第2話
彼女を見た時、思い出したの。
お母さんが言ってた。ネックレスも指輪も、とても大切なものだから隠しておきなさい、って。
でも、お母さんが死んで、泣いて泣いて、どうしたらいいのか解らなくて、時間があっという間に過ぎていって。
気が付いたら、身寄りのないわたしは孤児院に行くしか道がなくて。
あまりにも寂しかったから、彼女から声をかけられた時、凄く嬉しかった。
苦しんでいるのはわたしだけじゃない。
わたしと同じように、身寄りがなくて苦しんでいるのは彼女もそうで。
だから、疑うなんて考えたこともなかった。今まで、わたしたちの周りにいたのは優しい人たちばかりだったから、彼女もそうだって思ったの。
それに、彼女はわたしによく似ていた。
境遇だけじゃなくて、髪の毛の色も、瞳の色も。
年齢だって同じ。
友達になれるって思ったの。
でも――。
※※※
「井戸の底から、遺体を回収したよ」
その日、私は学園で自習室にこもっていた。卒業までの間に、できるだけこの学園の図書室にある魔法書は頭の中に入れなくてはいけない。卒業した後、その知識は絶対に役に立つ。
学園生であるならば、自習室は貸し出してもらえる。学園の外には持ち出し厳禁の魔法書でも、申請をすれば借りた自習室に持ち込みは可能だ。
そのため、山積みになった本を目の前に椅子に座って読んでいた私は、ノックの音にも気づかずに集中していた。
だから、あまりにも突然にフェリックス・フェルトハード殿下の顔が間近にあって心臓が喉から飛び出しそうになった。
「殿下」
「何だ、レックス」
私は他人の魔力を察知する能力は高いと自負している。いくら集中していたとはいえ、殿下の気配に気づかないというのは……油断しすぎだったかもしれない。
私は開いていた魔法書を机の上に伏せてため息をこぼし、そっと辺りを見回した。殿下がここにいる以外は何の変化もない、小さな部屋だ。夕日の明るい色が床を染め上げて、その光を背負いながら殿下が私の向かい側にあった椅子に腰を下ろす。
美形と言うのは何をしても様になる。
思わず舌打ちしそうになりながら、私は口元に笑みを張り付けた。
「本当にノックしました?」
「もちろん、したとも」
殿下もどこか取ってつけたような微笑をこちらに向けていて、その表情のままポケットから何かを取り出した。
かちりと音を立てたそれは、マリー嬢の喉元で見たことのあるネックレス――魔道具だった。
「これが何か?」
私がそう顔を顰めると、殿下が僅かに首を傾げた。
「この危険物の扱いを王宮魔法士、魔道具技師たちに相談していてね? 便利だけれど危険だとも考えているんだよ」
「悪用するのが簡単ですからね」
私が頷くと、殿下が「そう」と人差し指を立てた。
「持ち主だけではなく、他の人間が手に入れても簡単に発動する。魔力の底上げができる魔道具なんて他にはないからね、誰もが欲しがるだろう。そこで、これを改造して使用できる人間を制限できないかと考えている」
「なるほど」
私は殿下の言葉に頷いた。「たとえば、殿下にだけしか使えないようにする、というわけですね」
「その通り」
そこで、フェリックス殿下がニヤリと笑う。「それで、レックスにもその開発を手伝ってもらえないかと」
「タダ働きはお断りします」
「……それは、払うよ」
殿下の笑みが消え、苦々し気なため息が漏れる。「君は魔道具については造詣が深いし、きっと君の商会で働いている魔道具技師たちも動かしてくれるだろうと予想がつく。だから、それに見合う報酬はもらうべきだ。いくら親友でもこの立場を利用してタダ働きをさせようとは思わないしね」
「親友?」
「だろう?」
「親友ですか」
「違ったかな?」
そこで、お互い見つめ合って微妙な空気を流しておく。
「……まあ、そういうことにしておきます」
とりあえず、私は一歩引いて見せた。ここで否定すると後が怖い。殿下は友達が少ない。本人はそれを気にしていて、何とか信用できる人間を傍に置きたいと考えているようだが、近づいてくるのは婚約者という立場狙いの女性ばかり。
同情はするが……まあ、それはどうでもいい。
