短編まとめ
雨月 紫
シャルルの法則
春は暖かくて良い季節だ。花粉症という大敵に悩まされないから、余計に気に入っている。これで自分が花粉症なら、一番好きな季節は夏に変わっていたところだ。
入学が決まって目まぐるしく周りの環境が変わっていったから、近所を歩く暇もなかった。実家から少し離れた地方の大学に通うため、ひとり暮らしをすることになってから買い物と通学くらいでしか外に出ていない。折角の地方だから、見たことのない街を散策して回ろうと思っていたのだ。知らない街の知らない店や場所は、いくつになってもワクワクしてしまう。まぁ、それで父さんは道を踏み外したらしいが。何事もほどほどが良いということだ。たぶん。
そんなわけで、今日は待ちに待った何もない休日。新歓やら学科の飲み会やら交流会やらがあって一人でふらふらすることも出来なかったから、本当に久々のひとり散歩。小さな図鑑とスマホ、財布だけ持って家を出る。下宿先はなんとオートロックで、鍵も暗証番号を入れて解除するタイプなのだ。学生の街ならではの最先端なセキュリティ対策。女性にも安心だろうし、僕自身もちょっと心配性だからありがたい。
家を出ると斜め左奥に山へと続く道がある。商店街は大学の人たちと交流した時に歩き回ったから、今日は自然豊かなフィールドワークにしようと思って農道へ足を踏み出す。道の脇にある小さなお地蔵さんに手を合わせつつも進んでいくと、シジミチョウがじゃれあって飛んでいるところに遭遇した。
僕の周りをちょこちょこぴよろぴょろと飛んでから、まるで一緒に遊ぼうと言わんばかりに飛んでいく。蝶を追いかけていく散策も楽しそうだ。自然に口角が上がっていき、誘いに乗るように軽く走り出す。農道を辿ってから山への小路を登る。少しだけ道を逸れて、雑草をかき分けながらシジミチョウたちを追いかけた。
今から思えば、大学生にもなってなんて子どもじみたことをしてるんだろうと思う。危険だと頭の中ではわかっていたんだけれど、好奇心と春の陽気に当てられた浮かれ具合もあったのかもしれない。普段ならそんなことしないのに、なんの躊躇いもなく獣道にも踏み込んで行った。
それで、それから僕は迷子になったわけではない。
人を見つけた。変な人だ。山の中の少し開けたところで鞄を置いて、ピンセットとか試験管を使ってなにかしている。シジミチョウはそちらに飛んでいって、危険を察知したのかわからないがまたどこかへ行ってしまった。
まぁ、当然草木掻き分けてやって来た僕はガサガサ大きな音を立てたわけで。
そんな音がしたらそりゃあこっちに気づくだろうと思ってたら、その人はこっちに見向きもしない。話しかけてもいいものかと悩みながら、少しだけ左回りで移動しつつ顔を覗き込む。
僕よりも年上で、壮年の男性という表現が一番しっくりくる人だった。髪の毛が見事になくて、お坊さんみたいだけどそんな優しい雰囲気じゃない。絶対に違う。お坊さんはこんなところで試験管とか顕微鏡とか広げない。
何かをくわえているので、煙草かと思ったけれど煙は全く出ていない。飴かな。
ああ、ぶどう味のキャンディって美味しいよなぁ。帰ったら甘いもの食べたいなぁ。
そんな風に遠目からおっかなびっくり見ていたら、ちらりと視線を投げられる。
ぎくっ、と動きを止めてどうしたものかと思案してから、そっと頭を下げた。多分普段なら正しい対応なんだろうけど、今のよくわからない状況下での対応としては違う。
おじさんはなにも言わずに手元に視線を戻した。何をしているのか見ようとした時に、おい、と突然話しかけられた。やばい、だめだったかなと後ずさって謝ろうとしたら、「見るなら座って見ろ」と叱られたので思わず返事をしてそばに座った。なんだろう、この、犬を手懐けるような自然な流れは。
「あの、すいません。邪魔ですよね」
「邪魔なら呼ばん」
「あっ、はいすみません」
先週から始まった講義を担当している教授と同じくらいの年齢なのに、あっちの方が格段に優しい。この人は有無を言わさずに人をコントロールする術を持っているのだろうか。なんでこんなところにいるのだろう。何故わざわざここで試験管を持って実験みたいなことをしているんだろう。疑問と好奇心はどんどん膨張していく。多分それは、春だから。
「あの、ここで何してるんですか。なんの実験なんですか?」
おじさんはしばらく試験管をくるくる回してから、台に丁寧に置いて別の器具を取り出し始めた。虫かごにはアリたちがいて、何かの幼虫らしき生き物も見える。虫には明るくないから、これは難しい話をされたら眠くなるに違いないぞと生唾を飲み込んだ。
やがておじさんはポツリと「ただの研究だよ」と呟いた。
「研究ですか?虫の?」
「ああ、こいつらだ」
