言うてそれほど

東雲めめ子

 

 入社即、会社が燃えたことがありますか。

 とんでもない不祥事の発覚。荒れる株式総会。入社式バックレからの退職代行。

 そんなことなら昨今、さして珍しくもないかもしれない。

 けれど椎木しいきの社会人生活は、とある小規模な炎上と共に幕を開けた。


 *


柳川やながわ君と治田はるた君いる?」


 制作部ワークスペースに姿を現したディレクターは、どうにも腑に落ちない表情だった。

「はい」

 椎木の隣で治田が振り向く。

 まさに今、椎木は先輩の治田からこの会社の業務流れを教えてもらっていた。


「柳川さんは打ち合わせで出ていて、戻りは十五時頃になりそうです」

「それなら先に治田君から訊くわ。ちょっと来て」

 ごめんね、と言って席を立ち、治田は開いたままのパソコンを手にディレクターに着いてフロアから出ていく。

 ちょうど流れの説明もひと区切りついたところだった。また治田さんが戻ってきたら続きを教えてもらえるだろう。そう思いながら、椎木は今までのファイルを見返した。

 東向かいの壁面が丸ごと窓になっている。差し込む陽射しは四月一日の午前に相応しく清しいきらめきを見せていた。

 簡単な入社式を兼ねた朝礼を終えて一時間も経っていない。初日も初日なのにあまり椎木が緊張していないのは、在学中からここへはアルバイトで出入りしていたからだ。治田もディレクターも、すでに顔見知りのようなものだった。


 椎木が入社した株式会社東彩とうさいはシナリオ制作会社で、業界では老舗の大手に分類される。近年はゲームやアニメ、漫画原作で圧倒的なシェアを誇っているが、もとは映画会社のシナリオ部が独立法人化した映画畑の制作会社だった。

 椎木は大学二年のときにこの会社の学生向けシナリオコンペで大賞を獲り、褒賞として短編映画の制作費用を手に入れた。それが縁で時たま短い場面を任されるようになって、新卒入社の声がかかったのだ。


 さっきディレクターが探していたもう一人の先輩・柳川も、椎木と同じようなルートで入社したと聞いている。

 椎木の三期上にあたる柳川はすでに大きな企画をいくつもメインシナリオとしてこなし、指名で依頼が入るような制作部のエースだった。有名ゲーム会社の新作シナリオから女性向け深夜帯ドラマまでカバー領域がとにかく広く、作品のクオリティも飛び抜けて高い。

 じつは椎木も、柳川のシナリオはずっと追いかけている。本人に言ったことはないが彼のファンなのだ。


 それにしても、ディレクターに連れて行かれた治田が帰ってこない。


 制作部ワークスペースにはほとんど人がいなかった。点在する一人用フリーデスクで作業する先輩たちも、顔も上げずに自分のことに没頭している。とてもじゃないが、うっかり声をかけられる雰囲気ではなさそうだ。

 東彩は都内オフィスビルの八階と九階を借りきっていて、九階の陽当たり良好な東半分は制作部門用のコワーキングスペースになっている。けれど椎木が東彩に出入りするようになってから、この共有デスクの座席が埋まっている場面を見たことがない。制作部の開発クリエイターに限り、リモート自由のスーパーフレックスタイム制を採用しているからかもしれない。

 普段は朝礼もしないらしいが、今日は入社式だから朝の九時に全社員が一同に会した。椎木の同期は二人、それぞれSE担当と営業部配属だから、二人とも八階フロアにいるはずだ。


 どうしたらいいのかな、これ。


 治田から聞いた業務説明はひと通り復習した。次になにをすべきか、治田が戻ってくるまでわからない。手持ち無沙汰になった椎木はサブで入れてもらったアニメ映画の案件データを呼び出し、目を通そうとしかけた。

「椎木さん」

「はい」

 デジャブのように名前を呼ばれる。フロア入り口を振り仰ぐと、経理総務部の福谷ふくたにが軽く手を挙げてみせた。

 コワーキングデスクにやってきた福谷は治田が坐っていた椅子に腰かけ、椎木の隣でパソコンを開いた。

「治田君、しばらくかかりそうらしいんです。だから先に経理的なところを話してもらいたいって。今からいいかな」

「あ、お願いします。……治田さん、どうしたんですか」

「ちょっとね。突然抜けちゃって申し訳ないって言ってました」

 福谷はテキパキと、経理総務関連の諸々のこと、例えば会社独自の少々複雑な経費精算の考え方や副業規定なんかを教えてくれた。今年の新卒でバイト出身は椎木だけだから、他の二人と話す内容が違うのでちょうど良かったという。

「支払い口座は先月から変わりないですか?」

「はい」

「もし口座を変えたい場合は毎月十日までなら当月から対応できます。……まあ椎木さんは、この辺りはもう知ってますね」

 福谷はそう言って少し笑った。

 彼女は治田と同期、それも今でも在職している唯一の同期らしい。だとすると年齢は二十八、九歳になるはずだが、黒髪をひとつにまとめて地味な紺のスーツを着た福谷は、きっと新年度の通勤ラッシュでは新卒に交じっても、そう違和感がないだろう。童顔ではないが、年齢の読めない人だった。

「社内社外の組織図も知ってる?」

「はい、さっき治田さんから教わりました」

「そう、治田君から聞いたなら心配ないですね」

 頷きながら、福谷はデータファイルをひとつクローズさせた。

 株式会社東彩が同業他社とやや異なっているところがあるとすれば、昭和な香りのする組織体制かもしれない。昭和三十年代の日本映画黄金期に映画会社から独立した東彩は、シナリオ制作会社としては稀有なほどきっちりとした社内秩序を保ち続けている。

 映画・舞台の制作大手である東竹とうちくを親会社に持ち、代々社長は退職した東竹幹部が就任する。会社上層にあたる経営推進本部の下に制作部と営業部、経理総務部と三部門が並ぶも、優先権を持つのは圧倒的に制作部。制作部内には開発と制作補佐の二部署に分かれていて、椎木が帰りを待つ治田は制作補佐のチーフだった。

 制作補佐は開発クリエイターを個々に担当し、業務に係るスケジュール管理や相手方とのやり取り、事務作業を担う。この会社のクリエイターと制作補佐は、一般的な業種なら営業と営業事務の関係に近いかもしれない。

 かつて商社ではトップ営業が圧倒的なエースで四番だったように、東彩ではシナリオ制作を行う開発クリエイターが一番の花形だった。


 ホンがすべて。良いホンが生み出せなければ会社は破産。


 東彩立ち上げ時からのスローガンで、今も社内意識に浸透している。

 制作部では、開発の新卒を採るなら学生時代からのバイト経験者のみというのが暗黙の規定となっている。未経験を採用しないのではなく、未実績未才能を採用しないのだ。昔ながらの日本企業らしさと、制作会社の完全実力主義が同居しているところが、この会社の面白さで、かつ厳しさでもあるのかもしれない。

 これが株式会社東彩の実像だった。契約ライターも含め、総従業員数は七十名を超える。

「制作部はきちっとした新人研修がないから、そこがしんどいでしょう」

 みんなインターンから来るか、中途で実績もある状態でやってくるから、必要ないように思えちゃうんでしょうね。福谷はとくに椎木の返答を求めるでもなく言った。

 とりあえず頷いて相槌を打つ。けれど福谷の言うしんどさは、今の椎木にはあまりピンとこなかった。

「制作部以外はやるんだし、みんな一律にやった方がいいと思うんですけどね」

「福谷さんも受けられたんですか?」

「ええ、うち、同期八人いたんですよ。それで、制作の治田君以外はみんな受けてましたね」

 どうして治田は受けていないのだろう。気になったけれど訊き返すタイミングを逸した。

「あっちの様子、見てきますね。もしまだ長引きそうだったら他のことをしてもらいます」

 福谷が立ち上がりかけたとき、パーティションの切れ目に治田の姿が見えた。

「ごめん、ほっといちゃって」

 治田は福谷にも謝り、ピンチヒッターのお礼を言っている。

 こうして女性と並ぶと、案外治田は上背があるのだとわかる。一八五オーバーの椎木からだと見下ろす高さだが、男性の平均身長は優に超えている。それで太っても痩せてもいない標準的な肉付きなのだから、治田はけして小柄ではない。けれどどういうわけか、椎木に治田は大きく映らないのだ。顔立ちも地味なら装いも地味。穏やかで落ち着いた人となりが、その地味な印象に拍車をかけているのかもしれない。

