第十八話 名もなき龍の子

 ――富士赫奕仙洞ふじかくやくせんどう、中央部統括室にて。


「天鳳真君様……」

「はい? 何でしょうか?」

「――以前からお話をしたかったのですが。暉燐教主様の本名登録――、正式には律法に従っておりませんね?」


 その凜花女仙の言葉に、天鳳真君は少々ため息をついて言葉を返す。


「貴方は本当に、頭が硬いところはとことん硬いですね? ――別にそのままで構わないでしょう?」

「――無論、今更、という話ではありますが。律法に例外を許せばその分……」

「――はい待った。……そこまでです。ええ、貴方の言う通り――、泠煌ちゃんの本名登録、すなわち【泠煌】のふりがなが中国語読みであるのは、厳密には正しくありません。彼女は日本生まれの日本の龍神ですから、日本人としての名前登録方法に従うのが正しいのです」


 その天鳳真君の言葉を黙って聞く凜花女仙。


「しかしながら……、彼女の――、泠煌ちゃんの名簿登録上の親は【鵬雲道人】その人であり、彼が大陸出身であるので――、親が付けた名前としては今の名前のよみがなが正しいのですよ」

「――ふむ? 仙人になる以前の名前は、放棄したという話ですか?」

「……。凜花女仙さん――、貴方は結構その気もなしに言葉で人を傷つけてしまう可能性があります。いいでしょう――、貴方には特別、僕自らがをもって、そこら辺をキツく指導いたしましょう」

「……は、はあ」


 珍しく困惑顔で凜花女仙は自身の師匠を見つめた。


「……僕がこの話をしたことは、泠煌ちゃんには言わないように――。しこたま叱られてしまいますから、ね?」


 そうして凜花女仙の師匠――、天鳳真君はある昔話を話し始める。それは――、余りにもむごすぎる目にあった一人の幼子の、人生の始まりに関するお話であった。



◆◇◆



 日本のとある地方に、かつて金鱗の龍神が住まわっていた。それは周辺一帯にその霊威をもって利益をもたらし、それ故に多く人々の信仰を受けていた。

 しかし、その龍神には困った癖が存在していた。正式な妻を持ちながら、人の中に入っては密かに子を産ませていたのである。

 更に言うならば、その妻もあまりに嫉妬深く――、下手に子の存在を知られれば、夫である龍神本人に怒りを向ければいいものを、何故か龍神の寵愛を受けた娘や、生まれた子に怒りの矛先を向けていたのである。まさしく、祟り神としての側面を持つ彼らの、その暴挙が正されるのはそこから先の未来の話ではあるが、その時はまだ彼らは信仰の対象であり、そこに住む人々――、その支配者層も彼らに敬意を持っていたのである。

 そして――、そこら一帯に祖を持つある豪族の娘に、恋人がいないながら赤子が出来た、――という話が持ち上がる。それが金龍神の子であるとわかると、その豪族の者たちは青い顔をして大慌てすることとなった。金龍神の子どもであれば、まさしく神の血を次ぐ子ども、それ故に大事にしなければならない。しかし、それを奉ずることは金龍神の妻の怒りをもらい、そのまま豪族の滅びを招きかねなかったのである。

 まさに死なせて闇に葬ることも出来ぬ【忌み子】となった子どもを、彼らは密かに地下で生かすことにする。さらに、不用意に名付けをすれば、呪法に長けた龍神の妻にバレると考えて、絶対に名前を与えぬようにして、そもそも生まれなかったものとして封じたのである。

 そうしてその子は、その豪族の先代の主に仕えた事を理由に保護を受けている、不自由な身体の老人の世話によって隠れて生かされることになった。

 ――その子の存在は、もちろんかの金龍神の妻にはバレていたのだが……。


「……ほれ、食え」

「あ……あ」


 地下のほぼ牢獄と呼べる場所の、ボロの寝台の近くにその老人は食べ物を乗せた器を置く。

 その器にあるのは、老人の食べるものすら豪華に見えるほどのみすぼらしい食べ物であり、老人は冷たい目でそれを貪る子の姿を眺めていた。


「……ふん、全て食べれば器はわしが持ってゆく。――早く食べ終わるのじゃ」

「あ、うう……」


 その子の様子に、深くため息を付いてから一人言をつぶやいた。


「わしの言葉がわかるはずもないか――。そもそもそのような教育すらしておらんからな」

「う……、あ」


 不意にその子が、いつもしない行動を取る。――それは、老人に向かって微笑んで器を返したのである。


「……」

 

 老人は黙って器を受け取る。それを微笑みながら見つめる子。


「……わしにそのような顔を向けるでない。――わしは先代の遺言ゆえに、無用な存在であるにも関わらず、お家に生かされておるだけの無様な老人じゃ。わしは――、わしより惨めなお前を見て――、喜んでおるのじゃ」