とにかく、早く落ち着いて魔道具を観察したかった。今は面倒な性格の殿下の相手をしている場合ではない。
「じゃあ、後で報酬についての契約書を作成します」
「その前にもう一つ」
そこで、殿下がポケットから小さな箱のようなものを取り出し、机の上に置く。手で握ってしまえば隠れてしまうくらい小さく、中に何か入っているのかカラカラと音がした。
それは武骨な造りと言うのが相応しく、鋼の板を雑に曲げてあるだけに見えた。被せるだけの蓋がついているが、殿下がそれを指先で摘まみ上げてもさび付いているのか蓋は外れそうになかった。
「何ですか、それ」
私が眉を顰めると、殿下が曖昧に笑った。
「遺体が持っていたものだ。王宮魔道具技師に確認したが、何らかの魔道具らしいということしか解らない」
「魔道具」
私は机の上のそれをじっと見つめ、箱の中にあるらしい魔力を感じ取ろうと意識を集中させた。何かが揺らめいている。魔道具の発動に必要な魔石の力なのか、煙のような動きが箱の中に渦巻いている。
私の得意なこと、それは魔力の解析だ。これまで色々な魔石と触れてきたためか、魔力を感じただけでその魔力の属性もすぐに解るはずだった。
おそらく、これもネックレスと同じく我々が知らない魔道具なのだ。
未知のものに触れるという行為そのものに、興奮して胸の奥が疼いた。
詳しく確認するための解析魔法をかける前に、視線を箱から外して殿下にもう一度確認する。
「……誰も開けられなかったと?」
「そうだよ。だから、ついでにその箱が何のための魔道具なのかも調べて欲しい。君のところの商会の力で、他国の魔道具にそれらしいものがないかどうかも調べてもらえたら助かる」
「報酬は」
「上乗せする。というか、疑り深いな?」
流石に呆れ切った様子で殿下が肩を竦め、私も申し訳なくなって軽く頭を下げる。
「申し訳ありません。こういう性格なもので」
「一応、釘を刺しておくが……他のところから金を積まれて裏切るのは許さないよ?」
満面の笑みでそう告げた殿下の冷えた口調にひやりとしながらも、私は彼と同じような笑顔で応えた。
「ご心配なく。私の婚約者も、汚れた金には手を出すなと言ってましたので。殿下も、綺麗なものを用意してください」
そこで、殿下の表情が呆れたようなものに変わった。
何はともあれ、早急に契約書を作って、私は殿下が持ってきた魔道具二つに触れることになった。
ネックレスよりも箱に興味を持って、手のひらの上に解析魔法を展開させ、その小さな箱を包み込んだのだが――。
ぱきん、という音がして何かが壊れた。
それと同時に、どこか異質な魔力の波が広がって私の身体を突き抜けたのも感じる。
何が原因なのか解らないが、金属の蓋が内側から膨れ上がり、そのまま中身がむき出しになっていた。そして、その箱の中に割れた魔石らしきものがあるのも解る。紫と黒の縞模様を持つ魔石だったが、割れて三つに分かれていた。
「レックス……」
殿下のため息交じりの声に、私は背中に冷や汗を流しながら何か言い訳をしようと考える。これが希少なものであったのなら、賠償金を払わなくてはならないのか? いや、さっき作った契約書にはそれは記載していない――。
必死に思考回路を走り廻らせていると、そこに聞き覚えのない少女の声が響いた。
『あーあ、壊れちゃった』
「え?」
「どうした?」
私が困惑して顔を上げ、殿下が腕を組んで首を傾げながらこちらに問いかけてきているのが視界に入ったのだが――それ以外に、そこにはいないはずの存在の姿も見えた。
『やっぱり、わたしの作った保管箱は弱かったのかなあ。わたしが初めて作った箱だったのに』
そう言いながら、私の手元を覗き込んでいる少女――十歳くらいの可愛らしい女の子が、唇を尖らせて小さく唸っている。
薄紅色の髪の毛と、長い睫毛に覆われた大きな瞳。無邪気な表情と、痩せた身体を包む質素なワンピース。
だが、その身体は間違いなく透明度があって、身体の向こう側の床の模様が透けて見える。
「殿下」
「何だレックス。釈明を聞こうか」
「ここにいる……子供、見えます?」
