壊して、愛して

浅川瀬流

壊して、愛して

 ――ああ、まただ。もう、疲れた。


 奏多かなたの拳が私の頬を思い切り殴り、私は無抵抗なまま床に倒れる。殴られたのはこれで何回目だろう。もはや片手では足りないほど、私は恋人から殴られている。

 じんじんと痛む頬に手を当てる間もなく、二発目が飛んできた。

「お前も俺を裏切る気か!」

 そう叫びながら奏多は怒りの形相で私を殴る。


 ああ、痛い。

 何度も殴られれば痛みに慣れてくるかもと思ったが、そういうわけでもなかった。殴られれば誰だって痛い。悲しいかな、痛みは生きている証だ。


「そうやって俺を置いていくんだな! お前も! 母さんや父さんと同じように!」

「うっ……」

 脇腹を蹴られ、私は声を漏らす。これが映画やドラマだったら、バシッとかドスッとか、蹴られるときの効果音が流れているだろう。痛いのに、私の頭は冷静だった。


 初めて彼に殴られたのはいつだっただろう。

 会社の取引先との打ち合わせで出会った奏多に、私は一目惚れした。何回か打ち合わせと称して行われた食事会で会話を重ねるうちに、どんどん彼のことが好きになっていった。猛アタックを続け、やっと付き合うことができて三年、幸せな日々を送っていた。はずなのに。

 去年から同棲を始め、奏多は一変した。

 一変したといっても普段は一緒にテレビを見て笑うし、穏やかで優しく微笑んでくれる。


 ところがある日、私が残業して家に帰るのが遅くなると、奏多は帰って来た私をいきなり殴った。最初は何が起きているのかわからず、言葉が出なかった。

 だって普通、恋人に殴られるとは思わない。ネットニュースではDV彼氏だとか騒がれている時期もあったが、まさか自分の恋人が、と私はひどく困惑した。

 奏多も、両親から暴力を振るわれていたらしい。自分の話をあまりしないので詳しいことは知らないが、初めは父親に、そしていつしか母親からも暴力を受けるようになったと、何事もなかったかのように話していた。

 大人になった今、奏多は私に暴力を振るう。


 奏多の目に、今の私はどう映っているのだろうか。脇腹を抑え、うずくまりながら痛みに耐える私。

 自分の子どもや恋人を殴るとき、彼らはどんな気持ちなのだろう。


 奏多に殴られながら色々と考えを巡らしていると、ふと彼が私を抱きしめた。

 ああ、今日も終わったのか。私は彼にバレないように小さく息を吐いた。


「ごめん……ごめん、和華わか……」

 私を優しく抱きしめ、彼は謝罪の言葉を口にする。奏多は殴ったあと、我に返ったかのように私に謝り、私を抱きしめ、そして最後には決まってセックスをする。体を離した彼は私にキスをし、私をさっきまで殴っていたその手で、体に触れる。彼は、自分が付けた傷を手でなぞり、舌でなぞった。

 私はただただそれを無抵抗に眺めるのだ。


 一方的な性行為が気持ちいいわけがない。奏多が何度も謝りながら、一人で気持ちよくなる姿を、私は他人行儀な目で見つめる。

 これは一体なんの儀式なのだろう。体を重ねることで、奏多はどうしたいのだろう。

 自分の孤独を埋めるように優しく口づけを落とす奏多が、私には理解できなかった。


 ●


 翌朝、鏡の前に立った私はため息をつく。昨夜殴られた部分をコンシーラーで念入りに隠した。奏多の暴力を受けるようになってから、一年中長袖、長ズボンもしくはロングスカートを着用するしかなくなった。いたるところに奏多からの暴力の跡が残っていて、ファッションを楽しむことさえ私には許されない。


