第六章 ペルソナ
Ⅰ 北鎌倉
【二○二七年一一月五日 金曜日】
週末を利用して親友の藍内ももと一泊二日の小旅行することにした。一一月五日は
わたしには未来の血縁者である
だが、このままでは世界が救われてもわたしだけが救われない。
どうしても、いちどリセットするために景色を変えることが必要なのだ。
それを教えてくれたのは親友の藍内ももである。
たとえ、全世界が敵に回っても彼女だけはわたしの味方でいてくれる、そんな気がする。
彼女に誠実でありたい。それが、彼女に報いる唯一の方法だ。だから、二日間の旅行を最大にエンジョイしよう。それがわたしの下した決断である。
旅行が終わればまた灰児くんの調査——破壊神ジャバウォックと契約して地球人類を売り渡してしまう
灰児くんは納得してくれた。夏祭りでわたしたちを襲ったクロノスの番犬は、世界線を改変しようとする未来からのエージェントである彼を中心に出現するらしく、彼から物理的に距離が離れるなら安全とのお墨付きをもらった。
彼には申し訳ないが、二日間だけ世界の終末を巡る事件のことを忘れて気持ちの整理をしたい。そのための旅行である。
というわけで、わたしと藍内ももはワンルーム・マンションから抜けだして池袋駅へ。
湘南新宿ライン横浜・大船方面の列車に乗車。最初はきつきつだが、新宿駅、渋谷駅で下車する方が多く、そのタイミングで座席に座ることができた。
ももは小説家志望らしく、タブレットPC持参である。新品のタブレットはとても手が届かなかったために、大手通販サイトに出回っている格安のリストア品。
執筆に必要なオフィスソフトも代替品でなく、二世代前の正規品である。彼女は一流の目利きで、どこからかこういうものを見つけてくる。
彼女が鎌倉に旅行したい動機も、小説家として取材旅行したいからとのこと。わたしは光栄にも相棒に選ばれたのだ。
車窓の景色がめまぐるしく変化していく。それはわたしたちの心象風景の変化のようでもある。鉄筋コンクリートの建物と半導体を組み込んだ機械に囲まれていたわたしたちは知らぬ間に大量の電磁波を浴びていた。
その日常から抜けだす高揚感は、わたしたちの裡側を満たしていく。ありきたりな言葉で形容するなら、〝わくわくしている〟のだ。
電車のなかでとりとめのない会話が弾む。視界に映る景色に無責任なコメントをしたり、今日のファッションをリスペクトしあったり……。あっという間に目的地まで着いてしまった。
当初の計画通り、北鎌倉駅で下車する。北鎌倉駅からスタートして観光しながら鎌倉駅へ向かう。そこから江ノ電に乗り、江ノ島近辺のゲストハウスに一泊して帰宅の途につくのだ。
駅のホームに誰かが落としたイヤリングがあったので、ももが駅員に引き渡した。
「これも陰徳だよ。あんね氏」
落とし物を届けるあたり、彼女の育ちの良さが窺われる。
お手洗いを済まして準備万端。北鎌倉駅からでると目を見張るような紅葉が視界に飛び込んできた。
夢中でスマートフォンを取りだし、写真を撮ろうとすると、ももに制止される。
「あんね、写真もいいけど。ちゃんと肉眼で見ようよ」
ももの発言にはっとする。まだ文明から抜け切れていないようだ。スマートフォンをポッケにしまう。
駅のすぐそばにある白鷺池を横目に踏切を越える。近くに円覚寺の総門があったが、本日の観光ルートにはふくまれていない。
しばらく線路沿いの道路を歩いた。もものお目当ては、北鎌倉
ももは小説家として取材するつもりらしい。わたしも絵本は嫌いじゃない。二階建てで、一般的な美術館よりこぢんまりとしているが、建物の外観から雰囲気が良い。
受付で拝観料を支払うと展示室に入った。彼は熊本県出身の作家さまである。
色とりどりの水彩画・油彩画・デッサンなどの創作物と、実際に出版された絵本のサンプルが展示してあった。そのなかの一冊を手に取る。
タイトルは『てんしって いるよ』【葉祥明 至光社 1994】
内容についてそのまま転載することはできないが、わたしが作品から受け取ったメッセージは『人間には一人ひとり心優しい守護天使がついていてどんなときも見守ってくれている』というもの。
すごく好きな世界観だった。
「どう思った? あんね。どうして泣いてるの?」
「わたしにも天使がいてくれたらいいなって」
ももに言われて、落涙していることに気づいた。彼女が差しだしたハンカチで目元を拭った。自分でも気づかなかったが、スクール・カウンセラーの夢が挫折したことが相当応えていたらしい。
「いるに決まってんじゃん。ぼくは天使を信じてる」
ももの語り口調が岩のように固くなっていた心に浸透する。
二階をふくむすべての展示物を見終わり、退館してつぎの目的地に向かいながら感想を言い合った。
「図書館で絵本を読んで葉祥明先生を知ったの。北鎌倉に来ることがあれば、ぜひ寄りたいなって」
「きっとこの先生は優しい人なんだろうね。それだけじゃなく、世界の残酷さからも目を背けない勇気を持っている。そんな人だと思う」
昂ぶった感情も静まり、わたしの心は淹れたての紅茶のように温まっていた。
「あんね氏、詩人だね」
ももが自らの黒縁眼鏡の位置を調節する。
「鎌倉に旅行に来て良かった」
わたしはもう満喫した気分になっていた。
「まだぼくたちの旅行ははじまったばかりだぞ、あんね! 藍内もも先生の次回作にご期待ください」
ももが打ち切りコミックの定番ネタをぶっ込んで、不覚にも笑ってしまう。
「そうそう、その顔が見たかったの! あんねは笑ってるほうが可愛いぞ」
そのときの彼女のとびきりキュートな顔を、額縁に入れて飾っておきたい。藍内ももという一七歳の少女の肖像として。ちなみに彼女は二月二一日が誕生日で、わたしたちは早生まれのコンビである。
彼女がしきりに話しかけてくれるのが、傷心したわたしに対する気遣いだと気づいたとき、瞳が涙の膜で覆われた。それを彼女に悟られないよう数回瞬きすると、涙がレンズの働きをしてよりいっそう北鎌倉の紅葉が鮮明に映る。
わたしはこの景色を一生忘れないだろう。
※作者は2024年に鎌倉に取材を行ってエピソードを執筆しています。
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