「大丈夫だったの?」

「うん。……まあね」

 言いづらそうな治田から察したのか、福谷は「立てこんでるなら、今日は椎木さん、経理の方に来てもらおうか」と申し出た。椎木には寝耳に水だが、さすがに社会人一日目の身の上でも、治田になにかが起きたらしいことくらいはわかる。

「もしかしたらお願いするかもしれないけど、いまのところは大丈夫そう。しばらくしたら制作部の人も増えるし」

 ありがとうね、と微笑んだ治田に、福谷はかすかに眉間を曇らせている。

「もう一人にも、ちゃんと申し開きさせないとだめだよ」

「……そうだね」

 もう一人。それはディレクターが治田と共に探していた柳川のことだろうか。

 治田の表情はいつも通りに柔和だが、頬がうっすらと火照っていた。ディレクターとの話し合いから急いで戻ってきたから、逆上せて暑いのかもしれない。

 脱いだジャケットを軽くたたんで椅子の背に掛ける。自分と年代の変わらない若い人、それも男が、いっとき脱いだだけの服を畳む仕草は椎木に新鮮だった。

 福谷が経理部のフロアに戻ってから、椎木は治田に「なにかあったんですか」と訊いた。

 治田は細い目で柔らかく笑み、首を振った。

「ううん、心配ないよ」



 何があったのか、朧げに見えてきたのは午後になってからだった。

 当事者二人や、ディレクターからの報告で知ったのではない。噂が耳に入ってきたのだ。

「納期漏れでしょ? 柳川君の案件」

「どこの?」

「ブルードって、機械製造系の。ほら、動画配信サイト用のアニメでさ、安い案件なのにうるさいとこあったじゃん」

 椎木の補佐担当でありメンターでもある治田は、柳川が打ち合わせから戻るやいなや再び上に呼ばれてしまった。初日から放置もよくないだろうと、椎木は制作補佐のブースに預けられたのだ。

 同じ制作部でも、補佐担当のブースは独立している。八畳ほどの窓のない部屋に五つのスチールデスクが対面式に並ぶ様は、どこか昔の町工場の事務所といった風情があった。

 チーフの治田をトップに、他に補佐担当は四人いる。けれど一人は育休中で、椎木は直接会ったことがない。在職の三人は歴の長いパート社員で、全員が時短の週三日勤務だ。ちなみに制作補佐は治田以外みんな女性である。

 育休中の社員の空いた席を借りて、椎木は治田の指示通りに制作部のクラウドワークスペースの過去ログを読み返していた。制作補佐のおばさまたちならバイト時代から顔見知りで、彼女たちも椎木に新鮮味はないらしい。それよりも事務室の関心は、年下の上司が絡むクレームの件だった。

「それよりもさ、なんでその程度の案件が柳川君に行ってんの」

「外部で良さそうなもんだよね。割り振ったのディレクターか治田君かわかんないけど」

「治田君ブッキングさせちゃったのかなぁ。柳川君、案件抱えすぎだもんね」


 各々パソコンに向かいながら、手は止まってしまっている。いつもは黙々と作業をしている印象の制作補佐事務室である。治田がここに椎木を置いて別室に向かったことで、集中の糸が切れたのかもしれない。


「そこってあれじゃない? 最初の打ち合わせで柳川君が見積もり出したら、どこまでが内容を思案するまでの料金でどこからが実作業の料金ですかって訊いたところ」


 すごいこと訊くんだな。椎木が内心思っていると、一様に思い出したように「ああ」と納得の声が上がる。


「そこか、覚えてるわ」

「ちょっとわかってない会社なのかもね。新規顧客でしょ?」

 考え終わったらあとは打ち込みだけですよね。それは最早語録である。

 書きながらもずっと考えてるよ。制作部の情報共有チャンネルに目を通しながら、椎木は柳川が不憫になった。


「でも面倒臭いところって知ってたんなら、治田君も気を付けてあげたらいいのね。柳川君、そういうの嫌いじゃない。逐一取引先に気を遣って、お愛想言って相手を良い気にさせるみたいなのはね」


 だが椎木の目から見て、柳川はべつに権高でとっつきにくい人ではない。いつもニコニコして愛想が良いタイプではないし、治田のように柔和で落ち着いた人ともまた違うが、営業トークぐらい難なく繰り出すだろう。実のところ業務で面倒を見てもらっている治田よりも、たまに一緒にご飯を食べるだけの柳川の方が気楽で親しい。付き合いやすい先輩だった。


「営業系はやっぱり治田君じゃないとね。クリエイターの人たちはみんな天才型だから、そういう部分は難しいでしょ」

「治田君は男の子にしては気が利く方だもんね。たまに抜けてるけど。切手代のミスとか」


 計りで重さを調べたのに切手代を貼り間違えて、送料不足で返ってきた。担当クリエイターの経費精算の項目が抜けているのに気付かなかった。担当クリエイターが相手方に送る見積書の社名の誤字を見逃した。


「でもやっぱりね、家庭を持って子どもが生まれたら、ある程度そういう管理能力は身に着くよね。だから治田君もまだまだこれからじゃない? 本当の意味でしっかりしてくるの」

「子どもできても旦那なんかそうそう成長しないわよ。治田君、結婚もまだだし」

「いい子だと思うんだけどね」

 製作補佐の上長は治田だが、同時に治田は制作補佐の最年少でもある。最年少といっても二十九歳なのだが、四十代後半から六十手前と思しき彼女たちのなかでは、治田はあくまで『男の子』で『治田君』のようだった。


「椎木君も、納期だけはちゃんとしないとだめだよ。納期遅れは許されないから」


 すっかり聞き流しかけていた椎木は慌てて「はい」と答えて顔を上げた。彼女たちは椎木もずっと会話のメンバーだったかのように、三方から椎木を見て頷いている。


「そうよ。まあ、椎木君の担当は治田君だし、治田君は椎木君のこと買ってるもんね」

「今サブで入ってる案件あるでしょ? あれも治田君が水村みずむらさんに頼んで入れてもらったんだよね。期待の新人なので、ぜひとも勉強させてあげてくださいって」


 三人は周知のことのように言いあっているが椎木は初耳だ。治田が自分をそんな風に思っていてくれたなんて知らなかった。


「そうなんですか?」

「そうだよ。だって水村さん、自分から若手の面倒見るタイプじゃないもん」

アニメ制作会社出身の水村は、五十歳前後の有名シナリオライターだった。彼は東彩専属ではなく請負契約で、水村でないといけない案件のみ担当している。


「あんまりいないでしょ、作家みたいな業種で積極的に新人の面倒見たい人」

「大御所先生だってそうだよね。やっぱり自分がってなっちゃう」

「純粋に煩わしいのもあるだろうしね。水村さんなんかはそのタイプ」

 かなり渋ってたけど結局水村さんも折れてくれたんだよね、と水村の担当補佐に言われ、椎木は思わず赤面するのを感じた。嬉しかったのだ。まだ大きな仕事をこなしたわけでもないただの新人である自分を、先輩が気にかけていてくれることが。


