第29話 美咲、存在と対峙

崩壊しかけた駅構内の奥、鉄骨の揺れる回廊を抜けた美咲は、“存在”と呼ばれる影と向き合っていた。


それは“顔なし”とは異なる、都市そのものの記憶と意志が凝縮された形。

人間の思念の集合体――それなのに、彼女の名前を知っていた。


>「山下美咲。あなたの顔は、最も記憶抵抗値が高い。廃棄対象外」


声ではない。

意識に直接染み込むような言葉。

感情に輪郭を与えない音波。


目の前に浮かぶその“存在”は、彼女の過去の記憶を次々に映し出した。

初恋、裏切り、孤独な夜、片桐に初めて優しい言葉をかけられた瞬間。


それらの記憶が宙に漂いながら、美咲の顔に“上書き”されようとする。

眉が変形し、目元が涙の形状に歪み始める。


>「感情を視覚化し、顔に宿す。それが都市の存在定義」


美咲は一歩後退し、胸元のネックレスを握りしめた。

中には幼いころ亡くなった姉の写真が入っている。


「この顔は……姉が最後にくれた言葉で作られたものよ」


存在が一瞬、揺らいだ。


>「あなたは、記憶から自我を定義している。だが、それは“不安定”だ」


「不安定でもいい!誰かに選ばれた顔じゃなく、自分で生きて感じた痛みと笑いと後悔で、この顔を持ってる。それが私の“存在”!」


その叫びに応じて、駅構内が震え始めた。

鉄骨が鳴り、アナウンス端末が不規則なメッセージを出力する。


>「整合失敗。顔剥離中止。都市人格構成不能」


“存在”はかすかに声を絞り出した。


>「君の記憶が都市の限界を示している」


そして、“顔なし”の体の一部が、彼女の表情と“同じ涙”の形を帯び始めた。


美咲が小さく囁く。


「じゃあ、あなたは……“誰かになりたい”んだね」


その言葉に、存在は静かに崩れ始めた。


都市の人格は、“誰かでありたい”という願望によって構成されていた。


自分という定義を持たぬ都市が、人間から顔を借りて“存在”を試していた。


そして今、美咲という人間の強い感情によって、その試みが揺らいだ。


“存在”は、彼女の涙に似た形を残しながら、静かに沈黙した。


駅のアナウンスが更新される。


>「存在との対話終了。記憶保護モードに移行します」

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