12話 僕はウインナーが大好きでした

 カタン、と小さな音がして、ウーアは目を覚ました。


 部屋には、朝の淡い光が差し込んでいる。窓辺のガラスは白く曇り、夜の名残をほんのりととどめていた。

 卓には湯気の立つカップ。その向こうに、すでに起きていたアルヴィーの姿がある。


「おはようございます……」


「おはよう。寝相、思ったよりおとなしかったな」


「えっ……暴れる前提……?」


「いや、寝言が“美人なお姉さんに僕のぶっとい杭さしたい”だったからな。ちょっと戦々恐々せんせんきょうきょうとしてな」


「……うわあ、聞かなかったことにしてください…」


 顔を覆って寝台にうずくまり、毛布の端をくるくると頭に巻きつけた。


「今の君、ヴルストみたいになってるぞ」


「ここでウインナーは下ネタですか? そっとしといてください……」


 アルヴィーが小さく笑い、卓の隅に置かれた袋を指差す。


「朝食、イーリス君が持ってきてくれた。パンとスープ。たぶん、彼女が作ったんだろうな」


「おお……優しい味がしそう。見た目はちょっとアレですけど」


 毛布ごと転がるようにして椅子に座り、朝食に手を伸ばした。

 それは素朴だったが、温かく、人の手で用意されたぬくもりがあった。


 スープを一口飲み、ふと窓の外へ目を向ける。


「……風、止みましたね」


「おかげで今日は歩きやすい。街の中をひと通り回って、それから外も見て回る」


「“入り口”を探す感じですか?」


「ああ。ノルベルトの“近い”って言葉が、どこまで正確かは分からないが……」


「アルヴィーさんって、けっこう疑い深いですよね」


「生き延びるにはな」


「でも、根っこは信じやすいタイプですよね」


「は?」


「だって僕のこと、ずっと見捨ててないですし」


「……それは」


 言葉に詰まった彼を見て、僕はいたずらっぽくにやにや笑う。


「なんか照れてます?」


「君な……。ほら、支度しろ。気持ち悪い夢の話をする暇あったら、早く外に出るぞ」


「はいはい、“入りかけてる”世界を阻止しに行きましょうか」




 ---





「あれ? 朝はけっこう人が多いですね」


「観光地だったからな。“神の残響”が聞こえる前に移住してきた者も多いんだろう」


 レゾナ街の朝は、昨日の夕方とは打って変わってにぎやかだった。

 市場の喧騒、焼きたてパンの匂い、川沿いを走る子どもたちの笑い声──それらは、どこにでもある穏やかな町の風景だった。


 石畳を並んで歩きながら、ウーアは周囲を見渡す。

 小さなパン屋には朝から人が並び、どの顔にもどこか張りつめたものはない。


「……なんだか、本当に“普通”の街ですね。昨日の夜が嘘みたい」


「ああ。だからこそ、違和感が際立つ」


「……?」


 ウーアが首を傾げた、そのとき──


「ウーア! アルヴィーさん!」


 前方の花屋の角から、元気な声が飛んできた。

 見ると、果物を詰めた籠を抱えたイーリスが、陽に透けた髪を揺らしながら手を振っている。


 彼女は駆け寄ってくると、息を弾ませながらにこりと笑った。


「デートしよ!」


「……デート?」


 不意を突かれたウーアが目を瞬かせ、アルヴィーは半歩遅れて眉をひそめた。


「……なぜ私も入ってるんだ」


「うん! こっち! 二人に、レゾナのいいところを見せてあげる!」


 そう言って、イーリスは軽やかな足取りで石畳の通りを進んでいく。ウーアとアルヴィーは顔を見合わせ、あとに続いた。


「まずは……あそこのパン屋さん。毎朝、ここの焼きたてを買いに来る人で列ができるの。わたしのおすすめは、“林檎の花”っていうパイ。名前も可愛いでしょ?」


 イーリスが指差した店先では、小柄な老婦人が笑顔で客に紙袋を手渡していた。バターと果物の甘い香りが、通りいっぱいに広がっている。


「それから、あの川沿いのベンチ。春になると、ピンクの花が咲く木があって──恋人たちがよく座ってるの。あと、あそこの角を曲がると、教会の跡地があるの。昔は鐘の音が、遠くまで響いていたんだって」