「は?」
わたしが透き通った少女を右手で指さしたものの、殿下はそんな私のことを頭がおかしくなったのか、と胡乱げに見つめてくる。左手の上には壊れた箱。それを覗き込む少女。何だこれは。
「いや、だから」
「何か見えるふりでもしているのか。そんなことに騙されるとでも?」
「そうですね……疲れているのかもしれません」
私はここでも大人しく、一歩引いた。面倒だったからだ。
その後は、本当に頭がおかしくなりそうだった。
幻覚なのか、現実なのか。
他人には見えないものを見えると言えば、それは狂人扱いされてもおかしくない。
それなら、私が今、目にしているものは何なのか。すぐには認められない。これが狂気ではないと断言するだけの根拠がない。
『ねえねえ、見えてるんでしょ?』
と私の周りをぐるぐる歩き回る少女。
『わたし、マーガレット。ずっと井戸の底にいたんだけど、身体を引き上げられたら一緒に出てこられたの』
笑顔でそんなことを言う少女。
『死んだら神様のところに行くって言われてたのに、あれは嘘だったのかなあ』
眉根を寄せて困ったように顔を歪める少女。
『おにいさん誰? わたしはね……』
そして彼女は、マリー嬢に井戸に突き落とされて死んだマーガレット嬢であると言い張っている。
私は殿下にネックレスだけ返し、壊れた箱と割れた魔石だけ自宅に持ち帰る許可を得た。修理できるか確認させてくださいと頭を下げた結果だ。
我が家――メイトランド伯爵家の屋敷は、王城からそれほど遠くない場所にある。メイトランド家の紋章が入った小さな魔導馬車に乗り、屋敷に向かう。すっかり暗くなった空、それでも多くの商店、飲食店が煌々と明かりを灯す道のり。
無視していれば少女が煙のように消えるかと期待したが、それを裏切って勝手に我が家の魔導馬車に乗り込んできたのだから始末に負えない。
『こんな馬車に乗るの初めてー』
そう言いながら、座席の上に膝立ちになり、ぱたぱたと足を揺らして窓の外を覗き込む。目を丸くしてキラキラとした笑顔を見せるその横顔は――どこからどう見ても、その辺りにいる子供たちとほとんど変わらない。
「お帰りなさいませ」
我がメイトランド家の屋敷に入るとすぐに、家令であるローマンが白髪交じりの頭を下げてきた。彼もまた、わたしのすぐ傍にいる透明な少女のことは見えないらしく、いつもと同じく夕食や入浴、明日の予定など整然と話し続けている。
「父は……当然、家にはいないよな?」
私が『いるといいんだが』という僅かな期待を込めて言うが、当然ながらローマンは柔和な笑顔と共に頷いた。
「旦那様は別邸に滞在したままでございます。何かご用命があるようでしたら、使いを出しますが」
「いや、いい。後で自分で魔道鳩を飛ばすよ」
私は手紙を飛ばすことのできる鳥型の魔道具を思い浮かべながら、この状況をどう父に説明しようかと考えた。
ローマンに夕食はいらないと告げて自分の部屋に入ると、私の横をすり抜けた少女が部屋の中を駆け回るのが見えた。
『広い! ここ、お兄さんのお部屋? 凄い! 本がいっぱい!』
気に入っている本は自室に保管する私だが、さすがに十歳そこそこの少女には理解できない魔法書、技術書だったらしい。きらきらした瞳にがっかりしたような色を乗せ、少女は窓の近くにあった椅子に腰を下ろした。
私の部屋は屋敷の二階にあり、それなりに広い。入ってすぐに大きな窓が目に入り、奥には隣の寝室へと続く扉がある。
基本的にこの部屋は一人でくつろぐための部屋であり、勉強用の机や椅子、のんびりと読書するためのソファ、本棚、魔道具を手入れするための作業台など、色々ある。
ぶらぶらと足が揺れているのを見ながら、私は本棚の近くにあるソファに腰を下ろした。
「それで、君は『何』なんだ」
わたしのその言葉に、少女がぱっと顔を上げて椅子から飛び降りた。
『やっぱり見えてる! 無視してたんでしょ、酷い!』
「落ち着いてくれ」
私はこちらの顔を覗き込んでくる少女の顔を遠ざけようと手を伸ばしたが、あっさりとその透き通った部分を突き抜けてしまう。
いや、落ち着くのは私の方か?