 椎木に話を振ったことで話題はひと区切りとなり、事務室はふたたび業務に戻った。わずか数十秒前のざわめきが嘘のように無言になった部屋に、パソコン操作の音だけが響く。


 椎木はまだ頬が火照っている。なにか書かなくてはいけないような、焦燥に似た高揚が胸を焼く。


 ぜったい、水村さんからたくさん勉強しよう。それでいつか超える。水村さんも、柳川さんも。


 野心の萌芽は椎木から、対岸で進行中の火災をいっとき忘れさせた。

 だから椎木は、ようやく事務室に戻ってきた治田がさすがに疲れた表情をしていることにも、あまり注意を払わなかった。

「治田君、大丈夫だったの?」

 最年長の補佐担当が尋ねると、治田は困ったように笑った。

「すみません、心配かけちゃって」

「うまく収まった?」

「いや、ちょっとこれから先方に行ってきます。もう四時になるので、みなさんはいつも通りで上がってもらって……椎木君は河内さんたちが上がったら、続きはワークスペースでやってもらえる?」

「わかりました」

 パート社員の勤務時間は十一時から十六時だ。三人が退勤したらこの部屋の人間がいなくなるので、本来この部屋の人間ではない椎木を置いておくわけにはいかないのだろう。

「戻りが何時になるかわからないから、私が帰ってなかったら、今日はディレクターに報告して上がってね。一応、同期のいる部署にも言っておいたから」


 椎木の返事を見届けて、治田は外出の準備を始めた。デスクの上を片付け、ビジネスリュックの中をざっと確認する。不必要に音を立てることもなく、治田はひとつひとつを淡々とこなしていく。不足の事態でも慌てる必要がないくらい整理整頓された彼の周辺は、彼自身の性格を表しているようだった。


「先方、そんなにお怒りなの?」

「そうですね、重ねての手落ちなので、やっぱり……」

「柳川君も行くの?」

「いえ、私だけ」

「べつに治田君が出向かなくてもいいのにね。やり取りは柳川君がしてたんでしょ」

 デスクの引き出しから出したネクタイを締めながら、治田はふっと目を伏せた。


「これは私の責任です」

 鏡を覘くことなく無難な紺のネクタイが白い襟元で結び目を作る。教科書通りに形良く結ばれたプレーンノットが、どうしてか痼のように見えた。


「気を落とさないでね。治田君だけのせいじゃないんだし」

「そうよ。相手方だって悪いでしょ」

 励ましの言葉に微笑み返し、治田はもう一度椎木に声をかけて事務室を出て行った。


「あれはよほど叱られたんでしょうね」

 音を立てずに閉じたドアを三人の女たちは気の毒そうに見やる。

「で、結局なにがあったんだろうね」

 さあ、と怪訝な顔を見合わせて、彼女たちは終業支度にかかり出した。



 開発クリエイターはコアタイムも自分で設定していいよと言われたが、翌朝も椎木は社内規定通りに出勤した。

 時間に合わせて、規則正しく書く習慣を身に着けよう。そう思ったのもあるし、しばらくは制作部ワークスペースに長くいるようにして、先輩たちの姿から学びたかったのだ。

 せっかくこれだけのクリエイターが集まる会社に就職できたのだから。


 もともと椎木は、なにがなんでもシナリオ作家になりたいと熱望していたわけではない。


 高校卒業までは部活のバレーボールに打ち込んでいた。と、いうより競技をはじめた小学生のクラブチームが地元では強豪だったので、流れで打ち込まざるを得なかったのだ。バレーボールの特待生で入学した高校では寮生活で、趣味の時間なんて悠長なものはそうそうとれない。小説もゲームもアニメも、人並みにしか楽しまなかった。

 ただ、映画は好きだった。邦画も洋画も、古いものから新しいものまで。傑作でも駄作でも、とにかく幕が上がると自然と没頭していた。頭の中がフラットになって、スクリーンの向こうのドラマがダイレクトに注ぎ込まれてくる。モノを食うように、椎木は映画を見た。保育園から中学校、そして高校でも。

 くたくたになるまで練習した深夜、消灯後の寮の部屋でイヤホンを耳に入れてこっそり視聴していた。二時間半を五本続けて見ても苦にならなかった。少し疲れはするが、食べ疲れはすぐに回復する。


 本格的な競技生活からは足を洗った大学時代、プログラミングサークルの友人から軽いノリで頼まれてノベルゲームのシナリオを書いた。さらさらと書いたそのシナリオは椎木が思うよりも評判が良く、ノベルゲームはそれなりの売上を生み出した。お金になるなんてまったく思わずに書いたシナリオもどきが、ひと月分の生活費になって椎木の懐を潤した。


 書いたら書けるんじゃないか。


 そんな折、映画情報サイトで短編映画シナリオコンペを見つけ、今度はしっかりと頭をひねって『脚本』を書いた。二〇分の尺を過不足なく使い、逆算してクライマックスの見せ方を考える。どうすれば観客を画面に釘付けにできるか。どこで何をすれば観客の意識を引っ張り続けることができるか。

 そうやって書いた脚本で、椎木は東彩新人シナリオコンテストの大賞を受賞した。


――めっちゃ嫌なやつが来たなって。


 はじめて紹介されたとき、柳川は椎木にそう言った。「よろしく」でも「頑張れよ」でもない。でも、そのすべてが含まれた言葉だった。

 その柳川が、今朝は始業からいない。

 ブルードから、契約解除の通達があったのだ。


「なんで謝りに行って事態が悪化してるんだよ」


 ワークスペースで先輩がぼやく。昨日は人のまばらだった制作部ワークスペースだが、今日は大きなデスクがライターで埋まっていた。

「で、なんだっけ? 納期遅れ?」

「いや、連絡漏れ。なんか、相手からの依頼で、通常の流れよりも工数が多かったらしいんだよね。制作途中も都度で見せてくれみたいな。それを柳川が失念してた」


 通常、東彩のシナリオ制作では初回打ち合わせ後に見積もりとシナリオ提案書を出し、先方が内容を承認すれば業務委託契約書を締結して制作がスタートする。シナリオ概要、プロット提出にオーケーが出れば、次に先方に連絡を取るのは初稿が上がってからだ。


 だがブルード社は初稿の完成後では遅い、一節書くごとに見せてくれと言っていた。その一節ごとの連絡を、柳川はしていなかったらしい。


「一節ってのもまあ、変な話ではあるんだけど」

「早かったら一日で何回も送ることになるじゃん。柳川なんかめっちゃ筆早いんだから、あっちの確認も追いつかないと思うけど」

「向こう、古い会社なんでしょ? 業態も全然違うから、そこらへんわかってないんだろうね。契約書でも色々あったらしいし」


 東彩では数年前から、契約書や請求書を紙で発行しなくなった。無論相手が紙でと言えば紙面のやりとりを行うが、原則はデータのやり取りで完了している。


 ブルード社とはまず、この契約書締結でひと悶着あった。

 契約書に関していえば、東彩の手落ちとは言い切れない。

 柳川は事前の打ち合わせで契約書はPDFで送ってもいいかと尋ね、先方の担当者は了解した。けれどいざPDFで契約書を送ったら突き返されたのだ。


 書式が一般的ではない。本文のフォントが小さすぎる。やはり紙でないと角印は押せないと経理が言っている。


 だが東彩がシナリオ制作業務の委託の際に取り交わす契約書は、社内統一のテンプレートを使用している。デジタル証憑に移行して何年も経つが、これまで一度もそのようなクレームを受けたことはない。


 先方担当者の上司が連呼する『普通は』に苛立った柳川が対応を治田に投げ、ここで一度治田はブルードに謝っている。先方の指定通りに契約書を冊子型に作り替え、送付したのも治田だった。


