朝比奈接骨院のいろはうた

🐉東雲 晴加🏔️

六月 雨の合間







 空は青く晴れているけれど、梅雨の合間の青空は、やっぱりどこか湿気を含んでいる。

 この時期は癖のある黒髪が余計に跳ねるからちょっぴり憂鬱で、それでも楽しい事がないわけではないから、なるべくいつも口角をあげる事にしているヒナタは名前を呼ばれて笑みの形のまま顔を上げた。


「ヒナちゃん、今日帰りに街に行かない?」


 高校に入学してから仲良くなった、ヒナタと同じ帰宅部のクラスメイトに誘われて嬉しく思ったけれど、同時に申し訳なさそうに顔の前で両手を合わせた。


「ごめん! 今日夕飯当番の日なんだ! スーパー行かなきゃいけなくて」

「スーパー?」


 友達が不思議そうに首を傾げる隣で、ヒナタは鞄に教科書を手際よく詰めた。

 久しぶりに友だちとこのやり取りをした事で、高校生になったんだなあと実感する。


「うん。私ね、お兄ちゃんと二人暮らしだから、ご飯作らないといけないんだ」






 学校の校門を出て、自宅の方向とは少々外れた方に足を向ける。以前は自宅から自転車で五分のスーパーに通っていたのだが、高校に入学したのを期に高校の帰りにそのまま寄れるスーパーに変えたのだ。ヒナタの家は高校から徒歩十分の所にある。進学の決め手はただひとつ、『家から近い』だった。


 兄も、隣に住むしげじいも「自分の行きたい学科のある所に行きなさい」と言ったけれど、ちょっと興味のあった学科のある高校は通学に電車で30分はかかる。そうなって来ると今まで通り夕飯の準備や家事ができなくなってしまうから却下だ。兄は高校生の間は家事の心配はしなくていいなんて言っていたけれど、ヒナタに言わせれば私の心配なんてしてくれなくて結構、という気持ちだった。



 だってヒナタは、それを嫌々やっているわけではなかったから。



 (冷蔵庫に豚肉があったから、生姜焼きと……暑くなってきたから冷奴かな)


 スーパーを出て自宅に向かいながら、ショッピングバックに入った玉ねぎとじゃがいもをよいしょと抱え直す。冷奴の薬味は繁じいの育てているわけぎを少し拝借しよう、と考えながらヒナタは少し速歩きで自宅までの道のりを歩いた。


 ヒナタの家は――いや、正確に言えば間借りしている部屋は、兄の勤める『朝比奈接骨院あさひなせっこついん』の二階にある元は繁じいの住んでいた家だ。


 おじいちゃん、と言ってもヒナタの実の祖父ではない。『繁じい』こと、朝比奈あさひな 繁次郎しげじろうはヒナタの父の叔父で、ヒナタにとっては大叔父に当たる。


 数年前、父が仕事中に事故死した際、父もすでに父母を亡くしており、親戚とも疎遠だった為に高校三年生だった兄のすばるとまだ小学生だった日向ヒナタは途方に暮れた。


 母と父はヒナタが物心付く前に離婚していて、母はヒナタは顔さえ見たことがないからいないも同じだ。二人して児童養護施設に入るしかないと覚悟した時、手を差し伸べてくれたのが唯一の親戚である繁じいだった。


 繁じいは妻を亡くして一人で接骨院を営んでおり、たまたま接骨院の隣の小さな平屋の家が売りに出されたのでそこを買い上げ、足腰の弱っていた自分はそちらに移り、接骨院の二階の住居をヒナタ兄妹に格安で貸してくれたのだ。


 父の生命保険が降りて当面の金銭面は何とかなったが、進学しようと思っていた兄はヒナタの為に進学するのをやめて働くつもりだった。

 ……それを止めたのも繁じいで。父が残してくれたお金があるのだから将来を見据えて進学した方がいいと兄を諭してくれたのだった。


 繁じいが接骨院を営んでいた事もあり、元々理学療法士になりたかった兄は進路を少々変更し、柔道整復師の資格をとって繁じいと同じ道を選んだ。今は繁じいの跡を継ぐべく修行中である。



 古い接骨院の前には繁じいが趣味で育てている花やらプランターが雑多に並んでいる。人間には湿度が高いこの時期は厳しいけれど、外階段の登り口の横にある青い紫陽花が涼しげで、ヒナタは肌に張り付く汗の不快感も忘れてふふふと笑った。


 カンカンカンと音を立てて外階段を上がると、下の接骨院の勝手口から兄が顔を出す。


「ヒナタおかえり」

「ただいまお兄ちゃん」


 悪い、洗濯物ベランダに出てるんだ。と言われたので、わかったよーとだけ返した。

 ヒナタが直近の高校に進学した事を兄は不満に思っていたみたいだが、最近こうやって自然に家事を任されることが増えてヒナタは嬉しかった。自分の選択は間違いではなかったと自信になる。


「よおっし! やるぞー!!」


 荷物を台所に置き、エプロンを片手に気合を入れてヒナタは洗濯物を取り込むべくベランダへ向かった。


 二階のベランダから下を見下ろすと、さっき隣を通った紫陽花が綺麗で、まるで青い傘が沢山開いているよう。

 だいぶ長くなった日がそれでも少しずつ傾いて空を赤と紫に染めていく。


 向かいの家から「今日のごはんなーにー?」と親にたずねる子どもの声が聞こえる。仕事から足早に帰る人が前の道を通る。


 乾いた洗濯物を取り込みながら、刻々と変わりゆく六月の空を、今日も無事に一日を終えられた事を噛み締めて、ヒナタはしあわせな気持ちで見つめた。

 

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