全ての乙女に捧ぐ

生江舞(新)

第1話 共鳴

 時々、自分の笑い声がダブって聞こえることがある。そういう時、私はとても安心して満ち足りた気分になる。洋平君の笑い声が聞こえているみたい、と。


 私と洋平君はびっくりするくらい感性が似ていた。家族ぐるみでの付き合いがあったから、私たちは赤ん坊の時から一緒にいたし、物心がついた頃には二人でいることの方が普通だった。


 そのようにして育ったから当然なのかもしれないけれど、私は洋平君と同じ感情を共有して生きてきた。私たちは同じものを見て、同じ大きさで、同じ時間だけ笑ってきたし、同じものを怖がって、同じように震えて、同じ量だけ涙を流した。

 すると一人でいても、隣に洋平君がいる気がするようになった。

 テレビを見ながら一人で笑っていても、隣で洋平君が笑っている気がした。一人が寂しくて泣いていると、隣で洋平君も泣いている気がして寂しくなくなった。


 私たちは二人で一人だったのだろう。洋平君は私にとって決して他者ではなかった。ツーカーの仲というのはもしかすると私たちのための言葉なのかもしれない。

 あるいは、阿吽の呼吸とでも言うべきだろうか。

 将来は波平さんとフネさんのようになるだろうと思っていた。いや、ジャムおじさんとバタコさんの方が近い気がする。



 小学校二年生の時、洋平君はゆきちゃんという女の子を好きになった。

 私とゆきちゃんは元々仲が良く、洋平君がゆきちゃんを好きになるのは当然だろうなと思った。私にしても洋平君と仲の良い男の子ばかり好きになったからだ。彼女も私たちの感性に好ましく響くような女の子だった。


 ゆきちゃんはある日突然、命を奪われてしまった。

 帰宅途中にいつも洋平君と一緒に遊んでいた山に一人で行き、そこで襲われたのだ。小学校二年生だった私は当時のことを詳しく覚えていなかったが、幼い女の子が執拗な暴行を受け、穢され、残虐に殺されたということで、世の中では騒がれていたらしい。


 幼い頃に大切に思っていた人を亡くすという経験は、彼に必要以上に早く大人になることを強制した。

 それ以降、洋平君はわざと明るく振舞ったり、おどけてみせたりするようになった。そうしていないと洋平君の純粋な感性は耐えられなかったのだろう。


 不自然な社交性を獲得してしまった洋平君は、その反動で、一人でいる時には絵ばかり描くようになった。

 はじめはお世辞にも上手とは言えなかったけれど、あまりに多くの時間を描くことに費やしていたので、みるみる上達していった。


 彼のお母さんが知り合いの絵描きに頼んで、週に二回の絵のレッスンを受けるようになって、彼の絵描きとしての才能は開花した。

 子供離れした写実のテクニックと、子供ならではの純粋な物事へのアプローチは賞賛され、メディアでも取り上げられるようになった。


 メディアに映る彼はとても大人びて見えた。辛い出来事によって大人になることを強制された彼にとって、大人然と振る舞うことは案外簡単だったのかもしれない。私は大人らしい対応を見せる彼が狂おしいほど好きであった反面、そんな洋平君を見るのがとても苦しかった。


「結衣といる時だけが、僕らしくいられているような気がする」


 洋平君は私と二人きりになるとよくそんなことを言った。そう言って洋平君は私に甘えているのだ。


「私もそう思う。私の前にいる時の洋平だけが洋平なんじゃないかって」


 私がそう言うと、洋平君は安心したような顔で笑った。


「結衣は僕の前からいなくならないでね」

「うん」


 いつも私はそう答えた。



 中学時代の私たちの至福の時は、私がピアノを弾き、洋平君がその曲のイメージを絵として表現している時だった。

 私がレッスンで習った曲や自分で作った曲、あるいは即興で弾く曲を洋平君に聴かせ、それに合わせて洋平君が絵を描くのだ。


 絵はクロッキーとして簡単に済ませることもあれば、私たちの気分が乗ると油彩の大作となることもあった。私が自分の演奏に満足が行けば行くほど、洋平君の絵の出来は良くなった。


 出来上がった絵は私が演奏しながら抱いていたイメージに忠実であった。私の思いが洋平君に伝わっているのだと思うと感動的だった。


「すごい。私の思っていたイメージと完全に一致している!」 と私が言うと、洋平君は恍惚とした表情を浮かべ感動した。私たちはこの共同作業をしている時、完全に共鳴していた。


 洋平君が望めばいつだって私は拒まなかった。中学の授業をこれでなんとかサボったこともあるし、部活を休む理由は全てこれだった。いつも学校の音楽室や私の家のピアノを使って、私たちは幸せを享受した。