「思い出話ばかりだな」とアルヴィーが苦笑する。


 イーリスは照れくさそうに笑い、肩をすくめた。


「だって、好きなんだもん。ここ」


 ふと足を止めて、胸元にそっと手を当てる。


「よくわからないものに全部壊されたくない。だから、守りたいの。ちゃんと、“生きてる”この街を……」


 その真っ直ぐな視線に、ウーアはしばらく言葉を返せなかった。


 漂ってきたパイの香りを吸い込みながら、彼はようやく口を開いた。


「……うん。僕、この街、好きだよ」


 イーリスは嬉しそうに目を細め、ほっとしたように微笑んだ。


「イーリス! お父さんが呼んでたよー!」


 遠くから飛んできた声に、イーリスが「あっ!」と声を上げた。


「荷物運びの手伝い、すっかり忘れてた!」


 バタバタと駆け出しながら、二人に手を振る。


「バイバイ! またあとでね!」


 残された二人は、どこか名残惜しげにその背中を見送った。


「……いい街ですね」


「ああ。静かだけど、強い」


 だが、僕はときおり、“音の切れ目”のような違和感を覚える。喧騒が遠のく一瞬。誰も気づかない、静寂の継ぎ目。



「アルヴィーさん。とりあえず、聞き込みから始めませんか? この街の状況が気になります」


「ああ。人の目で追えることは多い」


「──あのお姉さんにしましょう!」


 ウーアがすかさず指差したのは、路地に腰かけてパンを頬張る、快活そうな若い女性だった。


 アルヴィーは無言でこめかみに手をやる。


「……君の趣味なのか、考えてるのか…」


「考えてるってことにしといてください。……すみませーん、ちょっといいですか?」


 女性は驚いたようにこちらを見たが、すぐに笑みを浮かべて応じた。


「ん? 何かご用?」


「えっと、僕たち教会の者でして……この街のこと、少し聞かせていただけたらなって」


「神父さん? めずらしいねぇ。ま、あたしで良ければ何でも聞いて」


 アルヴィーが横から軽く頭を下げ、説明する。


「ありがとうございます。町の歴史や、“神の残響”についてお伺いしたいのです」


「ん、それね……」


 女性はパンをもう一口かじってから、視線をふっと空に向けた。


「……五年前かな。最初に“音”が聞こえたの。はっきり“神の残響”って呼ばれはじめたのは、もっと後だけど」


「五年前……」


「不思議なんだよね。音が聞こえるようになったのって、ある人がいなくなってからなの」


「ある人?」


「──この街に、“神の代弁者アポステル”がいたのよ」


「……神の代弁者アポステル、が?」


「うん。そこの宿屋──“アルナシェル”の女将さんだった人」


「え……」


 ウーアの呼吸が止まった。

 アルヴィーの指が、わずかに震える。


「五年前、突然姿を消したの。家族を残して、ね。詳しいことは誰にもわからないけど……」


 女性の声は明るさを保っていたが、その奥に微かな寂しさがにじんでいた。

 通りすがりの風が、スカートの裾をふわりと揺らす。


「その人がいなくなってから、徐々に音が聞こえるようになった。夜になると町の一部だけが妙に静かになったり、木々が風もないのに揺れたり……。そういうのが、増えてきたんだよね」