「――う?」

 

 その子の無垢な笑顔が老人の心に突き刺さる。


「……くそ――。ああ、今代の主には何かと一言あるが――、あまりに酷すぎる所業ではないか……」

「……あ」


 その苦渋に満ちた老人の手に小さな手が触れる。


「……ああ、でもわしもまたお前と同じ――、何もできぬ、ただ彼らの力に生かされているだけの存在。――もしわしにかつての力があれば……」


 その小さな子の頭を老人は撫でる。するとその子は嬉しそうに微笑んだ。


「……ふん、もしわしに学があれば、良い名前でも付けてやる所だが――。まあそのような真似をすれば、主どもの怒りだけでなく、かの龍神の妻の呪すら被りそうじゃからな。許してくれ――」


 そう言って優しく笑う老人に、その子はいつまでも笑顔を向けていた。



◆◇◆



 それからまた、暫く後――、老人もかなりの高齢に差し掛かり、動きも緩慢になりつつあったが、それでも小さな娘となった子の世話を続けていた。


「あ、りが、とう……」

「うむ……、いいさ――。これくらいしかわしには出来ん。だが、今の言葉は――、絶対に他の者に聞かれてはならんぞ?」

「うん……、わし――、わかった」


 その言葉に――、老人は苦笑いで答えた。


「はあ……、わしの口癖がうつってしまったな。困った話だ――」


 そうして笑う老人は、器を回収した後に静かに地下を去っていった。

 こうした交流はそれからも続き――、そして続いていくと思われていた――、が。

 その娘の歳が10歳を超えたあたりで、その悲劇は起こったのである。


「――誰だ? まさか地下の娘に【名付け】をしたものがおるのか?」


 そう言って怒りの籠もった目で老人を睨むのは現当主である男。それに必死に頭を下げながら老人は訴える。


「……そのようなことはありません! そのようなだいそれた事……」

「――ならば何故!! 我家に呪が降り掛かっておるのか?!」

「……それは」


 腰の太刀に手を添えながら男は老人を見下ろす。


「……お前、まさか娘に情を――」

「……そ、それは――。そのようなこと――」


 男の言葉に老人は怯えた目を向ける。その主は目を細めてから、老人に言い渡した。


「……まあいい、だが――、こうなった以上、もはやあの娘を隠して生かす意味もない」

「――!!」

「せめてあの龍神の妻が望むとおりに――、贄に捧げて許しを請う――」


 そのあまりの言葉に――、老人はただ絶句するしか無かった。


(――そんな!! そんなむごい話があってたまるか!! ……あの子は!! 贄になるために生まれたとでも言うつもりか?!)


 ――そして、老人は……、ついに悲壮な決意を胸に抱いたのである。



◆◇◆



 その日は屋敷のほうが何かと騒がしかった。娘は闇の中でいつもの老人がやってくるのを待っていた。

 しかし、いつも来る時にその老人はこない。少し心配になって、いつもそばを離れなかった寝台から離れて、地下から地上へと伸びる階段へと歩んでいった。

 ――そして、そこに呻く老人を見た。


「……あ!! おじい!!」

「……く、まだここに手はまわっておらなんだな?」

「おじい!!」


 老人は――、手に血に濡れた太刀を持ち、全身もまた切り刻まれて血に濡れていた。

 彼は心底困った様子で苦笑いをして娘に言った。


「……は、しばらく戦から離れておったから、うまく戦えなんだ――。なんとも無様よな……」

「うう!! ああああ!!」

「……大丈夫じゃ――。わしは死なん……、お前を表に出すまで――」


 その言葉に娘は横に首をふる。それを見て老人は優しく笑っていった。


「……ふふ、恐れる必要などない――。ここにいてもお前は死ぬだけじゃ……、ならば外に出て――、そして自由に生きるがいい」


 血を吐きながら立ち上がる老人にすがりつく娘。しかし――、そこに手に太刀を持った老人の主が現れる。

 彼は感情を持っていないかのような無表情で老人に言う。


「……ふん、先代に恩を持ちながら、我が代でそれを仇にするとは――。心底愚かだな……」

「――く、主よ……、どうかお下がりください――。この娘は……」

「……しらん、その娘は贄に捧げる――」


 その主の非情な答えに、ただただ悲しげな表情で太刀を構える老人。当然、その老人にはそれ以上戦う力などない。


「死ね……」


 そう呟いてその主の凶刃が老人を襲う。それは――、確実に老人のその肩から胸にかけてを切り裂き……。


「……ああ」

「おじ、い?! ……あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 ――そして、その名もなき娘の悲鳴が地下に響いたのである。



