第19話 咲紀の脚本リライト
雨が降っていた。梅雨の終わりを告げるような、長く、しとしととした雨だった。
蒼羽島の民宿「晴海荘」。海沿いに建つ小さな木造建築は、潮風に晒されてきた柱が黒ずみ、どこか懐かしい空気を纏っている。窓を打つ雨音が、民宿全体に優しく響き渡っていた。
咲紀は、その一室でノートパソコンに向かっていた。時間は午後十時を過ぎている。
隣には創が座っている。彼は咲紀の手元を覗き込まず、壁にスケッチブックを立てかけ、付箋にメモを書きながら、誰にも聞かれないような小声でブツブツとつぶやいていた。
咲紀は、まぶたの裏に残る夜の撮影シーンを思い返していた。灯台のふもとで撮った、物語のクライマックス。俳優の台詞回しも、匡のカメラワークも、申し分なかった。それでも――咲紀の中には、ぬぐいきれない違和感が残っていた。
(台詞が、ちょっと……軽い)
あの台詞では、あの瞬間の“覚悟”を伝えきれない気がした。
演者は頑張っていた。カメラも、音も、編集も最高の形になった。それなのに、物語の根幹となる“想い”が、画面の奥から溢れてこない。
「……やっぱり、あそこ、書き直したいな」
咲紀はポツリとつぶやいた。
創がふっと視線を向ける。「どこ? あの“もう逃げない”のくだり?」
「うん。でも、“逃げない”じゃなくて……“見届ける”って言葉のほうが、合ってる気がする」
「いいじゃん、それ。……ほら、やっぱ咲紀は言葉の人だよ」
創は付箋をペタリとスケッチブックに貼りながら笑った。
「こういうの、全部感覚で考えてる俺には無理だもん。つい“それっぽい”ってだけで済ませちゃう」
咲紀は、少しだけ頬を赤らめながら、パソコンに指を走らせた。
(言葉って、不思議だ。たった一語で、キャラクターの人生が変わってしまう)
夜の部屋は静かだった。雨が屋根を叩く音と、キーボードを叩く音だけが重なって、妙に落ち着くリズムを刻んでいた。
創は壁に貼った付箋を見渡しながら、つぶやく。
「……でも、俺も、咲紀のそういう“考え抜く感じ”、ちょっと羨ましい」
「え?」
「なんでも直感で動いちゃうとさ、あとで『あれでよかったのかな?』って、迷うんだよ。咲紀は、ちゃんと“理由”があるじゃん。選ぶ言葉に、意味があるっていうか」
咲紀はその言葉を胸の中で何度も反芻した。
“意味がある”――それは、ずっと求めていた評価だった。
自分の存在も、自分の作業も、誰かの役に立っている。そんな風に感じたのは、久しぶりだった。
「……あのさ」
創が、ぽつりと口を開いた。
「俺、実は最初、咲紀が参加するって聞いたとき――『この子、喋らないタイプか……苦手かも』って思ってた」
咲紀の手が一瞬止まる。けれど、創は続けた。
「でも今は、逆。咲紀が静かだからこそ、俺は落ち着いて考えられる時間が増えたんだ。無理に笑わせようとしなくていいし、沈黙がイヤじゃなくなった」
咲紀は、そっと口元に手を当てる。目元が、柔らかくなる。
「……創くん、変わったね」
「そう? 前からこんなもんだよ」
そう言って、彼はいたずらっぽく笑った。咲紀は首を振る。
「違うよ。前より、他人の“得意”をちゃんと見てる。私、自分の書く言葉に意味があるか、自信なかった。でも、創くんが『ある』って言ってくれたから――今夜、書き直せる」
「じゃあ、さっきの台詞。もう一回、言ってみて?」
咲紀は一度画面を見て、キーボードの上で指を止める。そして、静かに口を開いた。
「“私は、最後まで見届ける。君がここまで歩いてきた道を。”――どうかな」
創は、しばらく黙ったあと、目を細めて言った。
「……それ、俺、今めっちゃ泣きそう」
咲紀の頬がふわりと紅潮する。