何でこんな得体のしれないものに話しかけているのか。
『それってやっぱり、死者の心臓のお蔭なのかな?』
「何だその厭な単語は」
『わたしもよく解らないんだけどね、お母さんのお母さんのお母さんとか、誰かからもらったものみたい。死者の心臓、っていう不思議な石』
少女――マーガレットは私の隣に腰を下ろし、また足をぶらつかせる。
「あれは魔石だろう?」
『うん。お母さんはアールムガルト神帝国の出身でね、そこで親の代から受け継いできた魔石なんだって』
アールムガルト神帝国。
それは我が国より北の方にある広大な土地を持つ国だが、我々とは違う神を崇め、精霊と話すことができると言われている人間が暮らすところだ。閉鎖的な国であるから、隣国とはいえどんな生活をしているのか解らないことが多い。
魔道具の構造も我が国のものとはかなり違うというので、一時期、本気で留学などできないかと悩んだことがあった。まあ、それは結局考えただけで終わったが。
『お母さんが生きていたころに、珍しい魔石だから隠しておきなさいって言われて、わたしが持つことになったの。ただ、もの魔石は凄く力が強いとかで、簡単に開けられないように鍵箱に入れておくのが決まりなんだって』
「鍵箱」
マーガレットが鍵箱と呼んでいるのが、保管用の魔道具の箱のことらしい。
魔石というものは常時魔力を放っていて、ものによっては力が強すぎてそれを持つ人間に悪影響を与えることがある。それを防ぎ、安全に持ち歩くことができるようにする魔道具のことだ。
「その鍵箱は、君が作ったんだな?」
『うん』
少女が困ったように笑い、頷いた。『珍しいって言われて気になって、色々いじってたら元々の鍵箱を壊しちゃって。だから凄く頑張って鍵箱の造り方を教えてもらって、造ったんだよ』
「お母さんに教えてもらった?」
『うん。壊したのは怒られちゃったけどね』
マーガレットは気まずそうに笑いながら、頭を掻く。『でも、わたしって魔力がもの凄く強いんだって。だから、下手に使うと魔道具が壊れるのも仕方ないって言ってくれて。それで、死者の心臓を保管する鍵箱を一緒に造ったの。将来、自分のために使ってもいいし売ってもいいってお母さんが言ってくれたけど、売るつもりはなかったの。お母さんが死んでからはずっと、何とかして死者の心臓を使えないかって考えてた』
「使えないか?」
『うん』
マーガレットはそこで表情を引き締め、眉間に皺を寄せた。『死者の心臓はね、死んだ人と会話できる能力を持つことができるんだって。だから、わたしはお母さんにもう一度会いたくて……死者の国から呼び戻すことができるのかって思って、大切にしてたの』
なるほど。
それを私が壊したのか。
それで、何らかの力が原因で――死んだ人間の姿が見えるようになった。死んだ人間の声が聞こえるようになった。私が、だ。
『割れば使えるんだって知ってたら、割ってたのに』
寂しそうに俯いたマーガレットの声は僅かに震えていたが、すぐに顔を上げてこちらを見た。笑顔すら浮かべながら。
『仕方ないよね! 今更だもの』
そう開き直って言った後で、彼女は何かに気づいたように手を叩いた。『お母さんが言ってたけど、死者の心臓って死霊使いの魔道具になるんだって。お兄さん、何か変わったことある?』
――何かとんでもないことを言ってる。
死霊使い?