と、おじさんは別の虫かごの中でぱたぱたと飛んでいる蝶を指さした。シジミチョウだ。似たような蝶もいるが、名前がわからない。白くて柔らかい羽に黒いゴマ粒のような模様がついているものや、黄土色のような羽を持つものが、屈そうに羽を動かし続けている。
「こいつらのようなシジミチョウの仲間はアリの巣に入り込んで成長する。他者を利用してるやつだよ」
「えっ、そうなんですか。ずる賢い……」
「持ちつ持たれつの関係ではあるがな。オレはこの幼虫の生態の応用研究をしている」
応用研究。基礎のきの字もわからない僕は、何かおじさんはすごいことをしているすごい有名な学者なのではないかと思い始めてきた。たいていそういったすごい学者たちは変なことをいつもしているけれど、だからこそ常人では辿り着けない場所まで行けてしまうのだと聞く。きっとこのおじさんも有名な教授なんだろう。もしかしたら自分の大学に所属しているのかもしれない。名前さえ知らないことになんとなく申し訳なくなってきた。しかし知らないものは知らない。
おじさんは僕が放心していろことに気づいたのか、少しだけわかりやすい説明をしてくれる。ありがたい。なんてったって僕は文系なのだ。
「アリっていうのは、みんな体の表面に特殊なワックスを持ってる。その種類別にちょっとずつ違うが、そういう化学物質によって仲間かどうかを判断してるんだ。シジミチョウの仲間はそれを利用してる」
「あっ、なるほど。変装してるんですね!」
「幼虫はそのワックスを真似て仲間と勘違いさせる。そんで自ら甘い蜜を出して誘導し、巣に持ち帰らせりゃこっちのモン。成虫になるまでアリの幼虫や蛹、アりたちから貰う餌で成長するってことだ」
虫かごの中にいるシジミチョウたちが、外にいるシジミチョウたちとコンタクトを取っている。どうしたの、みたいな会話が聞こえてきそうな光景を見ながら、こんなに小さくて可愛らしいのにずる賢くて強かな生き物なんだなとしみじみ感じ入る。
はちみつを塗ってシジミチョウたちを指に止まらせたおじさんは、その一羽を捕まえて観察しながら続きを話してくれる。
「だが成虫になったらすぐにアリの巣から出ないとだめだ。ワックスはもう切れて、仲間じゃないことがすぐバレる。食われる前に出なきゃいけない」
「そうか……じゃあこの子たちは生存競争に勝った子たちなんですね。よく逃げ切ったな……」
小さい頃にアリがカマキリやらバッタやらを猛攻撃している場面に出くわしたことがある。幼稚園の頃だっただろうか。校庭の端っこでバッタがいる、と思って捕まえようとしたら黒いものがうじゃうじゃ付き纏っていた。うわあ、とびっくりして尻もちをついた僕は、そのままバッタがアリに殺されてしまうところまで思わず見入ってしまって。なんで最後まで見ちゃうんだろうなぁ、ああいうの。
だから、成虫になった途端にアリの巣にいたアリたちから逃げて来なきゃいけないというのはかなり難しいミッションだと思う。かなり深くて入り組んでいる巣だから尚更のこと。よく無事だった。
おじさんはこくりと頷いてこちらを見る。片手がシジミチョウまみれになっていて、なんだか人間の手じゃないみたいだった。これはこれでちょっと気持ち悪い。
「昆虫たちが完全に、他者を欺く手段を利用して生き抜いていけるような研究を進めないと、そのうち環境の大きな変化に耐えきれず絶滅してしまう。欺くだけではなく、お互いに利益を伴った共存関係として。人間は勝手だからな、いつだって巣を広げたくて仕方ない。犠牲になるのは動植物と虫たちだ」
おじさんはやはり、有名な教授なんだろう。そんな素晴らしい発想で、虫たちを保護しようとしているとは。僕は多分世界で唯一と言っていいほど、最先端研先の一端を聞いてしまったんじゃないだろうか。
これなら絶滅危惧種も救えるかもしれない。
「それで、おじさんはどんな実験をして実現させようとしてるんですか?」
春の陽射しが、木漏れ日となって僕に降り注ぐ。どんどん暖かくなって、僕の後ろに咲いていた真っ赤なレンゲツツジたちもざわざわと陽の光を喜びはじめた。
バキバキという音が聞こえる。
おじさんは答えてくれたが、それがおじさんなのかどうか僕にはもうわからない。
「昆虫に人間と同等の『皮』を持たせんだよ」
綺麗な薄い紫色の鱗粉が舞い上がって、これは花粉症の人が見たらさぞかし震え上がってくしゃみが酷くなるだろうなと思いながら目を閉じる。
穏やかな春の日に、微睡みながら嗅いだのははちみつとココアシガレットの甘い香りだった。
「言っただろ。邪魔なら呼ばん、ってな」
短編まとめ 雨月 紫 @rainiell_rgn
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