――切るなら切るでいいんだけど。


 もはや柳川はこの安価な上に特に面白みもない案件になんの未練もなかったが、先方は柳川の実績から柳川を指名している。指名で依頼が来た以上、誠心誠意期待に応えるべきだろう。治田は柳川を諭し、宥めた。初めての会社だから、私がきちんと確認するべきだった。契約書の書式も、最初に打ち合わせていたらよかった。


――柳川君が書きやすいように事務的なことは全部請け負うから、気持ちを切り替えてやっていこう。


 書面の契約書が二社間を往復した。発注はなされ、制作が開始された。


 一節ごとに、出来次第送って欲しい。こちらで確認して、ゴーを出したら次の節へ。その旨が記載された柳川宛のメールに、柳川は承知致しましたと返信している。CCには治田も入っていた。治田もブルード社のその指示を理解していたし、柳川との共有カレンダーにも記入していた。

 一節ごとに原稿を送付しなかった理由をディレクターから訊かれた柳川は言った。


――治田さんが送ってると思っていたので。


「柳川言いそうだなぁ」

 呆れ混じりの笑いが起きた。どうせ仏頂面で言ったんだろうな。あいつ、なんも悪いとか思ってないよ。

「そもそも切るなら切るでいいって言うのも、どんだけ上からって感じだし」

「その切るってさ、先方から切られるじゃなくて自分から切るって感覚だもんね」

 ワークスペースでことの経緯を話しているのは、だいたい柳川の同期か年上のメンバーばかりである。柳川を学生インターン時代から知っている彼らには、今回の柳川と治田の悶着もそう意外ではないらしい。


「まあ治田も治田なんだよな。先方にもライターにもいい顔し過ぎっていうか、契約書の件はこっちの落ち度じゃないじゃん。それを謝罪して相手の言う通りに契約書作り直したりするから、相手が調子乗るわけだろ」


「節ごとに確認とか、治田もメール読んでたならストップかけろよな。相手に舐められてるじゃん、完全に」

「柳川も治田のこと舐めてるし」

「あの二人、よく打ち合わせしてるんだからちゃんと連携とっとけば良かったのに」

「仕事での絡みは多いけど、実際のところあんまり仲良くはなさそうだもんね。タイプが違うから相性悪いんだよ」

「治田がちょっと付き合いづらいとこあるもん。お堅すぎるし八方美人だし」

「部内での立ち位置も微妙だしね」


 やいやい言いつつも柳川のことは我が子の我儘を愚痴るような口ぶりなのに、彼らが治田を語る言葉はやけに冷たく聞こえる。

 いまここにいるのは開発クリエイターだけだ。このうち半数は治田が補佐担当についている。彼らの制作の事務方を担っているのは治田なのに、どうしてこうも突き放した言い方なのだろう。


 治田さん、クリエイターから評判悪いのかな。


 椎木には不思議だった。聞いている限り、ブルード社のクレーム要因は治田ではなく柳川だろう。


「三者三様にダメだね、今回の件」


 先輩作家たちはやれやれとため息をつき、苦い表情で苦言を呈している。だが、どの顔も本音では面白がっているのだろう。


 他人の不幸は蜜の味。


 その言葉をこれほど体現している場面も、なかなかお目にかかれない。

 それにしても、と椎木は曇りの窓に目をやった。

 椎木が出社するよりも前、つまり東彩の就業時間前に、ブルード社の社長から電話があった。担当者、その上司の部長ときて、ついには社長の登場だ。


――おたくは一体なにを考えているのか!


 治田が取り継いだ制作部の部長は、通話が切り替わるなり大喝されたという。

 なにを考えるも何も、部長は昨日のクレームを知らずにいた。治田が謝罪にいけば収まるだろうと踏んだディレクターは、上に知らせなかったのだ。


――制作責任者は治田ではなく柳川とある。とりあえず頭でも下げればいいと思って、手の空いた人間を適当に寄越したのか。

――責任の取れない人に来てもらってもなんの意味もない。そう言って、昨日だいぶ治田君を叱った。でも、私たちが本当に憤ってるのは御社のその姿勢です。


 一部始終を聞いた部長はことの次第に激怒し、ディレクターと柳川の責任だと断じた。

 そしていま、ディレクターと柳川がブルードに謝罪に向かっている。その謝罪行脚に同行を命じられて治田も社にいない。時間を惜しんだ部長に、電車とタクシーの道中で二人に詳しい状況を説明するよう言われたらしい。


 そんなこと、メールで良さそうなものなのに。その方が、直前までスマホで見返せて便利だろう。


 窓に映る空は花冷えの色だった。薄地のニットがほんのわずかに肌寒い。さっき脱いだジャケットは、適当な椅子に放ったらかしだ。

 サイレンの音が聞こえてきた。反射的に消防車を探すが、下の交差点に赤はない。


「やば、火事やん」


 先輩のひとりがつぶやいた。どこ? あ、あれじゃん。なんだっけあそこ。わかんない。


 ずっと遠いどこかに火元がある。もうもうと煙を上げ、燃えている何かがある。

 花曇に登る白い煙に集中した興味は、けれど一瞬で霧散した。彼らはまたこちらの火事に話を戻す。


「部長が出ると治田君は強いよ。部長は治田君めっちゃ気に入ってるからね」

「補佐にも男手はいるから、上からしから治田には辞められたくないんだよ。あのレディたちとうまくやっていける男ってあんまいないから」

「部長自身もレディだし?」

「まあ、ディレクターは適当に構えてたんだろ。相手偉そうに言ってくるわりに大した太客じゃないからさ」

「十万くらいでいけますかって言ってきたんだって、最初」

 顔を見合わせて鼻で笑う。一本? いや、二本まとめて税込みで。


 ブルード社の依頼は二十分のアニメ脚本が二本。ひとつは創業者の生い立ちと会社の歴史。もう一つは会社を舞台にしたオリジナルドラマ。創業六十年を記念した祝賀会で放映する。シナリオだけでなく、アニメーション制作もお願いしたい。

 相手が最初に提示した額は、この業界の『普通』よりもずいぶん馬鹿にした値段だった。それを治田がブルード社および東彩内部と交渉して落としどころを探り、柳川が最終的な見積もりを先方に提示した。

 つまり、適正な見積額を導き出したのも治田だということだ。

「マジ、飛んで困る案件でなくて良かったね」

 火は足元を燃やしているのに。

 ごく当たり前のように頷きあう先輩たちは、さらに遠い河岸にいるようだった。


 *


 ブルード社の案件は飛ばなかった。


――出来上がりを見て最終判断します。おたくも思うところあるでしょうが、我々を見返すつもりでやってください。


 謝罪に出向いた治田に激しい説教をかまし、電話口で部長を怒鳴りつけたブルードの創業社長は、一転しみじみした口調で最後通牒をした。ディレクターと柳川が謝罪に赴いた、その翌日のことだった。


「だから、ちょっと違う感じするんすよね。なんかもっと……トンネルの話とかも上手いこと使う方法あるし。なんだろ……それか排気口をラストに持ってきて余韻で終わらすか」

 コワーキングデスクの奥、パーティションで隠した個室風の空間から、独り言じみた声が漏れ聞こえる。けれど独り言ではないらしいのは、合間合間に挟まれる短い相槌からわかる。

「排気口いいかな。なんか……じわっと出してきて、孫とじいさんと」

「ああ」

 世代感出るし。じいさんはじいさんじゃないけど。てかそうか、じいさんじゃないからわかりづらいか。切り替え?……セピアから自然光にする感じで……やっぱ実写のがいいと思うんだが。なんでこの依頼アニメなんかな。

「ご提案してみたら?」

「あり?」

「うん、聞いてくれると思うよ」

「……こっちは? このセリフのとこ」

 午後早くの制作部ワークスペースには、人影というものがない。この時間帯、開発クリエイターは共有部から出払うことが多い。打ち合わせをしていたり、昼を取りに出たり。あと数時間もすれば、ぼつぼつと顔を出すメンバーが増えてくる。

