているのに、猫と言う意味を読者に感じさせるのです。

 その時、読者の脳はバグをおこします。

 意味と形が不一致なのに、意味を理解してしまった時、読者は猫と言う単語に新たな意味と形を取得するのです。

 それが、文学です。

 分かりますね?」


 飼い主はここまで言うと、吾輩の黒椿のように光沢ある背中を撫でた。


 ベルフェゴールが、自分の白い毛皮はどうした? と、一鳴き、にゃーんと声をあげる。


「ベルルは新雪よりも美しいよ」


 飼い主がおべっかを言うと、ベルフェゴールはまんざらでもないようで、にゃーんともう一鳴き。


「比喩表現は基本二つ、ですが、実際はテクニックとして、いくつもに分けることができます、例えば、直喩、隠喩、提喩、換喩などですね。

 これは原則、単語の選別に使われます。しかしそこから幅を広げていくと、文法を装飾する言葉の形になります。

 例えば、誇張法、過大誇張法、緩叙法、列叙法、列挙法、斬層法などです。

 まずは誇張法から話していきたいと思います…………」


 徹頭徹尾ソフィストとして文章を扱う飼い主の姿勢は面白い。


 そこには天から下りてくるような、幻想的な文学の神はいない。


 神は下りてこない、だから人が生み出すしかないのだ。


 そのリアリスティックな装飾術は、それ故に単純で、それ故に力強い。


 授業を続ける飼い主を、学院長のエルフは、ニコニコ笑みを崩さず、話しをきいている。


 飼い主が一通りの説明を終え、水を口にすると、


「アシモフ先生、一つ質問をいいですか?」


 と、右手を少し上げた。


「な、なんですか?」


 飼い主は権力に弱い、肝が細いからだ。


 学院長の質問にもう、体が軽く震え出している。


「素晴らしい抗議ありがとうございますアシモフ先生、一つおききしたいのですが、これは物語を伝える文章方法ですよね?」


「ですね、詩学の授業なので」


「例えば、私たち講師はレポートを書きますよね、生徒に渡す資料も書きます、その場合の文章は、より正確に記載するため、皆で共通の単語を使い、誰にでも理解できるようできるだけ簡単な文法で、文章を書きます。

 先生のお話を借りるなら、共通する記号を操作し、知識を同一に理解できるように文章を書きます。

 つまり、伝達するなら、レポートを書くように、物語を書くことの方が、正確に、作者の考えた物語を読者に伝達できるのではないかと考えまして。

 その点、何故、物語の文章は、新しい単語を創出し、新しい文法を創出する必要があるのか、理由を噛み砕いてお教えいただきたいと思います」


 エルフの質問に、飼い主は黒板に図を描く。






 『U』







 Uと言う文字に似た図形。


「レポートを書く時の文章は、まずイントロダクションを書きます。

 そこにはこのレポートの価値、意味、つまり主張を全て書かねばいけません。

 それからいくつかのブロックに分けて、本分を作ります。

 このブロックを、パラグラフと言います。

 そして結論を書きます。

 これがレポートの基本的な書き方です。

 そして、その全ては、この牛の乳のように垂れ下がった『U』にならねばなりません。

 最初は読者と同じ地点にいて、どんどん作者の考えとまじりあい、思考を深化させ、海底に足がついたら、徐々に読者と同じ地点まで浮上するのです。

 最初と最後は同じことを言っている、しかし、作者と共に深海まで潜ることにより、同じことを言っているのに、同じ地点に立っているのに、同じ言葉の意味が全く違って見える。

 これはレポート全体でもそのように作ります。

 イントロ、本分、結論で『U』の形になり、イントロと結論はほぼ同じになります。

 イントロ、本分のパラグラフ、結論、それぞれでも『U』に形になるように作ります。それぞれのパートで、最初と最後はほぼ同じになるように書きます。

 この深化と浮上を繰り返し、同じ言葉の意味だけを変えていく作業がレポートになります。

 意味の上で形を滑らせる、単語の創造とたいして変わりません。

 ではなぜ、小説はレポートのような文章で書かないのか?

 答えは簡単で、効率がいいからです。単語と文法を弄び、新しい現象をおこし、人の脳にバグをおこし、脳内で快楽をドバドバ出すのに、文字数が少なく済みます。

 ではなぜ、効率がいい文章をレポートが使わないのか?

 これも答えは簡単で、レポートは記載することに意味があるからです。

 さっき学院長が言われた通り、共通の記号、共通の文法で書かれたレポートは記号を脳内で現象化させなくてもいいのです。記号であれば、記号操作だけで、次に繋いでいけるので。

 記号だけを次に繋ぐなら、記号の配列はルールが単一であればあるほど、繋ぎ安く、拡散性が高いでしょう。

 つまり、目的が違うから、文章の書き方が違う。

 そんなつまらない結論ですね」


 飼い主がそこまで言い切ると、エルフの学院長はニコニコした笑みを崩さず、


「なるほど、ありがとうございます」


 と、礼を言った。


「それとレポートの書き方、レポートにまとめて提出してください」


 と、新しい仕事を飼い主に振る。


 面倒そうな仕事に、ここから飼い主のテンションはガタンと落ち、授業は精彩を欠いたまま終わりのベルを迎えた。

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