平行線のF―パラレルライン・エフ―

おらんな

プロローグ ― 潮騒とレールのプレリュード

 午前5時13分、港星市。


 インダストリアル・ベイと呼ばれる湾岸エリアは、まだ眠りの中にあった。夜の間に満ちて引いた潮の香りが、湿ったアスファルトの匂いと混じり合って、重たい靄(もや)となって漂っている。水平線の向こう、空と海の境界だけが、錆びた鉄のようなオレンジ色に染まり始めていた。


 不意に、警告音が空間を切り裂く。 乾いた電子音が響き渡り、貨物線の踏切がゆっくりと降りてくる。その直後、地を這うような重低音が近づき、空荷のコンテナを連ねた長大な列車が、ゴウン、ゴウンと地響きを立てながら姿を現した。車輪とレールが軋む、金属同士の叫び。その無機質なリズムだけが、世界のすべてだった。


 列車が速度を落とさずに駆け抜けていく。その一瞬、昇り始めた朝日がコンテナの隙間から差し込み、二本並んだレールの表面で乱反射した。金属特有の鈍い光が滲み、ハレーションを起こす。――それはまるで、楽譜に刻まれたフォルテッシモ(ff)の記号か、あるいはアルファベットの「F」の字に似ていた。


 やがて列車は闇の向こうへ消え、再び静寂が戻る。踏切が上がりきるのを待たずに、遠くの灯台が、夜の終わりを告げるように二度、白い光を点滅させた。その光は音もなく届くはずなのに、なぜか、船の汽笛にも似た低い周波数の音が、耳の奥で響いた気がした。F#(ファのシャープ)。海の鳴き声にも似た、世界のルート音。


 朝倉凛太郎は、港星駅のホームに降り立った瞬間、故郷にはない匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。潮の香りだ。それは教科書で知っていた単語よりもずっと複雑で、生命の気配と、わずかな鉄錆の匂いが混じる、ざらついた匂いだった。夜行列車のシートで浅い眠りを繰り返した身体が、その目新しい刺激にゆっくりと覚醒していく。


 改札へ向かう途中、ポケットのスマートフォンが短く震えた。地元の友人からの「着いたか?」というLINE。凛太郎は画面をタップして既読だけ付け、返信はしなかった。まだ、何も始まっていない。どんな言葉も、今の心境を表すには足りない気がした。


 背中には、父の形見であるアコースティックギター、YamahaのFG800が収まったギグバッグ。その重みが、期待と不安の分銅のように肩に食い込む。駅舎の大きなガラス窓に、自分の姿が映り込んでいた。細身の身体に、大きな楽器ケース。まるで一本の頼りない線のようだ、と彼は思った。


 ここで、新しい音を見つけるんだ。


 心の中で、何度も繰り返した言葉を反芻する。父が遺した五線譜ノート。そこに書きかけで終わっている〈Line to the Horizon〉という未完成の曲。それを完成させることが、この街に来た理由の一つだった。


 まだ、どこにも鳴っていない音を、拾うんだ。


 駅舎を出ると、高いビルが朝日を遮り、くっきりとした影を地面に落としていた。その影が、凛太郎自身の影のすぐ隣に、もう一本の線を引く。二本の線はどこまでも平行で、決して交わらない。凛太郎は無意識に一歩踏み出したが、影と影の間の距離は、変わらなかった。


 同じ頃。


 御影風花は、大学のキャンパス前にあるロータリーで、愛用のフィルムカメラを三脚に据えていた。夜が朝に侵食される瞬間の、あの曖昧な光を撮るためだ。街灯のナトリウムランプが放つオレンジと、朝日の薄い群青が混じり合う、まるで8ビットゲームのようなグラデーション。世界が最も無防備になる、美しい時間。


 ファインダーを覗き込み、ピントリングを回す。その指先に、駅の方から歩いてくる一人の青年が映り込んだ。大きなギグバッグ。少し戸惑ったように周囲を見回す、落ち着かない足取り。


 探してる。


 風花は直感した。


 あの子、音を探してる目だ。


 彼女は、観察者の笑みを浮かべた。獲物を見つけた、というのとは違う。面白い素材、美しい化学反応を起こしそうな触媒を見つけた時の、芸術家としての純粋な好奇心。風花は無意識に、首をすっと8°傾けていた。対象の核心を、ほんの少し角度を変えて的確に射抜くための、長年の癖。


「燃えそうな火種、かな」


 独り言が、吐息と共に漏れる。


「でも、近づきすぎたら……」


 ズームリングを回す指先に力がこもる。かすかに「ジー」と鳴るその機械音が、なぜか風花の耳には、ギターの6弦を弾いた時の倍音――Fの音に重なって聴こえた。


「……また、F」


 面白そうに口角を上げる。けれどその目は笑っていなかった。彼女は、燃え上がることへの強い渇望と、すべてが灰になることへの深い恐怖を同時に感じながら、撮るはずだった青年の姿から、わざと少しだけレンズをずらした。


 陽光が一段と強さを増し、朝の光が、キャンパスと街を隔てるように横たわる廃貨物支線のレールを、舐めるように照らし出した。錆びて赤茶けた二本の鉄の線が、鈍い光を放っている。


 凛太郎が、横断歩道を渡って大学の敷地へと足を踏み入れる。


 風花が、三脚の高さを少しだけ下げる。


 二人の影が、それぞれの足元から長く、長く伸びていた。決して交わることのない、二本の平行線として。


 やがてカメラは空へとパンアウトし、港と大学と、列車が走り去った線路と、そして二人の影を一つのフレームに収めていく。潮騒と、遠くの電車の走行音が低いハーモニーとなって街全体を包み込み、それはまるで、まだ誰にも聞こえないFコードの、無音のリプライズのようだった。


 その朝、二本の影はまだ名前すら持たず、ただ同じ音を探していた。

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