第7話

図書館で一悶着のあった数日後、俺の仕事の予定のない日にまた図書館へ行くと、デミアンが一人で待っていた。


あの後、王子が騒がしい腰巾着どもを追い払って、読書そっちのけで三人で話し合いの場が持たれた。談話室などという部屋はこういうときに使うのだと理解した。


俺がほとんど会話に参加しない話し合いの結果、芸術鑑賞として三人で夏休み中に何度か出かけるということになった。何故そうまでして俺に絡んでくるのかという疑問は解決されることはなく、行きたくない俺のささやかな抵抗は二人によって封殺された。


次々と挙げられる行き先の候補を聞いて俺の不安が募る。


「大丈夫。僕らも色々と出かける用事があるからね。君が心配するほどの過密スケジュールにはならないよ」


俺の悪化する顔色に気付いて、そんな全く慰めにならないことを王子が言った。


それでも、最後の足掻きとばかりに、俺には金銭的な余裕がないので、仕事も休むつもりはないという最も効果の高そうな理由を挙げると、王子とデミアンでさんざっぱら悩んだ末に、三回の外出で落ち着いた。こう言わなければもっと多くの場所へ連れ出される可能性すらあった。


そうして、なんとか俺の小さな抵抗も踏まえた夏の外出予定が大まかながら出来上がった。


一回目はデミアンの屋敷内にある展示室で、侯爵家の所有する美術品を見せてらもうことになった。アルベルトも自分のところの蒐集品を披露したいと言ったが、警備の都合と申請の手間、さらには、何の肩書もない平民が王宮に足を踏み入れることに対して恐れ多い旨をこんこんと説明して、なんとか今回は見送ることを納得してもらった。


二回目は王立軍の魔法演習場への見学になった。魔法技能演習大会に出場するのなら、見学しておいて損はないだろうとのことから、行くことが決まった。


この二か所は七月中の訪問だったが、三回目の外出は夏休み最終日だ。その日は昼過ぎにデミアンの屋敷に集合したのち、外出の準備をして、三人でそのまま夕方に今王都で流行っている演劇を見ることになった。何故準備にそんなに時間がかかるのか、俺には理解できない。


気になって観に行く劇がどんな内容なのか尋ねてみたところ、新進気鋭の脚本家によるもので、前情報なしに見た方が良いらしく当日まで内容は秘密だと言われ、かなり興味が湧いた。しかも、その演劇の人気はすさまじいらしい。平日の観劇券ですら、数カ月先まで完売してしまうほどだという。そうデミアンが教えてくれた。


しかも貴族用の良い席は、たった一回の観劇だけで、俺の数か月分の給料にもなるらしかった。


「そんな金額払えませんよ……」

「君に出させるわけがないだろう」

「僕らが君を誘ったんだよ。それくらい僕らで持つよ。だから心配しないで」


二人はなんてことないという風にそう言った。


そんなに人気の演目ならば、そこらの小劇場では上演できないだろうと思い、どこでやるのか聞いてみると、なんと王立の歌劇場で催されているのだと言う。あの王都の中心地に位置する歴史と格式のある大劇場と知って俺は尻込みしてしまった。


それは学園へ入学してから幾度となく、遠く近くに眺めていた建物だった。貧乏人の俺なんかには敷居が高すぎる。


格式の高さから俺が行っても門前払いを食らうのではないかというと、二人は全く意に介した様子もなく、問題ないから気にするなと言われた。


それでも安心できない俺としては、場違いな劇場に行くのも気が引けるし、入場券は高すぎるし、どうあっても俺には劇の良し悪しなんて理解できようはずもないから、そんな大人気の劇である必要はないんじゃないかと思わずにはいられない。


それに、そもそも入場券がすでに完売していて手に入らないのなら見ることはおろか、会場に入ることさえ無理なはずだ。今から三人分も手に入るのか聞くと、新規で手に入れるのは無理だろうということだった。俺の頭の中は疑問でいっぱいだった。


手に入らないのならどうしたって無理ではないのか?王子や高位貴族の権威を盾に誰かから券を融通してもらうのか?どうするつもりなのか皆目見当もつかなかったが、俺のためにそんなことまでしてもらう理由は無い。だから今回は無理せず別のものにしようと言うと、王立歌劇場での公演だからどうとでもなるのだとデミアンが教えてくれた。


全く言っていることが飲みこめない俺に、王子も胸を張って説明してくれた。曰く、どうやら王家専用のボックス席だかバルコニー席だかの専用の席が年間契約されており、国王や王妃など王族の誰かが使用中でなければ、アルベルトはいつでも利用が可能なのだそうだ。