確か、アールムガルト神帝国でそんな人間がいると聞いたことがある。精霊使いの敵、つまり悪役的な意味で、死霊使いという存在がいるのだとか。そして彼らは、死者の霊を呼び出し、悪事のために死霊を働操るのだという――。
「ない」
『なんだ、がっかり……じゃなくて、よかった!』
「おい」
私が目を細めて不満を表情に出すと、マーガレットは困ったように小首を傾げた。
『でも……わたし、これからどうしたらいいのかな』
僅かに空気が沈んだ気がして私が顔を顰めると、マーガレットがぽつぽつと過去を話し始めたのだ。
『彼女を見た時、思い出したの。お母さんが言ってた。ネックレスも指輪も、とても大切なものだから隠しておきなさい、って』
それまでは十歳らしいあどけなさを含んだ表情だったのに、話をしている間に大人びた横顔を見せるようになった。
窓の外はいつの間にか暗くなっていて、マーガレットはソファから立ち上がり窓際に立っている。
『わたし、嬉しかったの。わたしより少しだけ年下で、頼りなくて、わたしに似た女の子が泣きそうな顔をしてて。だから、あの子のお姉さんになったつもりで色々強がってたんだ。わたしだって誰かを守ってあげられる、って考えてた。でも、できなかった。できなかっただけじゃなく、あの子に殺されたんだ』
彼女は窓枠に触れる。いや、触れようとしたが指先はすり抜けて窓の向こうへとたどり着く。それを確認すると、マーガレットの肩が震える。
『もうわたし、この世界で何もできない』
そこで、彼女はゆっくりとこちらに顔を向けた。それまでの無邪気さとは無縁な、暗いだけの瞳がそこにはあった。
『これからわたし、どこに行けばいいの? 神様のところに行けるんじゃないの? ずっとこのままなの? だったらわたしって何のために生まれてきたの?』
「それは……難しい問題だな」
私は躊躇いがちに続けた。「私も、何のために自分が生まれてきたのか解らない。その理由を探すために……勉強をしているのかもしれない」
『勉強』
苦々しいだけの笑みが彼女の口元に浮かび、私の言葉は彼女の求めるものではないと知る。
そこで、思いついたのだ。
アリーシャに聞いてみようか、と。
アリーシャ曰く、この世界は小説の舞台であるらしい。彼女はマーガレットのことをヒロインだと言った。小説の主人公たるマーガレットが死んで、この後はどうなるのか。
マーガレットを救う方法があるかもしれない。
――いや、ちょっと待て。
そこで、私は思い直す。
本当にマーガレットの存在は現実なのだろうか。幻覚であるという可能性はまだ否定できない。
何しろ、この国では死者は神様の身許に行き、疲れた体を休めるというのが神殿での教えだ。死者がこうして肉体を失って彷徨っている、なんてことを口にすれば色々とまずいことになる。
隣国アールムガルト神帝国だったらこのとんでもない話を信じてくれる人間がいるかもしれない。だが、この国では違うのだ。
それに、アリーシャの話も……小説の世界というのは……。
悩んだ結果、私は魔道鳩を父のところだけではなく、アリーシャのところにも飛ばした。
そして翌日、私は学園を休んでアリーシャの屋敷を訪ねることにしたのだった。
だが。
「……あの人を呼び戻してちょうだい、今すぐ!」
翌日、私はアリーシャへ差し入れとして買ってきた、有名店のタルトを手に尋ねたところ、玄関を開けてすぐにその異変に気付いた。
アリーシャは仄暗い瞳で宙を見つめた状態で私を出迎え、彼女の背後にいる使用人たちも顔色が優れない。玄関ホールまで響いてくる女性の声は、間違いなくアリーシャの母親のものだ。
慌ただしい足音も聞こえて、何やら事件でも起きたような様子だった。
「……良い匂いですわ。これは桃の匂いかしら」
私から受け取った箱を見下ろし、のろのろとした口調でそう言うアリーシャがあまりにも痛々しくて、何て言葉を続けようかと悩んでいると。
『わあ、お姫様みたい。綺麗』
マーガレットの小さな身体が彼女の近くに歩み寄り、心配そうに手を伸ばす。『でも、苦しそう。どうしたの? 痛いところがあるの?』
おろおろと言葉を続けた少女の様子に、私もハッと我に返ってアリーシャの肩に手を置いた。
「すまない。取り込み中だっただろうか。こんな時に訪ねてきてしまって申し訳ない」