「つまり、彼女がいた頃には、“神の残響”はなかった……?」


「うん。むしろ、彼女が“いたからこそ”起きなかったんじゃないかって、そう噂する人もいるよ」


 ウーアは、自分の内側で小さな震えが生まれているのを感じた。

 懐かしいような──けれど知らない誰かの記憶が、うっすらと胸の奥でささやいている。


「……彼女の家族は、そのことを知っているんですか?」


「さぁ……聞いたことないな。でも、その宿の娘さんがね、最近ときどき、何かを感じてるような顔してるって…。母親と同じような……」


 アルヴィーが小さくうなずいた。


「ご協力、感謝します。……最後に、その女将さんの名前を聞いても?」


 女性は一瞬だけためらったが、すぐに微笑んだ。


「──“リエラ”さん。優しくて、でも凛としてる人だった」


 その名が、空気の粒子に溶けていくように響いた。

 ウーアは、静かに目を閉じた。


 リエラ。

 知らない名前なのに、胸の奥が、すこしだけあたたかくなる。


「……ありがとうございます。すごく、大事なことを聞けた気がします」


「そう? なら良かった」


 ウーアは深く頭を下げた。アルヴィーも続いて礼を言い、ふたりは市場通りを静かに離れた。


「まさかイーリスのお母さんが…」


「……神の代弁者アポステルの件も気になるが…“入り口”を探すのが先だな。早く手がかりを見つけて帰ろう」


 僕とアルヴィーは町の外へと歩き、林を抜け、小高い丘を越える。

 古井戸、朽ちた祠、名もない石碑──“入り口”に通じる兆しを求めて隅々まで探したが、どこにも手がかりはなかった。


 あまりにも、何も起こらなさすぎる。


 それが、逆におかしいとアルヴィーは思った。


「……変だな。何かに、遮られている」


「確かに。“気配”が平らすぎます。まるで、無風の湖。人の営みがある街なら、もっと……揺れてるはずなのに」


「……まさか、これも」


「日も落ちます。宿へ戻りましょう。……イーリスに、お母さんのことも聞きたいですし」


 西の空が茜に染まり、長い影が大地を這う。

 ふたりは静かに歩を戻し、“アルナシェル”の軋む扉を開いた。





 ──鉄の匂い。

 ──空気の歪み。


「……イーリス?」


 宿のホール、その奥。

 柱にもたれかかるように座り込む彼女の胸を、異様に太い杭が貫いていた。


「イーリス……ッ!」


 思考よりも先に身体が動いた。床を蹴り、彼女の元へ駆け寄る。アルヴィーもすぐに追いついてくる。

 杭は、どこか見覚えのある――神具に似た質感を持っていた。いや、これは……。


「ノルベルト……?」


 それに刻まれた印は、見間違えようがなかった。“正しき形の名”を刻む、あの男の証。


 僕はイーリスの肩を抱き起こす。

 彼女の体温が腕に触れた瞬間、胸の奥で冷たいものが弾けた。


「イーリス……! なぜ……どうしてこんなことに……!」


 彼女はわずかに眉をしかめ、目を細めて僕を見た。

 そして、微かに笑った。


「……おかえり、ウーア……」


「何があったんだ? ノルベルトがやったのか? 君は──どうして、こんな……」


「わかん、ない……気がついたら、いて……“魔女”だって。そんな…知らないのに……」


「……くそっ……わかった、止血しないと!」


「……だめ。心臓が……血が、止まらないの。……これじゃ、もう…」


 血の気が引いていく。止血の意味がないと、彼女自身が理解している。

 それでも諦めきれず、彼女の身体を抱き締めたそのとき――


 イーリスの瞳孔が、燃えるように揺れた。


「……空気が、歪んでる。ウーア君、下がれ。彼女の“力”が発動する」


 アルヴィーの警告が耳に届く。


「でも、イーリスは──!」


「無自覚でも、神の代弁者アポステル奇跡リヒトが暴走すれば、この街ごと呑まれるぞ!」


 その瞬間、世界が軋む音がした。


「うっ──!」


 床が波打つ。天井が溶け落ちる。壁が崩れ、空間そのものが裂けていく。

 風景が一枚の絵のように剥がれ、めくれ、裏返る。

 まるで“街”そのものが、現実ではなかったと告げるように。


「……ここは……壊れた家……? 森の中に、なぜ……」


「やはり……この街は、幻だったのか……!」


 彼女の中から、何かが溢れ出していた。

 形もなく、言葉でも説明できないもの。まるで封じられていた記憶が、現実を上書きするように。


「ちが、う……こんな、はずじゃ……なんにも、消えてほしくなかったのに……!」


 イーリスの声が震える。苦悩と、願いと、拒絶の入り混じった声だった。


 アルヴィーは崩れかけた家を一瞥し、低く呟く。


「これは……かつてあった街の形を、彼女の心が模倣していたのか……」


「イーリス…」


 ——僕は無意識にそっと手を伸ばした。

 優しく、確かめるように彼女の頬に触れる。


「君は……壊したんじゃない。これは、君の心が守ろうとした景色なんだ」


「……守った?」


「うん。誰にも壊されないように。…イーリス。君は、ここで生きていた。

 誰かと笑って、朝を迎えて……日々の小さな幸せを、大切にしてたんだ」


 イーリスの瞳が揺れる。涙がにじみ、ぽつりとこぼれた。


「でも……全部、消えちゃった……!」


「それでも、君がいたことは消えない。

 君が願って、築いたものは──幻になっても、嘘じゃないよ」


 僕は微笑んで、彼女の手を取る。


「その証拠に、ほら。僕たちはここに来た。君を、助けるために」


 彼女の瞳が大きく見開かれ、涙が溢れ落ちた。


「……わたし……わたし……」


 アルヴィーが、静かに一歩前へ出る。


「だが、時間がない。このままでは、力が暴走し、森ごとすべてが消える」


「……」


「ウーア君。君にしか、できない」


 僕はうなずき、彼女の胸に手を当てる。

 鼓動が、微かに、まだそこにある。


 だから、囁いた。


「……僕の、奇跡を──」


 光が、あふれた。 温かい。けれど、それは確かに──心臓の奥深くへ届いていく光だ。


 (…止まれ、時間──いや、違う! 戻れ…返れ!あのときよりも前に!)


 ただ祈る。ただ願う。彼女が、生きてほしいと。


 光は、血に逆らって流れた。杭が消え、周囲の肉が、ゆっくりと編み直されてゆく。

 まるで、傷つく前の身体を探しあてるように──。


(これが……癒し?いや、違う。これは──過去への干渉だ)


 痛みさえも、なかったことにするような奇跡。ただの“修復”ではない。もっと根源的な——


 その瞬間、ウーアは知った。

 自分が今、時間の奇跡リヒトを受け入れているということを。


(──このまま時間を巻き戻せば……)


 そう思った瞬間だった。


 廊下の奥、静寂のなかに響く規則正しい靴音。

 僕は振り返る。闇の中から、現れたその男の姿を、見誤ることはなかった。


「──来ていましたか。ウーアくん」


 ノルベルト。

 その手には、第二の杭が握られていた。


「やはり君が、真の“選ばれしアポステル”なのですね」

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