さらに侯爵家でも年間契約を結んでいるそうで、もし仮にアルベルトのほうが使用できなくても、代わりにデミアンの家で契約している席で見ればいいだけなので、全く問題ないのだと言う。


あれこれ理由を作って断りたかったのだが、そう言われてしまえばもう俺に言うべきことは無かった。こういう背景があったからこそ彼らは人気のある劇を見ることが決定事項のように話を進めていたのだと、ようやく納得すると同時に、年間の契約料が一体いくらになるのかとふと考えてしまった。


外にもあれこれと彼らが話し合うその内容は他人事のように聞いていたが、それは完全に俺の理解の範疇を超えていた。


これが貴族の常識なのだろうか。俺はもうどうにでもしてくれとばかりに、後は全て彼らに任せることにした。


そんなこんなで、俺を置いてけぼりにしてすっかり予定組みが完了したのは五時を少し回ったころだった。ついでに明日もここで会うことを約束してその日は解散になった。






明けて翌日俺はいつも通り午前中を過ごしてから再度図書室へとやってきた。なんでも今日は、出かけるための事前準備があるらしい。


着いてみると、聞いていた通り王子は今日は来ていない。学生故、多くはないがやるべき公務があるらしく、本日はそのために城を抜けられないとのことで、デミアン一人だけでやって来た。王子本人も来たいとぼやいていたが、デミアンに説得されてしぶしぶ折れた形だった。


デミアンが俺を認めてすぐに傍に寄ってくると声を掛けてきた。


「今日も本を借りるのか?」


デミアンが敬語抜きで話しかけてきた。


「いいえ、今日は返却だけです。あなたはお忙しいでしょうから、用事を先に済ませます」

「配慮助かる。それと、非公式の場では私に敬語は不要だ」

「……わかった」


俺がそういうと一つ頷いて、彼が外へ出るよう促す。


「外に馬車を待たせてある。早めに用事を済ませてしまおう」

「馬車?」

「あぁ。ちょっと街まで行かねばならない」

「どこへ行くか訊いても?」

「その話は後だ。とりあえずこっちへ」


俺は言われるがままについていくと、とんでもなく立派な馬車が学園の車廻しに止まっていた。俺たちが歩いているのに気づいたのだろう、ゆっくりと馬を走らせてすぐ近くに来ると再び止まった。黒塗りに金の金具が輝く馬車を見ると、侯爵家の紋章がある。


御者が御者台から颯爽と下りて扉を開けると、足場を用意する。デミアンは無表情にそれに足を掛けてさっと乗ってしまった。


俺がこんな良い馬車に乗ってもいいのだろうかと逡巡する。御者は俺が動かないことに不思議そうな顔をして、どうぞと声をかけてきた。車中からのデミアンの早くしろという声に促されて、意を決してそっと乗り込んだ。


鼓動が速くなるのを感じた。小心者の俺だ。


中は広かった。こう言っては何だが、高級そうな匂いがした。貴族は平民と匂いから違う。俺は急に自分の匂いが気になった。場違いだと思った。


そんな俺の考えを知る由もないデミアンに促されて向かいの座席に腰かけると、静かに扉が閉じられ、間もなく御者が馬に鞭を入れる音がした。すると、動き出しにわずかの遅れがあったが、それからゆっくりと、しかしすぐに軽快な音を立てて俺たちを乗せた馬車は走り出した。


速い。外から見る馬車と、馬車の中から見る外とでは、だいぶ印象が違うのだなと思った。


馬車が走り出してしばらく、俺は乗り心地を堪能していた。想像したほどの乗り心地ではなかったが俺の知る普通の馬車よりはずっと良い。振動を抑えるための座席に据え付けられているクッションに感動してしまう。


俺はどこへいくのかを再度質問するつもりだったが、侯爵家の馬車内という特別な空間のために、そのことをすっかり忘れて窓からの眺めに見入ってしまっていた。


「あの時は寛大な対応をありがとう」


そのまましばらく高級な馬車の乗り心地を堪能していると、そう声を掛けられた。窓の外へ向けていた目を声のした方へ向ける。


何のことかは説明されなくともわかった。俺は気にするなという意味を込めて首を横に振るだけにとどめたが、デミアンはそれで満足しなかったようだ。


「こういうことを言うのは不敬にあたるからここでの発言はすぐに忘れてほしいのだが、率直に言うと、あの時アルベルトを許してくれたこと、本当に感謝している。君にあっては、あの発言はどう聞いても不愉快以外のなにものでもなかっただろうに。あれは完全にこちらの落ち度だった。私自身、君が態度に表すまで気づけなかった。まだまだ経験が足りていないと痛感させられた。しかし、どうか悪いようにとらないでほしい。アルベルトのあの発言は仕方ないことだったと理解してほしい。君のいる社会と我々のいる社会では作法が異なるが故なんだ。貴族間では要求と対価、仕事と対価は一枚のコインの表裏のようなものだ。だから、王子が君に報酬を支払おうとしたことはいたって普通のことであり、君を下に見た行いではなかったのだ。もちろん、弱者救済の話を持ち出したのは完全に間違いであったが」