「いや……いうて俺の地元もそこまで訛ってないから」

「その言い方がもはや訛ってるやろ」

「柳川が言うとイントネーションが、ちょっと」

 柳川の下手な関西弁に、治田がやんわりと指導を入れる。そういえば治田は関西圏の出身だ。椎木は治田に、標準語のイメージしかないけれど。


 ブルード社に出直しを命じられてから数日、柳川と治田はしばしばパーティションの向こうにこもっている。


 はじめ椎木はその光景を、クレームの事後対応策を打ち合わせているのだと思っていた。だが、かすかに聞こえてくる内容は取り留めのないおしゃべりばかりだ。というより、柳川ひとりが話していて、治田はもっぱら聞き役らしい。


「にしても相手かなりの癖者だと思いますよ、マジで」

「うん?」

「いや、思わないっすか? まあ、お客さんなんていろいろいるけど。ほんと、ここまで来るとオモロいですね」

「そうか」

 答える治田の声は苦笑まじりだった。一方の柳川も、そう不機嫌ではないらしい。

「オモロいっす。あー、マジでムカつくのにオモロいんですよ」

「良かったんやと思うよ、今回のこと」

 柳川がそう言うときは、火がついたときだから。椎木が作業するコワーキングデスクから二人の姿は見えないが、聞こえる治田の声はとてもやさしい。

「……そうすね」

 テーブルに出していたスマホに通知が来る。窓に表示された水村の名前に、椎木は作業の手を止めた。作業を中断してパソコンを仕舞う。治田が頑張って話をつけてくれたという大先輩と、打ち合わせ前に近くの喫茶店で会う約束があった。

「企業調査の話とか、全然知らんかった」

「まあね」

「うちもやります?」

「登録制だからすぐにはできないよ。会費もいるし。東竹はずっと会員みたいやけど」

「へえ、さすが天下の東竹さん」

 冗談めかして柳川が口にした〝天下の東竹さん〟とは、契約書がごたついたときにブルード社側が放った言葉らしい。


 おたく、天下の東竹さんの子会社なんでしょ?


 負けん気の強い柳川が相手の嫌味を戯れ言にしているということは、彼の中でブルード社とのいざこざはひとつステップを越えたのだろう。


 あの火災は鎮火した。燻りが発火して燃え広がった炎は燃えるだけ燃えてふっと消えた。焼け跡というほどのものはない。この件について部長から部内メンバーへ正式な報告はついぞなされず、炎上などなかったことになっている。すっかり観客モードで事態を楽しんでいたクリエイターの先輩たちも、収束してしまうと興味をなくしたらしい。


 柳川は相変わらずいくつもの案件を並行しながら、いまはブルード社に注力しているようだった。

 あれほど、面白みのない安い案件だという態度をとっていたのに。

 柳川とは昨夜、仕事帰りの流れで食事に行った。三期上の部の稼ぎ頭は、新卒の椎木に特盛り海鮮丼をおごってくれた。けれど抱えている企画の詳しい話は、さりげなく水を向けてもしようとしない。ブルード社やクレームのことも、にやっと笑うだけで何も言わない。

 治田もまた、この火事について語ろうとはしなかった。疲れたとも、腹がたつとも、何も。

 唯一憤りを漏らしたのは治田の同期の福谷だった。


――この会社のクリエイターの人たち、他の業務を下に見てるんですよ。

――柳川君、天才型だから思ったことそのまま言っちゃうって思われてるかもしれないけど、あの人はけっこう相手によって態度変えるんです。うちの竹花さんに経費申請が杜撰だって叱られたときはちゃんと謝ってたし、今もびびって気を遣ってる。だからあの人経費関連は全部治田君に頼んでるんだよ。自分が怒られたくないから。


 竹花部長は経理部勤続四十年の東彩管理部の重鎮だ。男性女性、社内外問わず、ルール違反や中途半端な仕事は容赦なく叱り飛ばす。とにかく厳しい初老の女性だった。ブルード社が契約書に文句を付けてきたときに、もっとも怒りを露わにしていたのも竹花部長だったという。


 福谷が柳川を語るときに使う『あの人』は、冷ややかな軽蔑に満ちている。


 大なり小なりトラブルが起きて、それはある人の仕事をダイレクトに燃やし、それ以外には対岸の火事で、だけど大抵の炎上はいつしか収まり、取り立てて何かが変わるでもなく元の日常が続いていく。

 よくある話。ありきたりな展開。幼い時分から手垢がついたような、繰り返される軋轢と修復、無関心。

 どこをどう切り取ってふくらませば、これは身につむ話になるだろう。

 自身もまた第三者である椎木は考える。

 自分がいる場所は舞台ではなく、そして観客席でもない。舞台袖のカーテン。その陰から舞台と客席の両方を眺めている。登場人物はどう動き、スポットライトはいかに照らされ、盆回りはいつ動くか。観客席の反応、食いつき。記者席の表情とペンの走り。

 書くのに一番いいのはこの位置だ。

 椎木が待ち合わせへと移動するときもまだ、柳川は治田に滔々となにか話していた。



「なんにも変わってないことはないだろうさ」

 水村はそう言って、仕事の話のあいだ手を付けられることなく、すっかり冷めきったコーヒーをひと口飲んだ。

「どんな話でも、娯楽フィクションである以上何かしらの変化を描くことを求められる。もしくは、徹底して変わらないなら変わらないことを納得させるだけの理由が必要になる。……って、こんなのわざわざ講釈垂れるほどのもんでもないか」

 慌てて首を横に振る。あの水村一景が語る脚本論だ。それも、駆け出し以前の新人に。

 水村は淡々とした人だった。ビジネスライクという表現が近いのかもしれない。今度の企画内容を端的に伝え、そのなかのいくつかの項目を椎木に任せてくれた。それぞれの工程のやり方を教えてくれて、でも出来上がりが注文通りなら好きな方法でやればいいよと言う。


「入社前から、書いてはいたんだろ? だったら君のやり方もあるだろうし」

「いえ、僕、インターンに来るまで全然書いてなかったんです。ただ、見るのが楽しいだけで。だから水村さんに教われて、すごくありがたいというか……夢みたいで」

 水村脚本作品で、映像が手に入るものはすべて見た。何も考えずテレビアニメを見て、年に一度の映画公開を楽しみにしていた子ども時代から水村チルドレンだったのだ。

「たまにいるよな、君みたいなタイプ」

 そうなのだろうか。まず、こういう業界の平均値がよくわからない。映画だって、マニアというほど見ていたわけではなかった。ことにそう、こんな業界に身を置く人々の基準においては。


 学生の頃は何してたの、と訊かれて、語るほどでもない十代の思い出を語る。結果的に青春を賭けることになったバレーボールのことを話すと、水村はなぜか腑に落ちたというように「ああ」とつぶやいた。


「じゃあ、こっち系のことはひとりで黙々とやってた感じなんだ。ウェブで繋がったりとかもなく?」

「全然です。ほんとに、ただただ見て……感想を誰かと話したりもしなかったです」

「へえ。それでどんどん趣味が偏っていったわけか」

「え、偏ってますか?」

 思ってもみないことを言われ、驚いて水村を見た。水村は苦笑している。

「自分で思ってるより、椎木君はマニアだろう」


 それは、いい意味だろうか。


「なんでも食えるけど本当のストライクゾーンは極狭。で、キャラが狂っていく話が好きなんだろ? そういう話は一般的に広くウケるけど、でも椎木君の言う狂うはなんか……キャラクターに対して視聴者目線で厳しいよね」