「いいんですのよ。こんなこと、日常茶飯事ですもの。お父様の隠し子がまた見つかっただけで」
「え」
私が透き通った少女にちらりと視線を投げたが、当のマーガレットは何も気づいていないらしい。そう言えば、この少女はアリーシャの腹違いの姉妹になるはずだ。
また見つかった、ということは。
「奥様、落ち着いてくださいませ」
玄関ホールから見える位置に二階へと続く階段があるが、そちらの方から男性の声が響いてきた。私もよく知っている、この屋敷の家令の男性のもので、柔和な笑みを浮かべながら何か言葉を続けている。
そして彼の視線の先には、怒りに燃えながらも優雅な足取りで階段を降りてくる美女の姿があった。
「わたくしは冷静よ? あの人を目の前にしたらどうなるか解らないけれど、今度こそ息の根をとめるかもしれないけれど、少なくとも今は冷静なのよ!」
そう鋭い声を上げながら、愛用している扇子を開き、その口元を覆う。
その彼女の背後を、暗い表情の少女が歩いてくることに違和感を覚えた。
「お父様の交際相手の娘さんなのですって」
アリーシャが私の上着をぎゅっとつかみ、震える声でそう囁いた。視線を落とすが、アリーシャは俯いていて彼女の表情は見えない。だが、諦めに似た暗い声が彼女の心情を教えてくれている。
「彼女の言葉が真実ならば、お父様の血を引いているの」
マクドガルド夫人の後に続いた少女は、ふわふわとした赤毛に茶色の瞳という見た目で、マクドガルド家の色とは違う。顔立ちは整っているものの、強張った表情が彼女から可愛らしさを奪っていた。
歩き方は貴族とは思えないし、服装も質素な藍色のワンピースだ。
「彼女、お父様が働いている辺境の村出身らしいのです」
私の上着を掴むアリーシャの手がさらに白くなった。「彼女が我が屋敷を訪ねてきた理由は、彼女のお母様が亡くなったことがきっかけなんだとか。それまで、彼女のお母様はわたしのお父様と付き合っていて、それで……」
そこで、アリーシャが階段の上にいる少女に目をやった。
そして私も気が付いた。
赤毛の少女は、憎しみに似た色を瞳に浮かべ、マクドガルド夫人とアリーシャを交互に見やる。
「……一体」
私が疑問を口にしようとすると、アリーシャが自嘲の笑みをその赤い唇に浮かべた。
「彼女のお母様、暴漢に襲われて亡くなったらしいの。それで、その事件の夜、彼女の家から逃げ出す男性の姿を目撃した人がいるのだとか」
それは、つまり。
「あの子、お父様がその犯人だと思ってやってきたんですわ。お母様の仇を討ちにきたのです。人殺しの犯人を断罪するために」
アリーシャがさらに詳しく説明してくれたのだが、どうやら、赤毛の少女――名前はアイビーというらしい――の母親は、辺境の村の宿屋で働く女性で、貴族の男性と秘密の関係にあったのだという。
最初は、その男性に騙されていたそうだ。いつか結婚しようと約束し、ずっと待たされていた。
それで結局、何かいざこざがあってその男性に――つまりアリーシャの父親に殺されたのだというのだが……。
「本当に君の父上なんだろうか?」
私がそう訊くと、アリーシャは頷いた。
「彼女のお母様が言っていたそうですわ。お付き合いしているのは辺境騎士団で働いている、お父様で間違いないって。優しくてとてもいい人だって言ってらしたみたい」
「そうか……」
私はそれに頷きつつ、何て言ったらいいのかと言葉を探していたのだけれど、その途中で別の意味で言葉を失うことになる。
『どうしよう、違うの』
おろおろとしつつ、赤毛の少女の近くをぐるぐると歩き回る、透き通った人影がぶつぶつと呟いているのが聞こえてきたからだ。
その女性は、えんじ色のワンピースに身を包み、癖っ毛の赤毛を綺麗に後頭部で結い上げた美女だった。肉感的な身体の前で両手を組み、まるで神にでも祈るかのように続ける。
『ごめんなさい、わたしは嘘をついたの。お付き合いしているのは騎士団の人なのは間違いないけど、あなたに訊かれて誤魔化したの。口止めされていたし、咄嗟に憧れの騎士様の名前を出したのよ。凄く人気があって、誰だって一度はデートしたいって思うような人。それがマクドガルド侯爵様だったの。ちょっとだけ、わたしも夢を見たかっただけなの。それに、最初は『あの人』だってマクドガルド侯爵様の名前を使って女遊びをしていて、それに引っかかったわたしが、あまりにも情けなかったから……真実を知った後も、つい、そういうことにしてしまったの』