デミアンが神妙な顔つきと声音でそう言って、頭を下げた。がたがたと揺れる馬車の振動と車輪が地面を食む音が、これが現実だと告げている。


俺は何も言えなかった。


「本来ならば、我々が君に頭を下げることは間違った行いだと言われてしまうのだが、前回と今回ばかりは敢えて頭を下げることを良しとした。友人として、君に誠意を見せるためには必要だと思ったからだ。言いたいことを理解してもらえるだろうか」


デミアンの言わんとするところはすぐに分かった。本来なら貴族が平民相手に頭を下げることは絶対にない。常識だ。なのに、彼らはそれをやった。王侯貴族に連なる子弟である彼らが。そして、今デミアンは、これは例外中の例外なのだということを、教えてくれたのだ。


「俺は、いや、私はそのようなことで自分の立ち位置を見誤ったり、思い上がったりはしない、と思っている。このことは誰にも言わない。忘れろと言われたら、すぐにでも忘れても良いと思っている」


明確な言葉を避けて返事をする。それは、彼に正しく伝わった。


「ありがとう」

「それよりも、前から指摘したかったのだが友人とは何のことだ?俺、いえ私は誰とも友人になった記憶がないんだが……」

「何か問題が?」

「いや、問題があるとは言わないけれど、嫌というか、えっと、興味が無いと言うか困るというか……」


俺の返答にデミアンが驚いた顔をする。


「……本気か?」

「良く知りもしない相手からいきなり友人認定を受けても、困るだけだと思わないか?」

「……あぁ、そうか。うん、確かにそうだな。なるほど。いや、いきなり友人と言われても困る話だな。うん、そうか。なるほど……」


デミアンが困惑した顔で繰り返す。


「実際、何故私が王子の友人だという話になったのか、私にはよくわからなくて困っている状況なんだ。というか、もし万が一にも私のことを友人と認めるのなら、どうしてあの時あの会話の流れで金の話になったのか理解しかねる。貴族と平民では作法が異なるといってもだ。友人だというのなら、ただこちらの都合を聞いてそれに自分たちが合わせるだとか、どうしても無理そうならお互いに意見をすり合わせて妥協点を探るとか、それだけで十分だったはずだ。いきなり金の話をされては、馬鹿にされていると私が考えるのも当然だと理解して欲しい」


感じたままに言ってみた。


まぁ友人の一人もいない俺がこんなご高説を講じるのも烏滸がましいとは思っている。俺自身、この学園の中にも外にも友人と呼べる人間がいないので、友人同士とはそういうものだと想像しているに過ぎないけれど、なんだか彼らの振る舞いはおかしいとは思う。先生から友情がどういうものであるかを教えられて育ってきたから余計に。


もしかしたら、友人に対する考え方が貴族と平民では違うのかもしれない。振る舞いや話し言葉が違っているように。貴族という人間は、皆、友人にお金を払うことで関係を成り立たせているのだろうか。もしそうであるなら、貴族社会というのは平民とは違った方向に殺伐とした世界なんだろう。


「いや、君の言う通りだ。本来友人同士とはそういうものであるし、あれは失礼な振る舞いだったと思う」


デミアンが申し訳なさそうな表情で言葉を紡ぐ。無表情を貫く学園での彼とはえらい違いだ。


「ただ、王族はそれだけ特殊なのだと理解して欲しい」


デミアンが困り顔で首を振る。


「私は王子から直接金銭を受け取ったりはしていないが、ほかの側近たちは違う。そういう奴らだ。金で話がつくのなら、それが最も後腐れの無い楽な解決手段なんだ……」


含みを持たせた言い方をデミアンはしたが、俺には今一ぴんとこなかった。


俺の何もわかっていない顔を見てデミアンが困ったような顔をして苦笑した。


「どうもお前は私たちの勝手と違いすぎて調子が狂う」

「それは、まぁ……」

「アルベルトにとってはそれが良かったのかもしれない……」


小さくそう呟くのが聞こえた。


「今日のことは全て君への我々からの謝罪と思って欲しい」

「今日?謝罪?」

「そうだ。まぁ、お前にはもしかしたら納得のいかないこともあるだろうが、そこは目を瞑って今日は私に付き合って欲しい。悪いようにはしない。それに我々だって勝手が違うことに戸惑っている。最適な謝罪方法がそう簡単に見つかるわけでもなし。それとキース」