◆◇◆



 ――それから暫く経って、その娘は全身にを纏いながら、見知らぬ森を彷徨い歩いていた。

 小さく稲妻を纏うその身には、数か所、太刀で切られたらしき切り傷を受けており、しかし致命傷には至っておらず、その肩に血まみれの老人を背負っていた。

 その老人が小さく呻くように言葉を吐く。


「……もういい、わしはここまでじゃ」

「おじい……だめ。死ぬの……だめ」

「……流石に疲れた――。どうか下ろしてくれぬか?」


 その言葉に娘は静かに老人を下ろした。その弱々しい手が娘の頬に触れる。


「……ああ、このようなことになるならば、初めから名付け法を学んで――、勝手にでも名付けてやればよかったのぅ」

「……おじい、死ぬのはなしじゃ――、いきるのじゃ。わしが……、お前を助けるのじゃ」

「――ふふふ、結局、わしの口癖がうつってしまって、これではお前が本当は何歳なのかわからんな?」


 そう言って笑う老人に、ただその娘は涙を見せる。


「……学がなくていい名が思い浮かばぬ。――流石にお前が自由になる記念を、適当な名前で駄目には出来ぬ」

「おじい……」

「――どうか泣かないでほしい。今からお前は――、自由に生きるのじゃ。そのための力にも目覚めたであろう? ――その龍神の力があればお前はどこへだって行ける……」


 その老人の言葉に娘は首を横に振る。

 老人はその姿を困った様子で見つめると、その娘の頭に手をおいて、――優しく温かい手のひらで撫でた。


「……ああ、困った、お前をなんとか支えてやりたいが――。ああ……」


 そのまま老人の手は地面に落ちる。――そのまま二度と動くことはなかった。


「やだ!! 嫌だ!! おじい!! いやああああああああああ!!」


 ――その森に娘の悲鳴だけが響く。

 名を与えられなかったその娘は、こうして生家から外へと出ることになった。

 その娘は、そうして龍神の力と、――自由に生きる権利を手に入れた。

 しかし、そうして老人が命をかけた想いは――、図らずとも彼女の心に大きな傷を与える結果となってしまう。


 ――いやああああああああああ!!

 ――いやじゃ!! 出ないのじゃ!! 出たくないのじゃ!! 誰にも会いたくないのじゃ!!

 ――痛いのはいやじゃ!

 ――怒鳴られるのはいやじゃ!!

 ……ヤダあああああああ!! そんな眼で見ないでええええええ!!

 ――わかっておる!! わしはいないのじゃ!! 存在しないのじゃ!! 存在してはいけないのじゃああ!!

 ――母上……、父上……、もういなくなるから――。わしはいなくなるから……。どうかわしを許して……。

 ――わしはいないのじゃ……、もうどこにもいかぬのじゃ……、静かに野垂れ死ぬのじゃ……、だから安心して――。


 娘の心には――、癒やすことも叶わない傷が生まれていた。

 そして、仕方のないことではあるが――、ほぼ老人しか世界を知らなかった娘には、生きるという事の知識が欠けていたのだ。


 ――ああ、おじい――、わしには自由に生きるという意味がわからぬのじゃ――。

 ――おじいに守られ、命がけで救われて――、それなのにわからぬのじゃ。

 

 ――ああ、わしは――、これからどう生きればいいというのじゃ?


 ――そうして娘は、よろよろとした足取りで森の闇へとその姿を消す。

 それから暫く後――、とある霊山にが移り住んだ、という話が広まり始める。

 そこから先の物語は――、すでに語られている。



◆◇◆



 凜花女仙が部屋を去った後、――天鳳真君は一人呟く。


「まさに……、泠煌ちゃんにとっては名がついてからが、正しくを理解した時期。そして、それ以前は――、決して忘れてはならない想いとともに、地獄の苦しみもそこにはあるのです」


 その机の端に座らせた【泠煌ちゃん人形】を撫でつつ、――沈んだ様子の彼は言葉を続ける。


「彼女が真人に至りながらも、いつでも無視が出来るはずの【精神的苦】を、その心に持ち続けるのは――、あるいはそういった事なのかも知れません」


 ある理由によって名が与えられなかった娘は、一人のの導きで正しく生きるということを学んだ。

 それゆえに、そこから先こそが【名前を持つ人】としての始まりであり、だからこそ彼女の名前は親として登録された【鵬雲道人】の名付け方法に従った。

 ――無論、それはそれ以前を無視するということではなく、当然、今も泠煌は――。


 ――その優しい記憶を――、

 ――地獄の記憶とともに、今も抱え続けているのである。

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