 小学生の足し算のように良い方へ向かう話はつまらない。わかりやすく墜ちていく話は先が読める。先の読めない変化が好きです。つい十分ほど前、たしかに椎木はそう言った。


 水村と対面したことに興奮していて、ずいぶんえらそうな御託を述べてしまった。椎木はうっすらと赤面して視線を泳がせた。


「狂うというか……なんだか、変わらない話……事件があっても登場人物がそう大きく変化しない展開ってよくありますけど、それはあまりグッと来なくて。僕はキャラクターが成長するよりも、変わる……変わっていかざるを得ない感じが好きなんです」

「椎木君の言う変わらない話ってさ、ただ単に変化を上手に書けてないんじゃない? 曖昧なキャラクターで、曖昧な事件が起きて、曖昧に終わるみたいな。計算してうまいことすれば面白いと思うけど、技術不足でそうなってるなら単調だろうね」

 とくにカッチリ商業ならなおさらさ。言いながら水村は電子タバコを咥えた。

「……僕自身が変化を見つけられてないという説もありますね」

「いや、観客側にそれを探すことを求めるストーリーは作家の怠慢だよ」

 そうか、とひとつ脳裏に言葉が焼きつく。探すことを楽しむ人もいるだろうが、それなら探した先にいくつもの答えを散りばめるべきかもしれない。

 だが。

 リアルの世界では、はたしてどうだろう。

 燃えても変わらないように見えた社内。制作部。当事者である柳川と治田。


――何も変わらないことはない。


 その日の勤務を終えた椎木は、勤怠を切ってからワークスペースに入り、ブルード社を検索した。

 案件の内容は頭に入っている。制作補佐ブースに預けられていたとき、治田のファイリングした資料を読んだ。先方の指示書にメールのやり取り、クレームの経緯もわかる。おそらく制作部内で、治田と柳川の次くらいには、この案件に詳しい。


 見える。書ける。これは。


 帰宅途中の駅中書店で、会社四季報と数冊の業界誌、それから創業時期の昭和五十年代について記した実録系歴史書を複数買った。ブルード社が取り扱う機材についての専門書を買い、競合他社のことを書いた新書も買った。ターミナル駅から自宅までの道のりで、ひさしぶりに就活サイトを開き、ブルード社が当てはまる業種業界について探った。


 先月末に引っ越したばかりのワンルームで、買い込んだ書籍を貪り読んだ。同じ用途の機械を扱う他社メーカーの公式動画を見て、実際の使用現場と動作を想像する。読んで、見て、調べる。映画を見るときと同じ没入感。面白い、面白くないは関係ない。するべきことを前にすれば、椎木は自ずと対象にのめり込む。

 もう見えているのだ。あとはそれを補完する、肉付けの材料が欲しいだけ。

 どう書けばいいか、どの位置でキューを出し、どの位置でライトを照らせばいいか。

 書き出したのは二日後の終業後だった。翌朝までに二本のシナリオを切り、椎木は治田にメールを送った。

 三日もほぼ寝ていないわりに、不思議と椎木の頭は澄み切っていた。



 制作部フロアに出勤するなり、治田に呼び止められた。


「椎木君」


 よかった、と思う。椎木も治田のところに顔を出そうと思っていた。

 誰もいない補佐ブースには、治田ひとりの荷物しかない。ノートパソコンが立ち上がっているのも治田の席だけ。彼のデスクはいつも整頓されていて、飲み物片手に作業するようなこともないらしい。なんとなく、無味乾燥で味気ない仕事風景だった。

「治田さん、メール、送りました」

「うん、その件で。……ちょっと、時間いいかな」

 椎木がはいと答えると、治田は補佐ブースのドアを閉めた。ワークスペースとの間仕切りを下ろし、打ち合わせ中の小さなホワイトボードを吊るす。

 治田以外の補佐担当は十一時から勤務のパート社員だ。もとよりあと二時間、この部屋に出勤してくるスタッフはいない。さっきちらっと見たかぎりでは、開発クリエイターが利用するワークスペースも無人だった。制作部にとっては、まだ朝が早すぎるのかもしれない。

「座ってね」

 促され、育休中スタッフの空きデスクに腰を下ろした。このデスクは、補佐ブースにおける椎木の定位置のようになっている。


 治田は自分のデスクから、椎木の隣の席に移動してきた。椎木にも見えるように置いたノートパソコンに、出勤前の椎木が送ったメールが開いてある。


「椎木君、これは通せないよ」


 だろうな、ととりたてて感慨もなく思うのと、どうしてだよという反感が一度に沸いた。そんな顔をしていたのだろう。無言の椎木を見やった治田は、あらためて身体ごとこちらに向き直った。

「ブルード社の案件は、コンペじゃなくて受注案件でしょう?」

「はい」

 そんなことはわかっている。ただ、深く考えていなかっただけで。

 治田は社則のファイルを立ち上げた。入社日に治田と福谷から習った社内規定の文言が、パソコン画面にずらりと並ぶ。

 コンペ形式なら、開発クリエイター全員に参加権がある。一方、受注案件は制作部内の割り振り、または依頼元の指名。

「今回のブルード社のご依頼は柳川君が担当することに決定してる。それも、先方のご指名でね」

 そう。そのことも椎木は知っていた。

 この狭い補佐ブースで、自分はいま治田の目にどう映っているのだろう。しおらしく視線を落とすこともせず、相槌は打ってもごめんなさいと言うわけでもない。会社業務の重みも、たいして感じていない新入社員。

 椎木の中に治田への反発はないが、気になったのだ。忍の一字でいろんな物事を吞み込んでいそうなこの人が、規則を破った後輩をどうやって叱るのか。


 治田はひとつ息を吐いた。


「会社同士の契約ですでに動いてる案件に、担当外のスタッフが勝手にシナリオを作って提出したらいけないよ。だからこのシナリオは、私の立場では上にも先方にも渡せない」

「読んでもらえたんですか?」

「ああ。……椎木君、社内秘規定はちゃんと覚えてる?」

「覚えてます」

 当然だ。しっかりと答えた椎木の目を見て、治田は軽くうなずいた。

「だったら、他者が正式に受注した案件について、秘密裏に情報を得てはいけないこともわかってるよね。制作部だけじゃない。それぞれの部署のそれぞれの業務には、プライバシー設定があるんだよ。社内の人間の全員が、社内のすべての情報にアクセスしていいわけじゃない。秘密を守る側……業務を担当する側はそれが担当外に知られないように注意しないといけないし、その業務に関わらない人間は、自分から進んで……勝手に、担当者に黙ってその情報を入手しようとしてはいけない。これはうちの社則の重要な箇所だし、どんな会社でも、どんな業種でも言われることだよ。社会人として、ごく一般的な倫理観だ」

 言葉を選びながら、噛んで含めるように話す。治田の表情からは、苛立ちや呆れは読み取れない。いまは、まだ。

 治田の訓戒の切れ目を見て、椎木は「わかってました」と言った。

「全部、わかってます。社則も、全部」

 社則なら諳んじることができる。そんな社員、勤続十年でもなかなかいないだろう。


 椎木は、ルール違反だとわかった上で治田とブルード社とのメールを遡って読み、クラウド上の治田のファイルにアクセスした。そうして二本のシナリオを書いた。


 治田は椎木をまじまじと見つめ、どうしたものかというように首を捻った。

 電話が鳴る。ごめんね、と断りを入れて治田が受話器を取った。外線らしい。聞き耳を立てるつもりはないというアピールで、椎木は席を立った治田から視線を外した。

 承知致しました、その件につきましては中崎から連絡するように致します。対応する治田の声音は椎木に道理を説いていたときとほとんど同じ穏やかさで、けれど温かみのようなものはプラスされているかもしれない。