デミアンがここで言葉を区切った。


「私から個人的にお前に頼みがある」

「頼み……?」

「どうか今までのことは水に流して、アルベルトの友人になって差し上げて欲しい。アルベルトが自分から望んだのは初めてのことなんだ。悪い方ではない。根はとても素直なお人柄だ。それにきっとお前にも得るところはあるはずだ」


俺には何もいえなかった。立場が違いすぎる。


「無理強いはしない。前向きに考えてみてくれ。さあ、着いたぞ」


気づくと馬車はすでに停車していた。目的地に着いたらしい。


御者が恭しく扉を開ける。俺たちが馬車を降りると目の前には、見たこともないほど高級そうな建物が立ちはだかっていた。


「ここは……?」

「とりあえず入る。付いて来い」


すたすたと歩き出したデミアンを視線で追いかける。体にぴったり合ったスーツに身を包み、きっちりと髪を撫で付けた若い男が店から出てきて、デミアンに深々と頭を下げ歓迎の言葉を述べた。慣れているらしい彼は鷹揚に頷くと、誘われるままに店内へと足を踏み入れた。


俺は完全に尻込みしてしまって、一歩を踏み出せないでいる。すると何も知らない若い店員が、どうぞと促す。いや、俺は畏まられるような人間ではないのだが……。そう分かって欲しくてただ見つめていると、彼が小首を傾げる。


もたもたしている俺にしびれを切らした侯爵家の御曹司が、店から出てくると強引に俺の手を引いた。


誘われるままに中に足を踏み入れてみると、そこはもう、全く俺の知らない世界だった。


所狭しと紳士服が美しく展示されていて、そのどれもが平民には手の届くはずのない高級な生地と素晴らしい技術で縫製されたものだと見て取れる。しかもよくよく見てみれば同じ黒でも微妙に濃さが違ったり光の反射の仕方が違ったりしている。俺はぽかんと馬鹿みたいな顔をしていたと思う。