「結衣のピアノを聴いて絵を描くときはさ、結衣のイメージしていることが手に取るようにわかるんだよ、俺」


 いつか洋平君は私に言った。


「やっぱりそうだったんだ。そうじゃないと、私が曲に抱いていたイメージがそのまま洋平の描く絵になっているなんておかしいもんね。実は私も似たような感覚があってね、洋平が喜んだり悲しんだり笑ったりするのが時々分かったりするんだ」


「結衣って俺が考えていることが分かるの?」


 洋平君が驚いて私に訊ねた。


「うーん、 考えていることまでは分からないけれど、洋平が私と同じ感情になっているんじゃないかって思ったりするの」


「ああ、 それなら俺にもあるよ。俺たちずっと一緒に育ってきたから、人一倍お互いの気持ちが分かったりするのかもな。一心同体と言うか、結衣はもうひとりの俺みたいな感じで……」


「うん、洋平の言いたいことはよく分かるよ。なんだか他人じゃないもん」


 私は嬉しくて思わず泣きそうになった。共鳴して洋平君も泣きそうになっているんじゃないだろうかと私は思った。



 洋平君は学年の中でアイドル的な存在だった。

 いくらか名の知れた中学生のアーティストで、本来近寄りがたいはずの存在なのに、明るく、クラスメイトと分け隔てなく接する、誰からも一目置かれる存在だった。


 一緒にいることが多いという理由で、私は羨ましがられたり、妬まれたりすることが多かった。とは言え、三井洋平の幼馴染という身分証明書が私の行動の自由を高めていたのは確かだった。


 男子が教室の真ん中でそれも大きな声で、あるいは一部の女子がなぜか堂々と自慰をしたことがあるかを聞いて回ることが流行った時期があった。大小はあれど、誰もがそういうことに興味があった年頃だったのだ。


 さすがに洋平君にこの事を訊くのは躊躇われたらしく、訊ねるものはなかなか現れなかったが、ある男子が学園祭の打ち上げで洋平君にその質問をした。

 彼は事も無げに「それくらいするよ。俺だって男なんだし」 と笑って答えた。

 その日以来、しばらくの間洋平君が自慰をしているという話は学校を賑わした。私も少し前から性に興味を持ち出していたので、「そりゃあ洋平君だって性欲くらいあるだろうに」と思って聞いていた。


 そんな中、洋平君が私の演奏する曲のイメージを元に描いた絵の一つが、ヨーロッパの著名な画家に激賞され、スペインの美術館に買い取られた。

 彼は絵を上手く描く早熟な中学生の一人から、絵画界の期待を一身に背負う若手アーティストになった。賞賛の声を浴び、注目が高まっていけばいくほど、人々が彼に対して持つ理想は強まり、演じなければならない人格は洋平くんに重く伸し掛かってきた。


 私は洋平君の深い苦しみを頻繁に感じるようになった。

 幸い、洋平君は絵を描くことに苦しんではいないようだった。私の目の前で描いている時は、ずっと素のままの洋平君として率直に描くことを楽しんでいた。

 私は私自身の幸せを願うように洋平君の幸せを願った。



 洋平くんは中学の卒業後には東京で暮らすことが決まっていた。高校に入れば離ればなれになることは初めから分かっていたので、 中学三年の一年間は今までのどの一年間よりも長く一緒にいた。


 学校が終わると私の家か洋平君の家でいつもの共同作業を行い、夜になって私がピアノ弾けなくなってからも、私たちの気力が続く限り、洋平君は絵を描き続けた。深夜まで続くことが多かったので、相手の家に泊まることだってざらにあった。


 洋平くんの中学時代最後の作品は、深夜二時の私の部屋で完成した。この作品に関して言えば、私も自分の演奏に好感触を持っていたので、洋平君の作品をかなり楽しみにしていた。出来上がった作品は私の想像を超えて優れたものだった。


「さっきの曲の名前を教えて。この絵の名前にしたいんだ」と洋平君は言った。洋平君は私を喜ばせるのが上手だった。


「考えてなかったわ。うーん、『共鳴』とかってどう?」


「良いネーミングだと思うよ。曲名にも絵の題名にも合っていると思う」


「洋平君の絵は今度も私のイメージとピッタリだもんね。むしろここの色遣いなんて私のイメージを越えて美しく感じる」


「そう言ってもらえると嬉しいよ。結衣に褒めてもらえると自信になる」


「私、洋平の絵がとても好きだよ。それから誰よりも洋平の絵を理解することができると思う」


「唯一の理解者だね」


 洋平君はいたずらっぽく笑った。


「うん」


 私が頷くと洋平君はとても幸せそうだった。

 私は洋平君の幸せがずっと続けばいいと思った。東京に行くことなく、作品を発表せず、二人で絵を創るのだ。言うまでもなく、それは私の幸せでもあった。


「俺、結衣のことが好きだよ」


 洋平君は私に言った。唐突なことで私は少し驚いた。


「これを愛と呼んでも誰にも怒られないくらいに好きだ。東京にも行かないで、本当はずっと結衣と一緒にいたい。だから、俺の恋人になってくれないか?そして、しかるべき時が来たら結婚しよう。そうしたらずっと一緒にいられる」