 聞かないふりで耳が拾う電話が終わる。治田は社用スマホを手早く操作し、椎木の隣に戻ってきた。


 椎木は治田が口を開く前に「僕のシナリオ、どうでした」と訊いた。

 面食らったらしいのは一瞬で、治田はすぐに目を細めて笑った。


「すごいとは思った。二本ともね。本当に、椎木君は才能の塊みたいな人だと思う」

「だったら」

 今度は椎木が言いかける前に、治田が「でもね」と言葉を挟んだ。

「このシナリオは制作過程がルール違反なんだ。私は実務担当者である以上、規則を破った原稿を上にあげるわけにはいかない」


 また電話が鳴った。今度は内線。治田は席についたまま簡単に応答し、椎木から見えない位置のメモパッドに何か書きつけた。


 椎木はそれをぼんやりと見ながら、手元のスマホで自分の書いたシナリオを開いた。今朝早く書き上げてさっと目を通しただけの原稿。大枠とキーの台詞は忘れないが、細かな表現は覚えていない。


 ただひたすら夢中だった。テクニカルな部分は考えたけれど、悩んだ箇所はない。対抗馬が柳川だということすら、眼中になかった。


 治田がこの行為を許すかどうか、それを見極めたかったのかもしれない。治田の壁を越えさえすれば、この原稿は通るだろうという漠然とした予感があった。


 内線を終えた治田は、受話器を充電器に戻して振り向いた。

「柳川君、このこと知ってる?」

「いえ、言ってません」

 柳川とは昨日の昼間も一緒に近所の洋食屋に行ったけれど、お互いに仕事の話はしなかった。柳川はなかなか、手のうちを明かさない人だ。


「どうしてブルード社の案件を自分で書こうと思ったの?」

「わかりません。書ける気がして。……治田さんに読んでほしかったから?」


 見えた。書ける気がした。そして書けた。

 書いた原稿を出す先は、治田しか考えていなかった。


 考えるように眉間を曇らせていた治田は、小さくため息をついた。

「私にシナリオの良し悪しを云々できる技量はない。シナリオも映像も、専門的なことは何も言えない。だから指導が欲しいなら、水村さんにお願いしてこれを読んでもらうか、柳川君にこのシナリオを見てもらうかじゃないかな」


 椎木は首を横に振った。添削してほしくて、これを書いたんじゃない。


「治田さんがいいと思ったら、向こうに渡して欲しかったんです。僕のを使うか使わないかは、ブルードの人に判断してもらえばいいと思った」

「椎木君、それはできないんだ」

 我々は東彩という会社に所属する人間で、これは会社の名前で受けた仕事だ。プロジェクトの途中で主担当が変わる。それには相応の理由がいる。そしてその相応の理由に、べつの人間の脚本が出来上がったので読んでみてくださいは通らない。

 そもそも先方からすれば、着手時の秘密保持契約はどうなったのか。東彩は業務上知り得た秘密を担当者外の人間に広めるのかという話である。


 辛抱強く説明してくれる治田のそばで、また電話が鳴った。

「でも、ホンがすべてってことは、たとえその案件の担当が決まっていても仕上がりが良いものを選んだ方がいいんじゃないですか?」


 受話器を取ろうとしかけた手をとめて、治田は椎木を見つめた。細い目が丸くなり、そして微笑する。


「今回は、柳川の方がずっといいよ」

 おだやかな唇が、きっぱりとそう断言した。



 ホンを語る技量はないんじゃなかったのか。

 釈然としないながら、あれ以上食い下がることはできなかった。さすがに痛手だったのだ。あそこまではっきりと、柳川の脚本の勝ちだと示されてしまったことが。

「おい、ドロボー猫」

 その日の夕方、水村のサブを務めている現場から帰ってくると、ワークスペースにいた柳川に捕まった。柳川は作業中らしく、パソコン周りにはクロッキー帳や大判の書籍、書類ファイルが散らばっている。柳川はそれらを、椎木がデスクに近寄るまでに大雑把に片付けた。隠した、というのがより正しい。

「おまえさあ、マジでないわ」

 ノートパソコンの画面を落とした柳川は、面白そうに笑っている。

 諦めない椎木がこっそりとブルードと連絡をとる可能性を危惧したのだろうか、治田はこのシナリオを柳川に見せて指導を受けるよう命じた。ボツ原稿に指導も何もと思ったのだが、これ以上反抗しても落とし所が見つからないだろう。気乗り薄ながら、椎木は治田が柳川に伝達することを了承した。

「柳川さん、ごめんなさい」

 ちゃんと、ケジメとして謝ってね。治田の言いつけに従って、椎木は柳川の隣に腰かける前に頭を下げた。

「うわぁマジの棒読み。ごめんとか思ってねぇだろ」

「まあ、あんまり」

「やば。おまえと比べたら俺って真面目な模範社員だわ」

 外行こ、と言われて引きかけた背もたれを戻す。柳川は荷物を黒い通勤リュックにひとまとめにして立ち上がった。

 四月の夜だというのに、風は蒸し蒸しと熱を孕んでいる。椎木は歩きながらジャケットを脱いだ。

 隣を歩く柳川は、Tシャツ一枚の軽装だった。下は黒のスウェット。彼は今日、肩肘の張る打ち合わせはなかったのかもしれない。

 そういえば、治田は判で押したように毎日地味なスーツである。薄グレーだか、無地紺だか。黒いネクタイを締めれば、そのままお通夜に赴けそうな。

「柳川さんって、治田さんと仲いいんですか」

「べつに? 仕事の人ってだけ」

「こうやって、一緒に食事行ったりします?」

「ほぼない」

「でも、よく一緒にいるじゃないですか」

「え?」


 なんのことだとでも言いたげに椎木を見た柳川は、信号が青に変わるまでたっぷり悩んでやっと椎木の言わんとする状況を思い至ったらしい。


「ああ、ネタ出しのこと?」

「あ、あれってネタ出ししてたんですか。ブレストみたいな?」


 あのふたり、よく打ち合わせはしてるのにね。炎上中に漏れ聞いた話は、打ち合わせではなくブレインストーミングだったのか。


「ブレストね。まあそうかもだけど」

「じゃあやっぱ仲いいじゃないですか」

「違うよ。だって規定上、仕事の話して許されるのって補佐担当かディレクターか部長かの三人しかいねえじゃん」

 おまえってそこは理解してるんだっけ? 柳川の言葉に椎木はうなずいた。理解はしている。じっさい、受けている案件の話を他人にしたことはない。


「消去法であの人しかいないわけ、俺には」


 柳川はがしがしと髪を掻いた。


「誰かと話して考えまとめるってなったとき、あの人とやるのが一番安全だから。この仕事、迂闊に人に話せないじゃん。そもそも秘密事項多いし、案件外の人間は即アウト。俺も言いたくねえし。で、生成AIなんかいくら万全のセキュアとか言ってもアンタッチャブルでさ、機密の確実性はない。絶対に秘密が漏れなくて、いらん口を挟まずに聞いててくれて、社内担当者で、しかも無料でってなったら、そりゃああの人といる時間は長くなるよ」

 そのくせ、柳川の口ぶりに感謝の念は薄そうだ。

「信頼してるんですね、治田さんのこと」

「信頼? まあ、信頼かな」


 訝しむように眉根を寄せ、柳川は「あの人、書かないから」と鼻で笑った。


「あの人は、自分で書かないじゃん。だから安心してられる。俺が何言っても、あの人の中でそれがなんかの形になることはありえないわけだし」

 まるで言葉を解さない赤べこのよう。赤べこなら、何を言っても黙って聞いていてくれる。赤べこ経由で他所にアイデアが漏れるなんてことは起こりえず、筆を握れない赤べこに、アイデアの盗用など不可能だ。


 冷淡になりすぎた口調を誤魔化すようにふざけた喩えを持ち出した柳川の声には、誤魔化しきれない軽んじが滲んでいた。


――この会社のクリエイター、他の業務を下に見てるんですよ。


 憤る福谷の声がリフレインする。炎上中、柳川と治田の噂をしていた開発クリエイターたちは明らかに治田につめたく、柳川には同情的だった。けれど柳川のこの態度は、ただ単に補佐担当を下に見ているというのも違う感じがする。


