第13話 恋愛禁止ルールの軋み

 ――五月二十二日、土曜日の夜。

 旧映像研究部の部室には、静かに時間が流れていた。

 学園PVの再編集作業が佳境に入り、校内の騒がしさがやっと引いた週末。

 今日は、匡と麗が、仕上げの映像確認のために二人きりで残っている。

 モニターの青白い光だけが、室内を照らしていた。

「……ここ、あと0.5秒だけ伸ばそうか」

 匡の声が低く響く。麗は黙ってうなずいた。

 彼の指がショートカットキーを叩くたび、画面のタイムラインが小さく波打つ。

 その音と、壁時計の針が刻む音だけが、空間を満たしていた。

 外は、もう夜風が吹き始めている。

 校舎をひとつ挟んだ向こうでは、野球部の寮生が洗濯物を取り込んでいる声が、遠くかすかに聞こえた。

「……ちょっと、一回止めて」

 麗がぽつりと口を開いた。

「うん」

 映像が止まり、再生ウィンドウが静止画になる。

 その瞬間、途端に、空気の“間”が生まれた。仕事のリズムが消えたことで、音が消えたことが、逆に浮き彫りになる。

 隣同士の距離は、椅子一脚分もなかった。

 けれど、この距離が、今は異様に近く思える。

 ――匡の指が、キーボードの上で止まったままだ。

 麗が、小さく笑うように吐息をついた。

「ねえ、今……私たち、少し、変だよね」

 その言葉に、匡は返事をしなかった。ただ、視線を画面に留めたまま、表情を変えずにいた。

 だが、それは“無反応”ではなかった。

 彼の頬に、わずかに朱が差していたからだ。


「……変って、何が?」

 匡は、あえて視線を合わせなかった。

 モニターの中の静止したワンカットを眺めながら、声だけで応じる。

 麗は、しばらく何も言わなかった。

 ただ、隣で椅子に座ったまま、膝の上で手を重ねていた。

 それでも、彼女の気配は匡に伝わる。

 さっきよりも、わずかに肩が近い。

「わたし……」

 麗が、ようやく口を開いた。

「“恋愛ご遠慮クラブ”って、言い出したの、私なのにね」

 匡は、ほんの一瞬だけ顔を向けた。

 だがその視線は、すぐに外された。

 麗は笑っていた。

 自嘲でも、皮肉でもない。どこか、静かに諦めたような、でも諦めきれない、そんな顔で。

「……人に傷つけられるの、もう嫌だった。誰かの好きが、誰かの自由を奪うのも、もう見たくなかった。

 だから、“恋愛禁止”って言葉で、線を引いて……。なのに、今、自分が一番、その線の近くに立ってる」

 匡は、言葉を失っていた。

 どう答えるべきか、そもそも“答える”という行為が適切なのかも、わからない。

 ただ、自分もまた、同じ場所に立っている。

 そのことだけは、否定できなかった。

 目の前のモニターが、次のカットを表示した。

 校庭の夕焼けを、カメラがスライドしながら追っていく。

 そこに、部員たちの笑顔が一瞬だけ映る――

「……映像の中って、いいよね」

 麗がぽつりと呟いた。

「何回でも、同じ時間をやり直せる。

 『このとき、ああ言えばよかった』って後悔も、あとから編集できる。

 なのに、現実って、どうしてこんなに不器用なんだろう」

 その言葉が、匡の胸に刺さった。

 映像の世界では、彼はいつだって“正解”を選んできた。

 けれど、いま目の前にいるこの人に、なんと声をかければ“正解”なのか。

 答えは、どこにも映っていない。


 静かに時が流れていた。

 匡は、手元のマウスを握ったまま、ぽつりと呟いた。

「……編集って、ずっと“答え合わせ”だと思ってた。

 でも、たぶん、本当に必要なのは“選び直す”ことなのかもしれない」

 麗が、視線を向けた。

 匡はそれに気づきながらも、モニターに目を据えたまま、続けた。

「俺、今まで誰かに頼まれてばっかだった。

 言われた通りにカットして、調整して、納品して……“受け入れて”きた。

 でも、あのドローンが落ちた日、自分で判断して、リテイクを決めた。初めて、責任取るって意味が、わかった気がしたんだ」

 麗は、その言葉を黙って聞いていた。

 匡の声が、少しずつ震えていたのを、麗は気づいていた。

 「だから……今の気持ちも、編集みたいにやり直せたらって思う。

 でも……それじゃ、ずるいよな」

 ふと、匡が麗の方を見た。

 まっすぐに――けれど、どこか怯えたような眼差しで。

「麗。もし、俺が……“好き”って言ってしまったら、部活、壊れる?」

 その言葉に、麗の肩が小さく震えた。

 けれど、彼女はすぐに笑った。

 微笑みというより、張り詰めた糸が一瞬だけ緩んだ、そんな顔だった。

「壊れないように、踏みとどまってるの、私のほうかも」

 匡は言葉を失った。

 その沈黙が、答えになったように、麗はモニターに顔を向けた。

 編集作業は止まったままだった。

 けれど、二人の間で交わされた言葉が、ひとつの選択を映していた。

 「“恋愛禁止”って、弱さを隠す盾だったんだと思う。

 でも今は――それを隠しても、誰のためにもならないって、思い始めてる」

 匡は、その言葉を受け止めきれずに、そっと目を閉じた。

 画面の中の映像だけが、何も知らない顔で静かに止まっていた。


 深夜の部室。

 蛍光灯は消され、机上のモニターだけが、静かに光を放っている。

 二人の影が、背後の壁に揺れていた。

「……ねえ、匡」

 麗が、不意に立ち上がる。椅子のキャスターがわずかに鳴った。

「わたし、まだ“好き”って言わないよ。

 だって、今のわたしたちに必要なのは、作品を完成させることだから。

 その先に何かがあるなら――ちゃんと、自分で“選んだ”うえで、言いたい」

 匡は頷いた。

 その返事は、言葉にならなかったが、確かに伝わるものがあった。

 言い訳ではなく、逃げでもない。

 “今はまだ”という言葉が、どれほど誠実で強いか――匡には、わかった。

「……じゃあ、完成させよう、映像。中途半端な気持ちじゃ、どこにも出せないから」

 匡の指が、再びキーボードに戻る。

 ショートカットキーを叩く音が響くと、タイムラインが息を吹き返した。

 どこまでもプロフェッショナルでありながら、

 どこまでも人間らしい“揺れ”を抱えたまま――二人は、隣に座った。

 編集作業は再開される。

 恋の予感と葛藤を残したまま、それでも互いを信じて、進み続ける。

 モニターの中で、学園の屋上から見下ろす夕焼けがゆっくりと流れた。

 それはまるで、明日へ続く階段のように、静かに彼らを照らしていた。


(第13話 了)

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