第3話 木こり

木々の葉が密に茂り合い、薄暗い森の中を涼しい風が通り抜けていく。スライムの街の外れにあるこの森は、都市部とはまるで異なる空気に満ちていた。舗装された清潔な街路も、無菌的に処理されたスライムの清掃もここにはない。ただ静けさと、鳥の鳴き声と、わずかに甘い腐臭の残り香が漂っている。


ヤナは斧を肩に担ぎ、足元の草を踏みしめて進んだ。今朝もいつものように木を伐り出しに来た。朝の光はすでに高く、木漏れ日が斑に地面を照らしている。あたりには、街の清掃スライムではなく、野生のスライムたちが粘り気のある身体を蠢かせていたが、彼らは木こりの仕事には興味を示さない。ただ時折、光に透けて膨らむそのゼリー状の体が、不気味な艶めきを見せるのだった。


「おはよう、ヤナさん」


リーザがやってきた。今日も柔らかく微笑んでいる。薄く透き通るような金髪に、無表情になりすぎないよう丁寧に調整された微笑み。白いワンピースが風に揺れている。


「おはよう、リーザ」


ヤナは自然に微笑み返した。その日常のやりとりに、これといって不自然さはなかった。だが、ヤナは知っている。リーザが人間ではないことを。彼女はスライムだ。人間に擬態した、異質な存在。だが、日々の穏やかな生活の中で、その事実は静かに、どこか遠くに置き去りにされていた。


「今日も斧の音がよく響いてたよ。調子いいみたいだね」


「まあな。これくらいが一番気持ちいいんだ」


二人は並んで歩きながら、伐り倒された木を積んだ荷車へ向かった。森の中で、二人きり。だが恐怖はなかった。リーザは穏やかだ。むしろヤナにとって、彼女とのこの静かな時間は、日々のわずかな癒しにすらなっていた。


だが──異質さは、ふとした拍子に漏れ出す。


「昨日の夜……また一体、来てたよ」


リーザがぽつりと呟いた。ヤナは軽く息を吐く。


「ああ、迷い込んできたんだな」


「うん。街の外れは清掃が甘いもの。逃げようとする人も来るし……」


その「人」が誰なのか、詳しく問う必要はなかった。薬物に溺れた末の逃亡者か。教会の目を逃れて森に逃げ込んできた人間か。この街では珍しい話ではない。誰にも看取られず、この森で事切れる者は時折現れる。そして、彼らの末路は──スライムたちの餌となる。


だが、リーザは違う。彼女は人間のように振る舞い、人間の言葉を話し、人間の文化を好む。だが、彼女が生きるために必要なのは、やはり「人間」だった。


「処理は……済んだのか?」


「ええ。今朝のうちに」


リーザは相変わらず柔らかく微笑む。その表情の裏にある行為を、ヤナは思い描く。粘膜のような仮面を剥ぎ取り、白く伸びる触手が死体の皮膚を破り、臓腑を絡め取り、骨を内側から砕きながら吸収していく。その捕食の残酷さを、ヤナは何度も想像してきた。だが、現場を目にしたことは一度もない。リーザは必ず「処理が済んだ」とだけ言う。そこにあるのは、どこまでも淡々とした日常の営みだった。


「ヤナさんは……気にならないの?」


ふいに、リーザが立ち止まり、問いかけてきた。


「何がだ?」


「わたしが……人間じゃないこと。こうして、人を食べること」


ヤナはしばらく考え込むように空を仰いだ。木漏れ日が揺れていた。


「最初は驚いたさ。けど、もう随分長い付き合いだろ」


リーザは少し首を傾げる。その仕草は可愛らしいが──どこか、計算されているようでもあった。


「人間らしく生きたいの。こうして話して、森で暮らして、料理して、笑って……。でも、それには、どうしても……」


言葉の先は濁される。食料。捕食。死体──言葉にすれば、その穏やかさは崩れてしまう。


ヤナはゆっくり頷いた。


「お前は、努力してると思うよ。少なくとも、俺はお前のこういう暮らし、嫌いじゃない」


リーザの目が、わずかに潤んだように見えた。人間の涙腺の仕組みも、彼女は真似しているのかもしれない。


「見た目だけじゃ、駄目なのよね。言葉を喋れても、ごはんを一緒に食べても、夢を語っても……やっぱり、芯が違うの。だから、時々……思うの。もっと、人間を知らなきゃ、って」


「……そりゃ、お前はもう、十分すぎるくらい人間だと思うけどな」


「そう? わたし、たぶん、ただの袋よ。綺麗に形作って、温かくして、喋って笑って、でも中は空っぽで、ただ『欲しいもの』を詰め込んでるだけ」


ヤナは黙って頷いた。返す言葉はなかった。


穏やかな空気が、しばらく森に満ちていた。だがその裏側には、確かに異常な日常が息づいている。誰にも知られず死体が消えていく森。スライムに擬態した人間。人間であることに憧れるスライム。すべてが、薄い膜一枚で日常の表層を保っているにすぎない。


その夜、ヤナは夜中に目を覚ました。


窓の外、森の奥で微かなざわめきがあった。月明かりが、リーザの白いワンピースを照らしている。彼女はすでに森の奥へ向かって歩いていた。無言で。無表情で。


ヤナはそっと跡をつけた。


木々の影の奥、倒れた人影があった。瘦せ細った、若い男の死体。恐らくまた逃亡者だろう。リーザはぬるりと足元に溶け落ち、粘性の高い液体へと形を変え始めた。無音のまま、その身体がゆっくりと死体を包み込んでいく。


白濁した粘液が、口腔から、眼窩から、鼻腔から侵入する。皮膚が膨れ、内側から破裂するように裂け、臓器が音もなく吸収される。骨が、咀嚼音のような鈍い音を立てて内部で砕かれていく。やがて死体は原型を留めなくなり、ただ重層的な粘液の塊だけが、ぬるりと揺れていた。


しばらくしてリーザはまた人間の姿に戻り、服を整えた。ヤナの視線には気づいていない。まるで何事もなかったかのように、彼女は微笑んだ。


「……処理は終わったよ」


リーザが呟く。いつもと同じ調子の、同じ言葉だった。


ヤナはそっとその場を離れた。吐き気が込み上げそうになるのを、なんとか抑えながら。


翌朝、リーザは何もなかったように朝食を用意していた。パンとスープ。森で摘んだ果実のジャム。湯気の立つ湯。


「おはよう、ヤナさん。朝食できたよ」


「……ああ」


木こりは静かに席についた。スライムは穏やかに微笑んでいる。その笑顔を見ていると、あの夜の光景は夢だったのではないかという錯覚すら芽生える。


だが、違う。リーザは人間であろうとするが、人間ではない。そしてヤナ自身も──人間であるがゆえに、彼女の行いを見逃し続けている。どちらがより「人間らしい」のか。それはまだ、誰にもわからない。


「今日はどの木を伐ろうかな?」


リーザが楽しそうに尋ねた。ヤナはただ一言、静かに答えた。


「いつも通りでいいさ」


朝の光が、まるで何事もなかったかのように森を照らしていた。

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