 洋平君は緊張して、早口になりながら言った。その言葉に嘘は一欠片もなかった。正直なところ私はとても嬉しかった。でも違和感があった。私は今まで自己として、あるいは自己と同格なものとして互いを好きでいるのだと思っていた。しかし、洋平君の思いはどうやら、私を他者として好きなのだということらしかった。


『私は洋平君のアイデンティティではないのだろうか?私は洋平君という存在がいるから私であると言えるのに?』


『恋人と言った関係性をも超越した存在であると思っていたのに』


『私にとって洋平君は私なのに』


 まとまらない思考を繰り返していくうちに、一つの意地の悪い疑問が頭に浮かんだ。


『洋平君はもう一人の自分とも言うべき私を抱こうとしているの?』


 私はもう一度その疑問を頭の中で思い浮かべた。


『洋平君はもう一人の自分とも言うべき私を抱こうとしているの?』


 すると洋平君の言葉の一つが私の頭の中に流れた。それは古いレコードが繰り返し同じ箇所ばかりを流すように、何度も流れ、私の頭を満たした。


『自慰くらいするよ。俺だって男なんだし』


 そう洋平君も男だ。当然自慰くらいするだろう。私だって人並みに興味を持っているのと同じで、それは普通のことだ。理解できる。でも、

『その興味の対象に私がなるなんて考えもしなかった』


 洋平君が求めるように、私が洋平君を愛することはできないのだと思った。他者として洋平君を愛することなんて私には考えられなかった。


『結衣は僕の前からいなくならないでね』


 この言葉だって私を大切な「他者」だと考えているから出てきた言葉じゃないか。

 

 私が洋平君と一心同体ならば、洋平君の前からいなくなるはずがないのだ。


「……ごめんなさい私には洋平が望むように洋平を愛することができない、と思う」


 洋平君は驚いていた。きっと私に受け入れられないとは思っていなかったのだろう。


「私は洋平を愛しているけれど、それは洋平が望むものとは違う……」


 私は慎重に言葉を選び、必死に自分の思いを伝えようとした。それでも私は深く混乱してしまっていた。


「鏡に映った自分を見ても何も感じないみたいに、あなたを他者として見ることはできないし、愛することができない」

「……」


 洋平君は何も言わなかった。きっと言葉にできなかったのだろう。代わりに私の体をゆっくりと抱きしめた。


「……」


「これでも何も感じないの?」


「……分からない」


 洋平君は私にキスをした。

 優しいキスでその感触を鮮明に感じられた。それでも、そのキスが気持ちいいのか、それとも離れてしまいのかさえも分からなかった。上唇と下唇がくっついたように無意味に安定した不思議な感触だった。


「……」


「……分からないよ」


「……」


「……ごめんなさい」


 私は泣いた。


「……」


 洋平君は狼狽していた。


「ごめんなさい……」


 私は激しく泣いた。


「……」


 洋平君はどうしようもなく狼狽していた。もしかしたら洋平君も泣いていたのかもしれない。

 私が激しく泣いているのだから。




 洋平君は二十歳の時にモデルの人と結婚した。

 私はどういうわけだか、そのモデルの人を好きになれなかった。嫉妬していたのかもしれない。そうだとしたら、ひどく滑稽だ。私が洋平君を拒み、その人が彼を受け入れた、ただそれだけなのだから。


 その頃には、三井洋平の名は画壇で知らない者はいないほど、揺るぎのないものになっていた。誰もが彼をミステリアスな魅力を持つ、孤高の天才と評した。


 洋平君の作品としては異端なほど写実的で、結婚したモデルの人の裸体をモチーフとした絵を彼は発表し、その数か月後に彼はモデルの人と離婚した。


 マスコミはセンセーショナルにこのことを報道し、ドメスティックバイオレンスや名誉毀損にあたると彼を非難する人も現れた。それでも何枚かの別の女性の裸体をモチーフにした絵を彼は短い期間に続けて発表した。


「三井洋平は天才故に狂ってしまった」と誰かが言った。


 私は洋平くんの深い苦しみ、葛藤、恐怖を感じることができた。その度に、私も同じように苦しみ、葛藤し、恐怖した。

 洋平君が幸せになって欲しいと心から思った。私は私なりの愛し方で洋平君を愛し続けた。私が愛し続ければ洋平君はきっとこの苦しみに耐えることができるだろうと思った。


 すると時々、本当に時々、自分の笑い声がダブって聞こえることがある。


 そういう時、私はとても安心して満ち足りた気分になる。洋平君の笑い声が聞こえているみたい、と。


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