未登録感情-Echo

晴久

故郷-ふるさと-編【完結済】

プロローグ:校則違反

誰もいない朝の教室で——


俺は部活で怪我をしたを連れ、窓際の席に座らせた。

膝にできた血の跡を拭きながら、つい取り調べのような口調になる。


「誰かにやられたのか?」


窓の外からは、全校集会のざわめきが絶え間なく流れ込んでくる。

ゆっくり答えを待ちたいのに、それが俺をあせらせる。


「しんちゃん、部活で転ぶのは普通の事だよ? この傷だってたいしたことないよ」


その声を聞きながら、俺は膝の傷に目を落とし、ひざまずいた。

指先でそっと血を拭ってから、顔を寄せる。 洗いたての傷口に、息を吹きかけた。


「……小学校の頃と治療が一緒なんだけど」 いのりの笑い声は、かすれていた。



「……しみない? 消毒だから動かないで」 俺は息を止め、彼女を見上げた。


全校集会のざわめきが、ふいに途絶え、その直後、教室に風が流れ込んだ。

カーテンが揺れ、白布がぱたんといのりの肩に触れる。


その風に乗って、校長のいつもの“訓話”が流れてきた。


『──みなさん、昨日のニュースを見ましたか?またひとり、エコーが暴走し、家族を傷つけました』


いのりは、校長の声が届く窓の外を見ている。


その視線の奥にあるのは、俺も忘れられない記憶。

幼い日の海岸で、幼馴染が壊れたあの出来事だろう。


『このような悲劇を繰り返さないために、我が学園は存在しています』


校長の声は続く。

『……それでも人は、努力を信じたがりますよね。ですが現実は違う。感情も才能も思考も、“機能”として後付けできる時代なのです』


俺たちの首筋には機能拡張用の“ポート”が埋め込まれている。

だが、便利な機能も、使い方を間違えば処理が破綻し、脳が壊れる。


校長が言うのは、暴走――感情と深く結びついたそれを、国が何よりも恐れているという事実だった。


「……集会、サボっちゃったね」いのりはそう言って、どこか楽しそうに笑った。


俺はもう一度、膝に強めに息を吹きかけた。

血の跡が薄く残る傷に、今度は治療パッチを貼る。


いのりの指先が、ふいに俺の髪をかすめた。


「……いのり、校長の話の意味わかった?感情は危険――想いすぎると壊れるってことだよ」

目が合ったまま、いのりは動かない。

風が一度だけ吹き込み、カーテンの端が二人の肩をまとめて撫でていく。


俺はゆっくりと背筋を伸ばした。

膝から彼女の顔までの距離が、遠く感じた。


この感情が、国の恐れる「暴走」なのか、それとも自身の「恋愛感情」なのか、俺には判別がつかなかった。


迷いを捨て、その距離を詰めていく。


何かに脳を操られているのだろうか?その熱に突き動かされ、俺は唇を重ねた。



俺たちが通うのは「心和学園しんわがくえん」という高等学園。

都市の中心――第三区に位置している。


この国――東亜帝国とうあていこくで生きる人間は、もうずっと前から二つに分けられている。

首筋のポートを通して機能を追加し、自分で制御できる側は“通常”。

感情の制御がきかなくなり、処理が破綻して脳が壊れた者たちは、“エコー”と呼ばれている。


さっきの校長の訓話が、本当に言いたかったことは単純だ。

壊れずに大人になり、この戦時下せんじかにある東亜帝国の駒として働け、ということだ。


遠く、体育館の方で集会が終わったらしいざわめきが聞こえてきた。


「しんちゃん、クラスに戻って?」いのりが、困ったように言う。


「……わかってる。また帰りは迎えに行くよ」 いのりの頭を軽く撫でると、彼女は子どもっぽく舌を出した。


俺は廊下でその仕草を思い出して、少し笑った。


俺、綾木 心弦あやきしんげんは、高等部二年で、機能を追加・制御できる“通常”側の人間だ。



戦争はどこか遠くの出来事で、俺と妹――“いのり”の時間は変わらず続くと思っていた。


だが、その平穏が終わりを告げるのは、たった二十四時間後のことだった。

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