怪異と酒とやっぱり酒と

麒麟倶楽部

第1話 月下の客人と“件(くだん)”の囁き

唐船市――

玄界灘に面したこの町は、古来より異界との結びが深いとされる土地であった。

石畳の残る旧城下町、通りに漂う魚の香、潮の気配とともに、夜になると目に見えぬ何かが、風の背に乗ってさまよう。


そんな町のはずれ、小高い丘に鎮座する「賀茂津神社」には、不思議な男がいた。

神主――倉橋雅之。年の頃は三十を少し過ぎたようにも見えるが、見る者によって印象は異なる。肌は雪のように白く、端整な面持ちは常に微笑を湛え、どこか人ならざる気配をもつ。


神主の務めの傍らで、雅之は夜ごと、酒を片手に“異界の声”に耳を傾けていた。


その素性は、ただの神職ではない。彼の血筋は、平安の昔に活躍した陰陽師――安倍晴明の一派より分かれた“倉橋流”と呼ばれる分流を源に持つ。

忘れ去られた術を今に伝える家系の隔世遺伝、雅之は代々受け継がれた神社の蔵で、幼き日より密かに陰陽の秘奥に手を伸ばし、読み、覚え、極めていた。


ある晩、雅之のもとに、一人の客が現れた。

夜も更けた時間、手に酒瓶を提げた背の高い女。


「どうも。夜分にすみません。賀茂津神社の神主さん……ですよね?」


少し舌足らずな声で言ったその女は、薄手のジャケットにジーンズを合わせた気さくな雰囲気の人物だった。名を西原沙月(にしはらさつき)。福岡を拠点に活動するフリーライターだという。


「記事で聞きました。妖怪退治なら賀茂津の倉橋雅之に聞けって。……本当に、あなたが?」


「私以外におりませんよ。あいにく、名刺のようなものは持ち合わせておりませんが」


ふっと笑みを返すと、沙月は安堵したように肩を緩めた。


「これ、“万齢(まんれい)”。唐津の地酒です。……取材も兼ねて、一本どうかと思いまして」


「ほう、“純米無濾過生原酒”とはまた、通な……これは期待できますな」


雅之は一礼し、囲炉裏の傍に案内した。酒を注ぎ、香りを確かめると瞳が細くなる。


「……ふむ、やはり唐津の水は良い。きれのある甘さ、舌に残らぬ旨味……」


「神様みたいな人って、お酒飲むんですか?」


「神ではありません。人であり、少々――人ならざるものを見通す目を持っている、というだけ」


彼の声には冗談めいた調子もありつつ、その奥に何か重たく古いものが横たわっていた。


沙月が取材したいと願った理由は、別にあった。


彼女の知人――北松浦郡の古民家に移住した若夫婦の家で、不可解な現象が起きているという。夜ごと天井裏から響く“蹄の音”、家の者以外には見えぬ“人面の影”、そして耳元で囁かれる――「お前は死ぬ」の声。


「件(くだん)かもしれませんね」


雅之は一口酒を飲み干し、立ち上がった。

その目に浮かんだのは、神職らしからぬ、どこか研ぎ澄まされた陰の気だった。


「件とは、牛の身体に人の顔を持つ怪異。現れては“未来”を語るとされます。ですが、それがここ数年、形を歪め、災厄そのものになりつつあるという噂も聞きました」


「……じゃあ、危ないんですか?」


「ええ。未来を語るそれが、災いの兆しである場合――放置はできません」


雅之は神殿裏、鍵のかかった蔵を開き、奥から重厚な黒皮の巻物を取り出した。

それは彼が幼き日から読み込み、習得してきた“倉橋流・陰陽口伝”の写本。


灯明の下、彼は朱筆を取って術式を走らせた。印を結び、地に五行の符を並べ、口を開く。


その声は、酒席の雅之とは別人のように低く、地の底から響くようで――


「――東方青龍、西方白虎、南朱雀、北玄武、中宮黄龍……陰陽の五魂、今此処に顕現せしめ給え」


彼の背に、まるで古代の神獣の影が差したように、四方の気が蠢いた。


現地に赴いた雅之は、件の棲みついた天井裏で術を結び、結界を張った。


夜半、濁った鳴き声とともに、“人の顔をした牛”が現れた。

それは一瞬、沙月の顔を見たかと思うと、血を流すような声でこう言った。


「……さつき。七日後、お前の命は尽きる……」


沙月は声を失った。だが雅之は微動だにせず、指先から煙のような気を放ち、件の額に五芒の印を焼きつけた。


「それは、“お前の願望”だろう。彼女が恐れた命の不安を見透かし、未来の形を借りて取り憑いた、ただの劣化した憑霊だ」


低く、鋭く。

雅之の声は空気を切り裂き、術が放たれる。


「――陰は陽に従い、陽は陰に従う。神籬(ひもろぎ)にて封ず」


符が燃え上がり、件は叫びとともに虚空に散った。


「……すごい……」


神社に戻り、囲炉裏端で沙月は呆然と呟いた。


「記事に……させてもらえませんか?」


「お好きにどうぞ。ただし、事実を書くなら“酒を忘れずに”」


彼はまた酒を口に含み、静かに微笑んだ。


「夜の帳が下りると、世界は少しだけ形を変える。私が視ているのは、その“少し”の内側です」


沙月はしばらくして、賀茂津神社にたびたび夜更けに現れるようになった。

唐津の銘酒と、新たな怪異の話を携えて。


倉橋雅之は、今宵もまた、酒を片手に、異界と現世を隔てる薄明の門に立つ。

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