「そんなこと言ってたら、治田さんに足元掬われますよ。どうします、あの人もじつは書いてたら」

 わざと深刻な風を装って声を潜める。すぐさま肩を小突かれた。

「バーカ、黙って勝手に書いてたのはおまえだろうがよ」

「聞いたとき、怒りました?」

「いや? そういや全然。むしろウケた」


 夜によく行くかつ丼屋の暖簾をくぐる。会社からは歩いて五分ほど。すぐ近くではないが、抜群にうまくて値段も手ごろだ。


「治田さんにはめっちゃ怒られました。それで、今回のホンは柳川さんの方が断然上だって」


 カウンター席で二人分のグラスに水を注ぎながら、柳川は横顔で苦笑した。だが唇の端を歪めるだけで何も言わない。当然、くらい返ってきそうなものなのに。


「それよか、水村さんのどうなんだよ。サブで入れてもらったんだろ」

 いいよな、と漏らす声は心底うらやましがっている。柳川にとっても、ベテランの水村は憧れの存在らしかった。


「めっちゃ勉強になります。いろいろ、見て盗もうと思って」

「おまえが言うとマジで見たらだめなもん勝手に見てそう」

「そんなことはしませんよ」

 さすがにね。笑って言いながら、水村という先人の趣味や嗜好まであまさず観察して、貪欲に吸収したいと思っている自分はすこしばかり気持ち悪いかもしれない。

 だが、目の前に恰好のお手本があるのに、どうして学ばずにおれようか。


「この案件、治田さんが水村さんに頼んでくれたらしいんです。最初はけんもほろろだったけど、ついに水村さんが根負けしたって。だから、治田さんにはほんとに感謝ですね」


 柳川の表情が微妙に変わる。おかしげに笑っていた顔に、わずかな漣が立った。


 ほら、やっぱりな。


 この人はこの人で、『あの人』に思うところがたくさんあるのだろう。悪口ならいくらも言えるくせに、心の奥には言えない感情を持て余している。


「はあ? なにしてんのあの人」

「他の補佐担当の人から聞いて。めっちゃ嬉しかったです」

「じゃあ嘘だろうよ。言うてあの人、そこまでの権限はねえよ」

 柳川はあきらかに苛ついている。


 あるんですよ。だってあの人、役職付きですよ。


 用意していた台詞を足す必要はなかった。焦れた手でポッケからスマホを取りだした柳川は、「すぐ戻るわ。先食っといて」と言って席を立った。

 立ち上がる一瞬に見えたスマホの画面は治田とのやり取りだった。会社を出る直前に治田から来た業務連絡を、柳川が放置していたのにも椎木は気がついていた。


 ガラス戸の向こう。蒸し暑い春の夜。電話している柳川の後ろ姿が見える。


「どうします? もうできそうだけどお連れさん待ちます?」

 カウンターの中から店員が訊ねてきた。

「そうですね。すみません、後に回してください」


 それほど時間はかからないはずだ。柳川がどういう大義名分で、治田を呼び出したのかは知らないけれど。


 彼はきっと、仕事に託けるかたちでしか、彼を詰ることができないのだろう。甘えて突っかかって乱暴な口をきく。けれど彼に詰られる彼にとって、仕事は仕事でしかない。彼の中でもっとも重要で、そしてそのひと言ですべてを割り切れてしまう。生真面目な彼の絶対的物差し。


 お説教のあとで、椎木は治田に無邪気を装って訊いてみた。

――治田さんの立場、わりと理不尽じゃないですか。だけど、やっぱり映画が好きだから頑張れるんですか?


 うん、そうなんだ。そんな答えが返ってくると思っていた。

 治田はしばらく黙っていた。答えに悩んでいるらしいのは表情でわかった。


――仕事だから、かな。仕事で、所属先で、自分が何者であるか、世間に証明してくれる場所だから。


 自分が何者かを、世間に証明してくれる場所?

 鳩が豆鉄砲を食ったような顔でもしていたのだろうか。治田は椎木の反応に、恥ずかしそうに肩をすくめた。


――これで、映画が好きとか創作が好きとか、言えたらカッコ良かったんだけど。……やっぱり、仕事だからっていうのが一番かな。好きだからっていうより、仕事だから……。学生の頃から、ずっとお世話になってる職場だしね。


 世話をしているのは治田ではないか。そう言ってみたけれど、治田はあまり笑わなかった。


 大学生の頃、先輩の紹介でここの補佐担当のバイトをはじめた。はじめは軽作業と事務と言われていたのだが、面接に来てシナリオを作る制作部の開発補佐が業務だと知った。それくらい、東彩にもシナリオにも無知だった。


――いや、なんか最初意外だったけど、言われてみたらすごく治田さんな感じの答えですね。


 そう、と微笑む治田は椎木の生意気なコメントに何ら感じた風もなかった。受け流されているのかもしれない。


――治田さんのこと、もっと知りたいです。もっと、たくさん教えてください。

――いや、私のことは知らなくていいでしょ。

――すごく興味があります。ていうか、知らないと一緒に組んでやっていけないですよ。


 引き下がる椎木を笑っていなしながら、治田は「言うてそれほど、なんもないよ」と言った。

 この人が俺の前で、訛りを出すのははじめてだ。

 あたたかな水のようなこの人に、ようやく少し手ごたえを掴んだ。そんな気がした。


「悪い、メシは?」

 電話を終えた柳川が戻ってくる。カウンターがそれに気がつき、準備入りますねと椎木たちに声をかけた。

「あとにしてもらいました。出来立てのがいいかなって」

「悪いね、ありがと」

 おしぼりを使う柳川は、さっきの腹立ちを夜風に洗い流してきたらしい。


「なんか、ご機嫌ですか?」

「は? 全然だよ」


 そうは言いつつ、彼は今日顔を合わせてから一番柔和な顔をしている。


「はい、カツ特盛お待ちどう!」

 湯気の立つカツ丼が二人の前に出てくる。出汁と油の香りが香ばしく鼻先に漂い、自然と箸に手を伸ばしていた。


 さっきの電話、治田さんにですか。


 訊かなくても答えはわかっている。だから椎木はあえて訊かず、かわりに「めっちゃうまいっすね」と言った。

「そうだな」

短い返事は満ち足りた響きだった。

 柳川は隣でうまそうにメシを食っている。そんな彼は今、ブルードも含めて五つの案件を抱えている。そしておそらく、コンペに自主作品を出す予定もしている。


 これだけの案件を任されるのは彼の技量と才能。それらの埋蔵量を冷静に見極め、支えているのは治田の手腕。


 でも柳川さん、治田さんが担当してるのって、柳川さんひとりじゃないんですよ。それこそたくさん、請負からインターンまで含めたら三〇人を軽く超えるんです。


 ひとりきりの補佐事務室で仕事中だろう治田に、柳川がなにを話し、なにを言い、なにを聞かせてもらったのかは知らないけれど。


 補佐担当には、抱えている仕事の詳細を話してもいい。

 ならば椎木も柳川のように、治田に話を聞いてもらっても良いはずだ。

 治田はきっと、嫌だとは言わない。彼がどれだけ忙しかったとしても。

 べつに柳川にお伺いを立てる必要もないだろう。

これは抜け駆けでも横槍でもなんでもない。社内規定に則った行為なのだから。


――仕事のうちだったら、あの人は断らない。この人がそれを止めることもできない。


 人が顔を背けるものを見て、人が慎み深く聞かないことを聞いて、心やさしいつもりの人が書かないことを書く。良いホンを生む。それが椎木を選び、椎木に選ばれた職務内容。何者であるかの証明。


 治田さん、俺の仕事ってこういうことですよね?


 言うてそれほど、難しいことでもなさそうだ。



〈了〉

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