「恥ずかしいからその顔をやめろ」


そうはっきり言われてはっと我に返る。


「何故私はここに連れてこられたのですか?」


俺は小声で問いただす。完全に雰囲気に呑まれて知らず敬語を俺は使っていた。しかし、確かにこの店内には平民の俺がお喋りすることを憚るような、そんな雰囲気があった。


「何故って、決まっている。お前の服を誂えるためだ」


若い店員に案内され、店の奥にある扉のその奥まで案内されると、そこには年老いてはいるがこれまたきっちりとスーツを着こなした男がいて、俺たちに優雅に挨拶をした。


俺は新たな人物の登場とその場の雰囲気に完全に飲まれてしまい、疑問と抗議の言葉を失ってしまう。


「わざわざ当店まで足をお運びいただき誠にありがとうございます、デミアンさま。ご壮健そうでなによりでございます。」


落ち着いた不思議な雰囲気の声だった。


「あぁ、ミゲル。早速だが、こいつの服を作りたい。夜会用だ。王立歌劇場へ観劇に行く。相応しい恰好をさせたい」

「畏まりました。ご希望に沿ったお仕立てをさせていただきます。当店を思い出していただきまことにありがとうございます」


そう言って店の者たちが一斉に頭を下げた。


「ちなみに、観劇へ行かれるのはいつになりますでしょうか?」

「一か月後、八月末の予定だ。間に合うか?」

「一月も時間があれば問題ございません。どのようなものをご所望でしょうか」

「キース。君は何か希望はあるか?」


希望とは何だ?俺は首を傾げた。


俺が全く質問を理解していないことが分かったのだろう。デミアンは勝手に話を進めていく。


「ミゲルに任せる。観劇にはキースと私と、アルベルトの三人で行く予定だ。アルベルトに恥ずかしくない恰好を彼にさせたい」

「承りました。当店の職人が腕を振るって、最高の一着を仕立て上げて見せます」

「期待している」

「ありがとうございます。ところで、お仕立ては夜会服の上下一着でよろしいですか?」

「あぁ、とりあえず一組で良い。一式全て揃えたい。あとは既製服でいいから外出着をいくつか。すぐに着る場面が来るんだ」

「一式と申しますと、蝶ネクタイやジレ、お帽子や手袋などもご用意するということでよろしいでしょうか?」

「あぁ、一式全て頼む」

「畏まりました。履物のみ、当店と懇意にしている店でお求めください。お召し物に合ったものを用意してくれるでしょう」

「わかった」

「お帰りの際に、紹介状をお渡しいたしますので、そちらをお持ちください。ところで、ジレとカマーバンドはどちらをご用意いたしましょうか?」

「とりあえず両方用意してくれ。当日、アルベルトの格好に合わせて選ぼうと思う」

「畏まりました。色味や生地などについても詰めたいのですが」

「キースには決められないだろうから、私が対応する。とりあえず先に彼の採寸を頼む。採寸している間に見本を見たい。それから外出着もいくつか出してくれ」

「畏まりました」

「外出着の調整には普通一週間ほどお時間をいただきますが」

「それでは間に合わない。三日で頼む」

「承知しました。急がせます。ケイン。お客様を採寸室へご案内してください」

「はい。畏まりました」


どこからから、別の男が姿を現して俺たちに挨拶をする。


「ケインと申します。どうぞこちらへ」


そう言って俺を促す。


「ちょ、デミアン!なんだこれは。俺は聞いていない」


俺はデミアンの耳元で抗議の声をあげた。もちろん小声だ。


「なんだ、キース。狼狽えるな。みっともないぞ。何。ただ採寸するだけだ。それくらいなら一人でもできるだろう。行ってこい」

「いや、そうじゃなくて!こんなに高級そうな店で買い物するなんて聞いてないってことを言いたいんだ。どうなっている。俺には払えないって」


俺は抗議したが、デミアンはどこ吹く風。全く気にした様子もない。


「金はこっちで持つから気にするな」

「いやいやいや!俺は言ったよな?金はもらえないって!これは確かに金じゃないが同じような物だろう。まだ分かっていないのか?」

「落ち着け。君の言いたいことは分かる」

「なら、なんで!」

「冷静になれ。どんな時も取り乱すな。動揺を見せれば他人から付け込まれるぞ」

「平民の俺に貴族の作法とか関係ないだろう」

「貴族であろうとなかろうと、今後のために知っておいたほうが良い。それから、これはアルベルトと私からの少しばかりの気持ちだ。受け取ってくれ。さっきそう言っただろう」

「さっきって、あれか」


馬車の中での意味深な彼の言葉を思い出した。


「でも受け取れないって。謝罪の言葉はもうもらっている。それで十分だ。もし必要だというのなら自分の身の丈に合ったものを自分で用意する」

「頑固なヤツだな、君も」


デミアンが困った風な顔をしている。


「頑固で結構だ」

「君に用意できるものでは釣り合いが取れない」

「じゃあ観劇なんてしなくていい」

「……では、こう考えてくれ。今君のために用意している服は、学校の制服と同じだと」

「……意味がわからない」

「まぁ聞け。君は学校から特待生として学校から様々な援助を受けている。そうだな?」

「あぁ、うん。そうだが……」

「君の着ているその制服は学園側が無償で用意したものだ。学園に通うためには全員が同じ制服を着用することが求められるからだ。それがルールだ。この夜会服やその他諸々はそれと同じだ。劇場にはドレスコードがある。私の実家に来るときもそうだ。その場にそぐわない恰好をした者は入れない。だから用意する必要があった。私やアルベルトに恥をかかせるわけにはいかないだろう?」

「だからって」

「ややこしいことは考えるな。これは学校の制服と同じなのだと思って納得してくれ。私たちと行動するときに必要な制服のようなものなのだと」

「いや、でも、こんな高い物をただで受け取るわけにはいかないって……」

「大丈夫だ」

「大丈夫って、意味が分かんねぇよ」

「言葉が下品だぞ、気をつけろ。君もその内わかる」

「何が」

「君が友人であってくれる、ただそれだけで十分な働きなんだ。対価を受け取るに値することだ」

「ますます分からない」

「分からなくていい。ただ納得しろ。それにな」

「それに?」

「ここで手を打ってもらわねば、アルベルトからさらにしつこくされるだけだぞ」

「あぁ……」


俺は彼の言葉にアルベルトの顔を思い出した。彼の声が聞こえた。


「どうあっても受け取らないと君が固辞すれば、今後ずっとアルベルトから何か対価を、と言われ続けることになる。私にはわかる。な?だから、ここらで手を打っておいたほうがお互いのためだ。諦めてくれ。それに、対価をもらうことは恥ではない。それだけの価値が、もらう側のお前にあるということなのだから」


デミアンが断固とした調子で言い切った。


「よろしいでしょうか?」


会話が済んだことを見計らったように声がかけられた。


若い男がニコニコとした顔で俺を見ている。


俺はため息を一つ吐いて、店員に案内されるまま別室へ移動した。デミアンが笑顔で俺を見送った。

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