 重い足取りで会社へ行き、平然と業務をこなす。昼休みには社食で一人食事を取った。

平松ひらまつ、お疲れ。ここ、座ってもいい?」

 そう声を掛けてきたのは同期の塚原つかはらだった。彼女は私の隣の席を指差す。

「お疲れ様。いいよ」

「よいしょっと」


 塚原と仕事の愚痴をポツポツと語りながら、穏やかな昼休みを過ごす。私が先に退席しようとすると、彼女は私の腕をとっさに掴んだ。

「ねえ、もしかしてまだあの彼氏と同棲してるの?」

 不安そうに私を見上げる塚原に、私は「うん」と短く応える。彼女は私の腕を掴む手に少しだけ力を入れた。

「また殴られたでしょ。早く離れたほうがいいって」


 離れる。


 頭の中で反芻はんすうするが、どうしてもその選択肢を選べない。離れたら楽になることはわかっていても、どうしてか私は、今でも彼のことが好きなのだ。

 口を閉ざした私の腕を、ゆっくり離した塚原は、納得していない表情を浮かべた。彼女もまた、彼氏のDVにかつて悩んでいたのだ。私は塚原の肩に手を置いた。

「心配してくれてありがとう。私は大丈夫だから」

「いつか壊れちゃうよ」

 もう壊れかかっている。泣きそうに呟く塚原の肩から手を離し、私はその場をあとにした。


 家に帰ると、玄関には奏多の靴があった。今日は定時退社したから大丈夫だと思っていたのに。

「ただいま」

「どこ行ってたの」

 ソファに座りながら私を見つめるその目に、光はない。私は首を横に振った。

「どこにも行ってないよ。今日は定時で上がって真っ直ぐ帰って来たから」

 床に鞄を下ろすと、それを合図にしたかのように奏多はソファから立ち上がり、私を見下ろした。

「俺は和華のことが心配なんだよ」

「うん、わかってる。ありがとう」


 今日はいける、と一瞬油断した隙に、殴られた。もう、何がダメだったのかわからない。

「仕事なんて行かないでずっと家にいてよ。和華が仕事しなくても不自由なく暮らせるだけの収入はあるし」

「今の職場結構気に入ってるから、辞めたくないな」

 奏多のかんに障らないように、できるだけ柔らかく言った。

「仕事なんていいからさ、俺だけを見ろよ!」

 一発目はなんとか立っていられたが、二発目は耐えられなかった。


 昨日の痛みも残っているから、そこまで踏ん張れない。奏多はまるでフィクションに登場する典型的な面倒くさい彼女のようなことを言いながら、私を殴った。ああ、痛いな。

 昨日と同じように恋人からの暴力を受けながら、私はただただ耐えしのぶ。弱いところも含めて彼のことが好きなのだから、私にはもうどうすることもできない。恋愛は惚れたほうが負けなのだ。

 数分の暴力が終わり、奏多は私を抱きしめた。

「痛かったよね……ごめん……」

 私の頭をなでながら謝る恋人。


 ――私も奏多を殴ったらどうなるのだろう。


 冷めた頭に浮かんできた疑問に、私は自分で驚いた。殴ってみたら何かが変わるかもしれない。彼の気持ちがわかるかもしれない。


「ごめん……ごめん」

 奏多はいまだ謝り続けている。弱っている今なら女の私でも男の奏多を殴れるかもしれない。一度そう思ったら、もう止まらなかった。

 私を抱きしめていた手が離れた瞬間を狙い、私は力いっぱい奏多の顔面を殴った。心の中で何かが壊れる音が聞こえたが、それに気づかないふりをして、私は何度か奏多を殴る。


 奏多は何が起きているのかわからないのか、目を見開き、「わ、和華、どうしたの」と戸惑いを露わにした。自分は恋人を殴るくせに、自分は殴られないと思っていたのだろう。困惑している奏多をよそに、私は奏多がそうしていたように何度も殴り、何度も蹴った。


 やがて奏多が力をなくしたようにうなだれたので、私は彼を抱きとめる。子どもをあやすかのように背中を優しくポンポンと叩いた。

 落ち着いてきた奏多はもう一度「急にどうしたの」と問いかけてくるが、私は無視して彼の唇を乱暴に奪う。息をする暇も与えないくらいに私は激しく彼を求め、舌を滑り込ませた。彼を理解するにはもっと深く、もっと奥までいかなくては。

 足りない。足りない。

 口を離すと、奏多はせき込んだ。私は奏多の服を脱がし、体を触る。

「ちょ、ちょっと待って、和華」

 彼の静止の言葉を聞いても、私は止まらなかった。もう、止められなかった。


 こんな状況なのに反応を示している男の体に、一瞬だけあきれたが、私は自分の服を脱ぎ捨て、彼と繋がった。いつもはただただ行為が終わるのを待つだけだったのに、なぜか今は心地よかった。

 なんだろう、この感覚は。私は今までにないくらいに興奮していた。もう冷静だった私はどこかへ飛んでいってしまった。


「和華、一旦落ち着い、て」

 頬を紅潮させながら苦しそうに呟く奏多の口を、私は再び塞いだ。奏多はどうしたらいいのかわからないのか、私の腕を強く掴む。奏多の指が皮膚に食い込んでいくが、私は構わずにキスをする。

 奏多の力が少し緩んだところで口を離し、彼と至近距離で見つめ合った。奏多の瞳には涙が溜まり、いまにもこぼれそうだった。

 奏多の泣き顔なんて初めて見た。


 彼の目から涙が落ちた瞬間、心の中で何かが弾けた。


 会うだけで心がときめいて、隣にいるだけで幸せだったあの頃にはもう戻れない。

 ここから先は地獄だ。

 自分の口角が今、上がっているのがよくわかる。私の顔はさぞ気持ち悪い顔をしていることだろう。私の額を汗が流れるのと同時に、奏多の目からは大量の涙がこぼれ落ちた。

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