紅茶と秘宝と、自由な人生。~遺跡カフェを開いた元令嬢アサギの開拓録~
ソコニ
第1話「さよなら、鳥籠の城」
月光が王城の尖塔を照らす深夜。アサギ・フォン・ローゼンベルクは、震える手で純白の花嫁衣装のリボンを解いた。
明日の朝には、この衣装を着て大聖堂へ向かうはずだった。エドワード王子との結婚式。王国の安定のため、家の繁栄のため——そんな大義名分ばかりが耳に入る。
「私はもう、誰かの道具にはならない」
鏡に映る自分に向かって、静かに宣言する。銀色の髪が、月光を受けてきらめいた。紫水晶のような瞳に、初めて自分の意志が宿る。
豪華なドレスを床に落とし、用意しておいた使用人の服に着替える。茶色の粗末なワンピース。でも、どんな宝石で飾られた衣装より、今はこちらの方が輝いて見えた。
机の上には、震える手で書き上げた『王位継承権放棄に関する正式文書』。第三位継承者としての全ての権利を放棄する、取り消しのきかない宣言。署名をする瞬間、不思議な解放感が全身を包んだ。
隣には、エドワード王子への手紙。
『申し訳ありません。でも、お互いに愛のない結婚は、誰も幸せにしないと思うのです』
荷物は最小限。着替えと、水筒と、そして——。
「これだけは」
母の形見のティーセット。淡い藤色の花が描かれた、素朴だけれど温かみのある陶器。母がまだ生きていた頃、二人で紅茶を飲んだ思い出が蘇る。
『アサギ、いい? 紅茶はね、淹れる人の心が味に出るのよ』
優しかった母の声が、記憶の中で響く。
部屋を出る前に、もう一度振り返る。金糸で刺繍されたカーテン、天蓋付きのベッド、宝石箱——全て、私を縛り付けていた鎖でしかない。
使用人の通路を抜け、厨房から外へ。警備兵の巡回時間は全て頭に入っている。三年間、この時のために密かに調べ続けた成果だ。
厩舎で愛馬のミストが小さくいなないた。月毛の美しい牝馬は、主人の決意を感じ取ったかのように、静かに頭を下げる。
「一緒に行こう、ミスト」
門番の居眠りを確認し、音を立てないよう通用門を開ける。軋む音に心臓が跳ね上がったが、門番のいびきは止まらない。
門を出た瞬間、夜風が頬を撫でた。
自由の風だ。
振り返ると、月光に照らされた王城がそびえ立っている。美しく、そして恐ろしい巨大な鳥籠。
「さようなら」
ミストにまたがり、森へ向かって駆け出す。追手が来る前に、できるだけ遠くへ。行き先なんて決めていない。ただ、自分の意志で生きられる場所へ。
森に入ると、月光は木々に遮られ、闇が深くなった。でも不思議と恐怖はない。むしろ、守られているような安心感があった。
どれくらい走っただろうか。気がつけば、完全に道に迷っていた。
「どっちから来たのかしら……」
ミストも不安そうに鼻を鳴らす。このまま森で迷い続けるのか——そう思った時だった。
前方に、青白い光が見えた。
蛍? いや、違う。もっと大きく、ゆらゆらと揺れている。まるで、こちらを導くように。
「なんなの、あれ……」
光は逃げるように移動していく。追いかけるうちに、けもの道から外れ、草木をかき分けて進んでいた。枝が顔を掠め、服が引っかかる。でも、なぜか引き返す気にはならなかった。
突然、視界が開けた。
月光に照らされて、古い石造りの建物が姿を現した。蔦に覆われ、所々崩れかけているが、不思議と威圧感はない。むしろ——。
「懐かしい……?」
初めて見るはずなのに、なぜかそんな感覚に襲われる。
ミストから降り、遺跡に近づく。正面には、複雑な紋様が刻まれた大きな石扉。紋様は、花と流れる水を表しているように見えた。
扉に手を触れた瞬間——。
温かい光が、全身を包み込んだ。
『ようこそ、待っていました』
声なき声が、心に直接響いてくる。恐怖はない。ただ、懐かしくて、優しくて、まるで母に抱きしめられているような感覚。
『長い間、あなたを待っていました。心優しき旅人よ』
「私を……待っていた?」
『はい。いつか必ず、ここに導かれる人が現れると信じていました』
扉が音もなく開く。中からは、甘く優しい香りが漂ってきた。花のような、果実のような、そして——紅茶?
「入っても、いいの?」
『どうぞ。ここは、あなたの新しい始まりの場所です』
一歩、足を踏み入れる。
床は驚くほど清潔で、壁には柔らかな光を放つ石がはめ込まれている。天井は高く、どこか神聖な雰囲気すら感じる。
通路を進むと、広い部屋に出た。
そこは、まるで誰かが今も暮らしているかのような空間だった。石のテーブルと椅子、本棚、そして——。
「まあ……」
壁一面の棚に、美しいティーセットが並んでいた。ガラスのように透明な急須、虹色に輝くカップ、金色の縁取りがされた皿。どれも、見たことのない素材でできている。
テーブルの上には、小さな缶。蓋を開けると、見たことのない茶葉が入っていた。深い緑の中に、金色の粒が混じっている。
急に、強い眠気に襲われた。今日一日の緊張が、一気に押し寄せてきたのかもしれない。
部屋の隅にある石のベンチに腰を下ろす。硬いはずなのに、不思議と柔らかい。まるで、上質な羽毛のクッションのよう。
「少しだけ……休ませて……」
瞼が重くなる。朝になれば追手が来るかもしれない。でも今は、何も考えたくない。
『ゆっくりお休みなさい。明日から、あなたの本当の物語が始まります』
優しい声に導かれるように、深い眠りに落ちていく。
最後に見えたのは、窓から差し込む月光に照らされた、金色に輝く茶葉だった。
王城から飛び出した一人の令嬢。
森の奥深く、忘れられた遺跡。
そして、運命の出会い。
全ては、ここから始まる。
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