差し伸べた手は自分を温める
ポチョムキン卿
人は一人じゃない
◇真夜中の奇跡:100円がくれた命の輝き
「……はぁ、今日も終わった」
夜7時、システムエンジニアのケンジは、疲れ果てた体を引きずるようにしてコンビニの自動ドアをくぐった。彼の日常は、3年前まで、まさに「会社と家の往復」という言葉に集約されていた。朝、目覚ましのアラームで強制的に覚醒し、満員電車に揺られ、目の前のモニターと無言で格闘する。夜はコンビニ弁当をかき込み、風呂に入って寝る。その繰り返し。心はいつもすっからかんで、まるで透明な抜け殻のようだった。「生きてる」という感覚が、どこか遠い国の出来事のように感じられた。
棚から適当に選んだエナジードリンクとパンを手にレジへ向かうと、彼の前には、小さな背中があった。小学3年生くらいだろうか、まだあどけない顔の少年が、両手に握りしめた小銭を広げていた。
「えっとね、これと…これと…」
少年が指差したのは、鮭のおにぎり二つと、小さなチョコレート菓子。しかし、店員は困ったような顔で首を横に振る。
「ごめんね、坊や。あと100円足りないみたいだね」
少年の顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのが見えた。うつむき、握りしめた小銭を何度も数え直している。その小さな肩が、絶望に震えているように見えた。
「……っ、おかあさんに、おにぎり…かってあげたいんだけど…」
絞り出すような少年の声が、ケンジの耳に届いた。その瞬間、彼の体が、まるで自分の意志とは関係なく動いた。財布を取り出し、迷うことなく千円札を一枚取り出すと、レジの店員に差し出した。
「これ、俺が出します」
店員も少年も、驚いた顔でケンジを見た。少年は大きな目をさらに見開き、ケンジの顔と千円札を交互に見ていた。
「えっ…でも…」
少年が戸惑うように呟く。ケンジは、少年の目線に合わせて少し体をかがめ、優しい声で言った。
「いいんだよ。お母さんのために、早く買ってあげな。きっと喜ぶよ」
少年の顔に、見る見るうちに光が差した。まるで、これまで感じたことのない種類の光だ。その顔には、驚きと戸惑い、そして純粋な喜びがごちゃ混ぜになっていた。
「ほんと!?ありがとう、お兄ちゃん!!」
少年は、お釣りと商品を受け取ると、小さな体を弾ませるようにしてコンビニを飛び出していった。その背中が、まるで光の粒を撒き散らしながら走っていくように見えた。
少年の背中が見えなくなった後も、ケンジはその場に立ち尽くしていた。胸の奥が、熱い塊に変わっていた。ぐわっと、これまで感じたことのない、生命力のようなものが込み上げてくる。そして、なぜか、涙が勝手に溢れ出てきた。自分のことながら、彼はその感情の激しさに戸惑った。
「私、初めて見ました…あんなに喜んでいるお子さん」
店員が優しい声で言った。ケンジは、流れる涙を拭いもせずに、ただ頷いた。
その日から、ケンジの人生は変わった。あの夜の少年の笑顔と、胸に込み上げた熱い感情が、彼の中で何かのスイッチを押したのだ。「人の優しさに触れる瞬間をもっと見たい」。その衝動に突き動かされ、彼は週に一度、地域のボランティア活動に参加するようになった。児童養護施設での読み聞かせ、高齢者施設の清掃、地域の祭りでの手伝い。自分が“必要とされている”と感じるだけで、こんなにも生きる力が湧いてくるものなのかと、ケンジは驚き、そして感動した。
あの日の100円。もしかしたら、いや、きっとそうだ。あれは、彼が人生で一番価値のある使い方をした100円だった。彼の心に、再び光を灯してくれた、たった100円の奇跡。
◇静かな手助け:寄り添う心が紡ぐ温かさ
それから数ヶ月後、同じコンビニで、また別の静かなドラマが繰り広げられていた。
夜8時過ぎ、仕事帰りのユキは、足早に店内へ入ってきた。アパレル企業で働く彼女は、流行に敏感な若い女性だ。今日は仕事で大きなミスをしてしまい、心は沈んでいた。少しでも気分転換をしようと、雑誌コーナーで立ち読みをしていた時、隣のレジから、耳慣れない声が聞こえてきた。
「ええと…これ、どうやって使うんですか?」
ユキが目を向けると、会計を済ませようとしているのは、小柄で白髪の老紳士だった。手にしているのは、最新型のスマートフォン。どうやら、キャッシュレス決済の方法が分からず、困っているようだ。店員も若いアルバイトで、丁寧ながらも、どこか説明に手こずっている様子が見て取れた。
「えっと、このアプリを開いて…えっとですね、このバーコードを…」
老紳士は戸惑った顔で、何度もスマホの画面を眺めている。レジには少しずつ列ができ始めていた。
ユキは、一瞬迷った。疲れているし、自分のことで頭がいっぱいだ。だが、老紳士の困惑した顔と、アルバイト店員の焦りが、彼女の心に訴えかけてきた。
「もしよろしければ、お手伝いしましょうか?」
ユキは、自然と声をかけていた。老紳士は、ハッとしたようにユキを見た。
「おお、すまないねぇ。この新しい機械がどうも…」
「大丈夫ですよ。多分、これで合ってます」