「……大げさだよ」
「いや、ホント。いま壁に貼ってる付箋、全部書き直したくなったくらい」
二人の間に流れる空気が、少しだけあたたかくなる。
外の雨は相変わらずだったが、室内の灯りの下、咲紀の中では“言葉”が確かに動き始めていた。
やがて、リライトが一区切りした頃、部屋の扉がノックされた。
「咲紀、創。まだ起きてる?」
麗の声だった。
「起きてるよー」と創が返すと、扉がゆっくり開いて、麗が顔をのぞかせた。
「ごめん、眠れなくて……ちょっとだけ、見せてもらっていい?」
「もちろん。今ちょうど、咲紀が書き直した台詞が入ったとこ」
創がそう言ってノートパソコンを回すと、咲紀は一瞬躊躇したが、黙って頷いた。
麗は、座ってディスプレイに目を通す。数十秒の沈黙のあと、息を吸って、小さく微笑んだ。
「……ああ、これだね」
「これ?」
「私、ここのシーン、どこか引っかかってたんだけど、わかんなかった。でも今の台詞、すっと入ってきた。“見届ける”って言葉が、主人公の立場を変えてる」
咲紀はそっと視線を逸らし、指先でノートパソコンの縁をなぞる。
嬉しかった。けれど、それ以上に、少し照れくさかった。
麗が読み終えたあと、咲紀はそっと目を上げた。
「ありがとう……。でも、まだ直したいところ、いくつかあるの」
「うん、それでいい。妥協してまとめるより、自分の言葉を探してる姿勢の方が、ずっと素敵だと思うよ」
麗のまなざしには、優しさだけでなく、仲間への誇りも宿っていた。創が背筋を伸ばす。
「じゃあ、俺はもう一回シーン表見直すよ。キャラの動線、ちょっと整理した方がリライトしやすいだろ?」
「うん、助かる」
咲紀の声に、ほんの少しだけ芯があった。確かに、彼女の中で何かが変わり始めていた。
深夜の民宿。廊下の時計が午前二時を回った頃、共用キッチンからはカップ麺の湯気と、ホープの小さな鼻歌が漏れていた。隣の部屋では、アリジャがラップトップの充電コードを探しており、奨はこっそりキャンディの在庫を整理していた。
そんな中、リビングには脚本とノート、色とりどりの付箋が散らばり、咲紀・創・麗の三人だけが静かな空気を共有していた。
やがて、咲紀がそっと口を開いた。
「……私ね。小学校の時、朗読が苦手だったの」
「へえ?」
「声が小さいって言われるのが怖くて。でも、文章を書くのは好きだった。話すと上手く言えないことも、文字にすれば伝えられる気がしてた」
咲紀は、自分でも不思議そうに言葉をつなげた。
「でも、ここに来て、初めて“誰かのために書く”ってことを、ちゃんとやってる気がするの。匡くんの撮る映像に、麗さんのデザインに、創くんの図解に……誰かの“やりたい”の中に、自分の“ことば”を重ねられるのが、ちょっと、嬉しい」
麗が少しだけ目を潤ませる。
「咲紀ちゃん……それ、めちゃくちゃいい台詞。自分で気づいてる?」
咲紀は驚いて、創を見る。彼は力強く頷いていた。
「じゃあ、次のシーンのナレーションは、それをベースに考えてみよう。『言葉にできなかった想いが、誰かの作品の一部になれる』って、めっちゃ共感されるやつ!」
咲紀はこくりと頷いた。そして、再びキーボードに手を置く。
再生ボタンのクリック音と、タイプ音だけが響く空間。そこにはもう、不安ではなく“意志”があった。
その夜のリライト原稿は、後日全体を支える「魂の語り口」として、メンバー全員に認められることになる。
夜明け前、鳥のさえずりが聞こえ始める頃、咲紀はそっとノートの隅に一言だけ書き足した。
「――次は、ちゃんと声に出して伝えたいな」
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