どうしよう、どうしよう、と呟きながら赤毛の少女の周りを歩き続ける女性に、なるほど、と私は頷くことになった。
「アリーシャ」
私はそこで、改めてアリーシャの肩を優しく叩き、苦しそうな彼女の顔を覗き込んで微笑んだ。「少なくとも、両方の意見を聞くべきだと思うよ。決めつけはよくない。君の父上の話も聞いて、判断しよう」
「それは……そうかもしれないですけど」
アリーシャの表情は、猜疑心に溢れている。それはマクドガルド侯爵のこれまでの行動によるものだろう。何しろ、彼には前科があるのだ。マーガレットという存在がそれを示している。
それでも。
「騎士団の連中には質の悪い人間もいて、他人の名前を使って悪事を働くやつもいると聞くよ。君の父上は女性に人気があるというのは事実だし、辺境の騎士団は現地の……その、王都の礼儀正しい騎士たちとは違うという噂もあるから」
そして気が付けば、アリーシャとマクドガルド夫人の視線が私に向けられ、さらに透き通った赤毛の女性と、その娘の視線もこちらに向けられていた。
何とも言い難い空気が流れ、その後、私はアリーシャの手を取って応接室へと向かったのだが。
最初の目的、マーガレットのことは何も彼女に聞けることはなかった。
『見えてるのかしら』
と、こちらの顔を覗き込んでくる赤毛の女性の視線を避け、私は何食わぬ顔でアリーシャと桃のタルトを食べ、普通に帰宅することになった。
ただ問題が一つ。
『お姫様のところで暮らしたい』
そう言って、マーガレットがアリーシャのドレスを掴んで離れなくなったことだ。確かに幼い女の子にとっては、煌びやかなドレスやアクセサリーを持つアリーシャは憧れなのかもしれない。
だがこのまま放置していいのだろうか。
とりあえず、どこかの機会があったらアリーシャに小説のこと、ヒロインについて訊いてみようと思っているうちに数日が過ぎた。
『親愛なるレックス様』
という手紙が魔道鳩により届けられて、赤毛の少女のその後が教えられた。
あの後、マクドガルド侯爵が屋敷に戻ってきたらしい。予想していた通り、侯爵は赤毛の女性との関係を否定した。
さすがに名前を使われたことを知った侯爵は激高したようで、そのまま辺境騎士団のところにとんぼ返りすると誰が自分の名前を騙ったのか徹底的に調べたそうだ。その結果、数人の男たちが侯爵の名前を使って女遊びしているのが明らかになった。
その中の一人が、赤毛の女性を痴話喧嘩の末に殺した罪で捕縛され、牢の中に入れられたらしい。
その後、真実を知った赤毛の少女はそれこそ死にそうな顔でマクドガルド侯爵夫人とアリーシャに頭を下げて謝罪した後、犯人を捕まえてくれたことにお礼を言って村に戻ったらしい。
『レックス様が冷静に言ってくださったこと、本当に感謝しています。あのお言葉で、わたしもお母様も、お父様に怒りを向けることなくお話しできたと考えています』
私の視線の先で、綺麗な文字が並んでいる。
『一度、レックス様と一緒に王都の商店を巡ってみたいと考えているのですがいかがでしょうか。今回のお礼として、レックス様が気になる魔道具を一点、贈らせていただきたいのです。
それで、もしもご迷惑でなければ、最近王都で人気のパンケーキ屋さんにも寄れたらと思っています。その、できたらでいいですが』
整然とした文字が、最後の方だけ僅かに震えている。書くのに緊張したのだろうか、と少しだけ私の胸が騒めいた。
やはり、アリーシャは可愛らしい。
もちろん、デートの誘いを断るなんてことはしない。絶対にしない。あの大人びたアリーシャが可愛らしい行動を見せるのは、私にだけだと気づいてからは特に、彼女を優先したいと考えている。
近いうちに、アリーシャを訪ねてみるのは決定だが。
そのついでに――マーガレットと赤毛の女性がまだ彼女の屋敷にいるかどうかも確認したいと思った。消えてくれていれば平穏が戻ってくる、と僅かな期待を抱いたが。
赤毛の女性は消えたが、マーガレットはアリーシャにべったりくっついていて離れようとしなかった。もちろん、アリーシャはそれに気づいてなどいない。
どうすればいいだろうか。
誰か教えて欲しい。
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