壁の中の囁き

よし ひろし

第一話 雨夜の兆候

「おや、新しいお隣さんかな?」


 引っ越しの荷運びが丁度終わり、これから室内の整理だな、と部屋に戻ろうとした時、隣の部屋のドアから一人の老人が姿を現し、声をかけてきた。見事な白髪で、見た感じ、七十歳を越えてそうだ。耳にチラリと見えたのは、今流行りのワイヤレスイヤホンではなく、補聴器だろう。


「こんにちは、隣に越してきた上原うえはらです」


 ひと段落したら挨拶に行こうと思っていたので丁度いい。私は笑顔で頭を下げた。


「こんにちは。近藤こんどうです。この部屋で一人暮らしをしております。また、お若い女の子で――学生さんかな?」

「いえ、もう二十七歳ですよ。近くの会社に転職してきたんです」

「そうですか。ここには長く住んでいますので、何か困ったことがあったら言ってください。――では、わたしはの日課の散歩に」

「お気をつけて」


 左足を少し引き気味で廊下を階段へと歩いていく老人の後姿を見送り、私は部屋に入った。



 「月見壮」という名前にふさわしい木造二階建ての古いアパート。その二階、廊下の突き当りの部屋が私の新居だった。前に住んでいた都会の窮屈なワンルームに比べると二間あるあるので広々として、気持ちがのびのびする。公私ともに色々あり、六月という中途半端な時期だったが、五年ほど務めた会社を辞めて、少し郊外の小さな会社に転職してきた。そこで会社の近くに新居を探し、広さの割に安い家賃だったここを見つけた。


「よし、こんなものかな」


 荷解きを終えた段ボールを部屋の隅に寄せ、大きく息を吸い込む。木の匂いと、少しだけ古びた畳の香りが混ざり合って、なんだか懐かしい気持ちになった。三年前に亡くなった祖母の家がこんな匂いだったな、などと思っていると、いつの間にか外が雨になっていた。

 部屋の整理を続けていると、しとしとと静かに降り出した雨が徐々に強くなり、空気が少しヒンヤリとしはじめた。そこで、温かいお茶で一息つこうと玄関わきに備え付けられた小さなキッチンへ向かった。その時、ふと視界の端に違和感を覚える。居間の壁、ちょうど私の目線くらいの高さに、じわりと黒いシミが浮かび上がっているのを見つけた。大きさは手のひらほど。


「……雨漏り、かな」


 まあ、古い建物だし、仕方ないか。大家さんに言えばすぐ直してくれるだろう。そう軽く考え、あまり気にしないことにした。けれど、一度気づいてしまうと、どうしてもそこに目がいってしまう。ザアザアと窓を叩く雨音のリズムに合わせて、シミが呼吸しているかのように、濃淡を微妙に変化させている気がした。


 夜も更け、雨はさらに勢いを増していく。前のマンションに比べると、雨音の響きが大きい。防音が甘いのか、近くの道を走る車が水を跳ね上げて走り去る音も、はっきりと耳に届いてくる。


「音までは、考えてなかったな……」


 ベッドに潜り込み、新しいシーツの感触を楽しもうとしたが、なかなか寝付けない。さらに、先ほどの壁のシミが妙に気になり、思わず壁に視線を向けた。刹那、


「えっ――!?」


 ゾクリと背筋が凍った。

 常夜灯の薄明りの中、黒いシミが、ただのシミではなくなっていたのだ。それは、まるで歪に引き伸ばされた人の口のように見えた。嘲るでもなく、叫ぶでもなく、ただぽっかりと開いた暗い穴。その形があまりに生々しくて、私は息を呑んだ。

 気のせいだと言い聞かせようとしたが、もう無理だった。そう一度思ってしまうと、もう口にしか見えない。

 更には、雨音に混じって、何かが聞こえるような気がしてきた。耳鳴りだろうか。キーンという高い音の奥で、ひどくか細い、囁きのようなものが。


(……おね…い…)

「――!?」


 女の声!


 まさか、違う、そんなはずはない。疲れているんだ。引っ越しの疲れと、慣れない環境のせいで、幻聴を聞いているだけ――


 私は固く目を閉じ、両手で耳を塞いだ。ドッドッドッと、自分の心臓の音だけがうるさく響く。


「…………」


 しばらくして、恐る恐る目を開け、耳から手を離す。雨音は変わらずに降り続いていた。壁のシミは……やっぱり、そこにあった。形も変わらない。だが、女の囁きのような音は聞こえない。


「……考えすぎか」


 声に出してみると、少しだけ落ち着いた。そうだ、早く寝てしまおう。明日は早めに起きて、残りの片付けをして、近所を散策するんだ。そうやって無理やり楽しい予定を思い浮かべ、私は布団を頭まで深く引き被った。

 だけど、その夜、眠りに落ちる寸前の微睡まどろみの中で、私は再び聞いてしまった。今度はもっとはっきりと、耳元で囁くように。


(……おねがい……)


 悲しみに濡れた、哀れな声。

 それは、これから始まるはずだった私の輝かしい新生活に、不吉な影を落とす、始まりの合図だった。

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