第2章『好きな人、いたら負け』

#2-1 プロローグ

「じゃあまず最初に──恋してるやつ、手ぇ挙げろー!」


ドリンクバーのグラスを片手に、千歳がいきなり叫んだ。

明るすぎる声と軽すぎるノリに、カラオケボックスの空気が一瞬止まる。


ソファにゆるく座っていた全員の背筋が、わずかにピンと伸びた気がした。


音羽は反射的に、ストローごと口を塞いだ。

まさか、開口一番それを聞くとは思っていなかった。


あかねは一拍遅れて、「え、うち……もしかして……」みたいな顔で椅子をガタンと引き、立ち上がりかける。

けれどすぐ我に返って、「ないないない!」と目を泳がせながら、そっと腰を下ろした。


ひまりは口を半開きのままフリーズ。

飲みかけのグラスを手にしたまま固まり、目だけが忙しなく左右を泳いでいる。

その挙動が妙に面白い。


美咲はグミの袋を開け、ひとつつまんで口に放り込む。

そのままにやにやと、全員の反応を観察していた。

まるで、誰よりも冷静なカメラマンみたいな目つきで。


一瞬の沈黙。


空調の音と、BGMのイントロだけがぼんやりと耳に残る中、全員そろって、見事に目をそらした。


「……ハイ、今そらしたやつ、怪しいね?」


千歳が、にやっと笑いながら指摘する。


その言葉が引き金になったように、ひまりが即座に叫んだ。


「いやいやいやいや! ノリで! なんか恥ずかしいやつかと思って!」


声が跳ねると、あかねがすかさずかぶせてくる。


「うちホントにないから! 恋、かけらも落ちてないし!」


さらにひまりが勢いに乗って叫ぶ。


「むしろ砂漠です!! 恋の成分、ゼロパー!!」


あかねとひまりのやたら饒舌な否定に、音羽はストローをくるくると回しながら、

(いや、逆に怪しくない?)と内心で思っていた。


一方、美咲はその騒ぎをよそに、ひとり静かに笑いを漏らすだけ。

何も言わず、表情も変えず、口元だけで「ふふっ」と笑う。


まるで、「やっぱりそうなると思った」とでも言いたげに。


あかねがふてくされたように、テーブル越しの千歳を睨む。

片肘をついたまま、顔だけをわずかに向けて、挑発され慣れている相手に向かって投げつけるように言った。


「てか千歳、なんでそんな質問すんのよ」


千歳はまったく悪びれた様子もなく、紙ナプキンで指先をぬぐいながら、あっさりと答える。

返事の温度が低すぎて、本当に考えていたのかどうかすら怪しい。


「なんかさー、新しいこと始めたくて。で、思いついたのが『恋してたら負けゲーム』」


「は!? なんで負け!? 恋してるやつの肩身、狭すぎじゃない!?」


あかねがすぐさま声を張る。

その言い方は完全に抗議モードだが、口元にはうっすら笑いがにじんでいて、ちょっと悔しそうにも見えた。


千歳は肩をすくめて、肩の力を抜いたまま話を続ける。


「だってさ、うちら基本、“恋してない前提”でやってんじゃん。

 今さら“してる”って言い出したら、むしろ空気読めてないでしょ?」


ひどい理屈を、いつも通りの調子でさらっと並べる。

そのままソファに体を預けながら、テーブルの端に転がっていたポテトをひとつつまんで、ぱくっと口に運ぶ。


一見どうでもいいような会話。

けれど、この“どうでもよさ”が、なぜか心地いい。

音羽は、そんな空気を感じていた。


(恋してたら負け。恋してなければ勝ち……?)


手元のストローをいじりながら、音羽は心の中でつぶやく。


自分は、たぶん“恋してない側”だ。

これまで誰かを好きになったことなんて、たぶん一度もない。

そもそも“恋”ってどういう感情なのか、いまだによくわからない。


でも――


(“ちょっとだけドキッとすること”くらいなら……あるかも)


思い出すのは、この前の電車の中。

向かいに座っていた男子と、ふと目が合ったときのこと。

それだけのはずなのに、なぜか心臓が一回だけ跳ねた。


あれはただの気のせい? それとも――


「音羽、今ちょっと遠いとこ行ってたっしょ?」


突然声をかけられて、ハッとする。

千歳がニヤニヤしながら、こちらを覗き込んでいた。


「えっ、な、なにが?」


急な追及に、思わず口ごもる。

千歳はその様子を見て、さらにおもしろがるように笑った。


「じゃあさ、今日も始めようか。恋してない人たちの、負けられない戦いをさ!」


そのテンションの意味は、やっぱりよくわからない。

でも、不思議と心地よいと思ってしまうのが、この人たちのすごいところだった。


音羽は、そっと頷いた。

胸のどこかに、ほんの少しだけ、期待のようなものが芽生えているのを感じながら。


(恋してないけど。……でも、恋の話なら、今日もちょっとだけ、してみたい)

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