ユキは、老紳士のスマホをそっと受け取ると、慣れた手つきでアプリを立ち上げ、バーコードを表示させた。そして、それを店員に見せる。
「これで大丈夫です」
店員はホッとした顔で「ありがとうございます!」と言い、決済を終えた。老紳士は、何度もお礼を言ってユキに頭を下げた。
「本当に助かったよ、ありがとう、お嬢さん」
「いえ、とんでもないです。お気をつけて」
老紳士は、心底安心したような顔で、ゆっくりとコンビニを後にした。
老紳士の背中を見送りながら、ユキは不思議な感覚に包まれていた。さっきまで仕事のミスで沈んでいたはずなのに、胸の奥が、じんわりと温かくなっている。あの老紳士の、心からの「ありがとう」という言葉が、じんわりと心に沁みていく。
「私、あの人に必要とされたんだ」
そう思った瞬間、彼女の心に、フワッと光が灯った。仕事のミスなんて、些細なことに思えてくる。自分が誰かの役に立てたという事実が、こんなにも大きな喜びになるなんて。それは、高価なブランド品を買う喜びや、美味しい食事をする喜びとは、全く違う種類のものだった。
コンビニを出ると、先ほどまで重くのしかかっていた疲労感が、すっかり軽くなっていることに気づいた。夜空を見上げると、星が瞬いている。それは、さっきまで曇っていた彼女の心にも、再び明るい光が差し込んだ瞬間だった。
◇ふとした優しさ:与えられた喜びが広がる瞬間
さらに数ヶ月後、そのコンビニは、今度はアキオという50代のサラリーマンにとって、特別な場所となる。
いつものように、残業を終え、コンビニで翌日の朝食を買っていたアキオは、レジの列に並んでいた。彼の前には、腰の曲がった小柄なご婦人がいた。どうやら、買い物を終え、小銭入れから代金を出そうとしているのだが、手が震えてなかなか小銭が掴めないようだ。
「あれ、おかしいわねぇ…手が…」
ご婦人は、何度も小銭入れの中を探っていた。小銭が床に落ちてしまうのではないかと、アキオはハラハラしながら見守っていた。
すると、彼の背後から、少し焦ったような声が聞こえた。
「すみません、急いでるんですけど…」
列の後ろから、苛立ちを隠せない声が聞こえてくる。店員も、他のお客さんの視線を感じてか、少し戸惑っている様子だ。
アキオは、助け舟を出そうかと思った。だが、その一瞬早く、ご婦人がゆっくりと顔を上げた。そして、彼の目を見て、はにかむように言った。
「あら、ごめんなさいね。急いでいらっしゃるのに、もたついちゃって…もしよかったら、これ、どうぞ」
そう言って、ご婦人は、小銭入れとは反対の手に持っていた小さなアメ玉を、アキオに差し出したのだ。それは、ごくありふれた、コンビニでも売っているようなレモン味のキャンディだった。
「えっ…?」
アキオは、一瞬言葉を失った。まさか、自分が助けようかと思っていた相手から、先に優しさを与えられるとは夢にも思わなかったからだ。
「いいのよ、いいのよ。これでも食べて、ちょっと一息つきなさい」
ご婦人の皺だらけの手から、アキオはそっとアメ玉を受け取った。そのアメ玉は、手のひらに乗せると、ほんのりと温かかった。
結局、後ろに並んでいた人が「私、急いでないので大丈夫ですよ」と声をかけてくれたことで、ご婦人は無事に会計を済ませ、店を出て行った。
アキオは、手に持ったアメ玉をじっと見つめていた。たった一つの、ありふれたアメ玉。しかし、彼の胸には、得も言われぬ温かさが広がっていた。仕事のストレス、日々のルーティンで凝り固まった心が、ふわりと解き放たれるような感覚だった。
「まさか、俺が優しさをもらうなんてな」
アキオは、ポケットにアメ玉をしまった。その日、彼は家に帰り、いつもより早く眠りについた。そして翌朝、彼はいつもの通勤ルートを少しだけ変え、道端に落ちていたゴミを拾った。会社に着くと、少し早く出社して、散らかった机の同僚のスペースをさりげなく整えた。
あのコンビニで受け取ったアメ玉が、彼の中で、他者への小さな優しさを呼び起こしたのだ。与える喜びを知る者が、その喜びを他者に与え、そしてまた別の誰かが、その与えられた優しさから、新たな与える喜びを見つけていく。
繋がりが紡ぐ、希望の連鎖
ケンジの100円、ユキの静かな手助け、そしてアキオがお婆さんから受け取ったアメ玉。コンビニという日常の空間で交わされた、ごくささやかな、しかし確かな心の交流。そこには、与えることから得られる、かけがえのない喜びが確かに存在した。
それは、自分自身の心を潤し、生きる力を与えてくれるだけでなく、まるで水面に広がる波紋のように、周囲にも広がっていく。誰かのために差し伸べた手が、別の誰かの心を温め、その温かさがまた別の誰かへと伝播していく。
私たちが「生きてる」と実感できる瞬間は、きっと、誰かのために何かを与えた時、そして、誰かから純粋な優しさを受け取った時にこそ、最も強く感じられるのだろう。この小さなコンビニで生まれたささやかな光の連鎖は、今日もどこかで、誰かの心を照らし続けているに違いない。
差し伸べた手は自分を温める ポチョムキン卿 @shizukichi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます