9話 僕、ホラー展開は苦手なんですけど…
「……あの……す、すみません……」
忘却の森を抜けた先に、少女がいた。
年は、僕の少し上くらいだろうか。
長い淡緑の髪が風に揺れ、水面のような瞳が怯えたように揺れていた。
「こんなところに人が? …大丈夫ですか?」
声をかけると、少女は肩をびくりと震わせ、目に涙を浮かべながら小さく頭を下げた。
「……は、はい。ご、ごめんなさい……わ、私、街の人混みが苦手で……ちょっと……それで、森に……」
「そっか、分かる。僕も人混みはあんまり得意じゃないんです。空気は薄くなるし、熱気でIQが蒸発するし」
「I、IQ……?」
「……うん、気にしなくていいですよ。僕はウーア、彼はアルヴィーさん。…君の名前は?」
「イーリス……です。あの、す、すみません……でも……あそこ、行っちゃダメなとこで……」
「“あそこ”って、“忘却の森の遺跡”のことか?」
アルヴィーが低い声で尋ねると、イーリスは小さく頷いた。
「昔……怖い夢を見たの。森の奥の神殿で……誰かが叫んでて……すごく、苦しくて……」
「つまりトラウマスポットってわけですか。正直、行かなくていいなら僕も避けたかったです。ベッドでポテチ食って寝てたいし。……ていうかポテチって何?」
「……ポテチって何だ?」
二人の視線が刺さるように鋭くなる。
「い、今の忘れて! たぶん記憶の副作用です!」
イーリスは不安そうに僕の顔を見上げた。
「……あの、もしかして……教会の方、なの?」
「うん、そんなところ。僕ら、レゾナ街に向かってるんだ。“神の残響”って噂、聞いたことありますか?」
すると、イーリスの顔が一瞬、青ざめた。
「……それ……うちの宿の近く、なの。……最近、夜になると、誰もいないはずの路地から……音がして……」
「それって、歌?」
「……うん。人の声みたいな、風の音みたいな……。うまく言えないけど……怖くて……」
「……宿って、君の家?」
「はい……“アルナシェル”って言います。父が経営してて……でも最近、お客さんが減ってて……あの音のせいだって、みんな噂してて……」
「なるほど…。それ、確かめに行く理由としては十分、ですよね?」
アルヴィーが小さくうなずいた。
「よし、じゃあ決まりです。イーリス、君の案内でレゾナ街まで連れてってもらえる?」
「えっ、わ、私が……?」
「道は分かるかな?安心して、僕は
「え!あのアポステル…!……わかった。私、案内する。……あの歌が、何なのか……一緒に、知りたい」
そうして僕らは、イーリスに導かれながら――
まだ見ぬ“神の残響”と、“鍵”の気配が漂う街――レゾナへと、足を踏み入れることになった。
レゾナ街は、丘の上に広がる小さな商業街だった。
灰色の石造りの建物が並び、路地は網目のように入り組んでいる。かつては旅人や巡礼者が絶えなかったと聞くが、今はどこか寂れていて、石畳に落ちる日差しも、どこか寒々しかった。
「……ひと、少ないな」
僕がそう呟くと、イーリスが不安げに頷いた。
「……うん。以前はもっと賑やかだったの。でも“あの音”が噂され始めてから……夜になると、誰も外に出たがらなくて……」
「昼間は静か、夜は異音。実に不穏な街だな」
アルヴィーは背後に手を組みながら街並みを見回している。目はいつになく警戒心を帯びていた。
そのとき、風が通り抜けた。
カラカラと音を立てて、枯葉が舞い上がる。だが、それは木々の葉ではなかった。細い蔓草――壁に絡まっていたはずのそれが、まるでこちらに向かって伸びてきたように、ひととき揺れた。
「……あ」
ふと、イーリスの足元に一輪の小さな花が咲いていた。さっきまでなかったはずの場所に、淡い紫の、見たこともない野草。
「……珍しいですね。ここ、舗装されてるのに」
僕がそう言うと、イーリスは小さく首を傾げた。
「……たまに、あるの。母が“街が呼吸してる”って、昔……」
「……呼吸、ね」
アルヴィーが意味ありげに呟いたが、それ以上は言わなかった。
やがて、宿が見えてきた。
建物の外壁には、風に擦れた看板がかかっている。
《アルナシェル》
――旅人の眠る、小さな灯火の家――
イーリスが扉を押すと、カラン、と鈴が鳴った。
「お父さん、ただいま! ……あ、あと、お客さん連れてきたの!」
「えっ、お客!? ……ま、まさか借金取り!?」
「ちがうよ! 旅の人!」
帳場の奥から出てきたのは、優しそうだけど明らかに疲れてる中年の男性。ぱっと見は“お父さん”だけど、目の下のクマは熟成された絶望の味。
「……旅のお方、神父様、ですか。娘が世話んなりました。こんな時期にようこそ……こんな、“不安な街”へ」
「不安っていうか、わりとホラー寄りですね…」
「……ええ。“あれ”が起きるようになってから……夜ごと、街のどこかで歌のような声が聞こえる。誰もいないはずの空間から。まるで、“何か”が街の隙間を這いまわっているような……」
イーリスが不安そうに僕の袖をぎゅっと掴んだ。
「……今日も、聞こえるかもしれやせん。……それでも、泊まっていきますか?」
「もちろん。ここまで来て怖じ気づいて帰ったら、伝説の腰抜けって書かれますから」
「石碑に刻まれるレベルだな」
「石碑!? やめて!? 記録に残すのやめて!?アルヴィーさんのボケにツッコんだせいで、もうお腹ペコペコですよ…」
「あっ、それなら今日のメニュー、これだよ?」
宿の中は小さいが清潔で、どこか懐かしい空気が流れていた。
カウンターには手書きのメニューが置いてあり、そこにはこう書かれていた。
■本日の夕食
・パンとスープ
・季節の野菜のグリル
・謎の果実のコンポート(※無害です)
「最後の怖いんだけど!?」
「……私、これ好きなの。ちょっと舌がしびれるけど」
「しびれるんかい!」
僕のツッコミに、イーリスはきょとんとしたあと、くすっと笑った。
「……ふふ。なんだか……ちょっとだけ、怖くなくなったかも」
彼女の笑顔は、淡い月の光みたいに、柔らかだった。
──でもその夜、僕らは気づくことになる。
レゾナの夜が、“優しいまま”終わるとは限らないことを。
夜が更け、宿の灯りがひとつ、またひとつと消えていく。
イーリスの部屋は二階の角部屋。僕とアルヴィーも隣の部屋に案内され、それぞれ寝台の上で横になった。けれど、眠りはなかなか訪れなかった。
「……ねぇ、アルヴィーさん。もし“神の残響”ってやつが幽霊じゃなくて、ほんとの神様だったらどうしますか?」
「それならそれで、殴って、因果関係を調べる」
「殴るの優先なんですね……。アルヴィーさんって、実は筋肉ムキムキで脳も筋肉で構成されてたりします?」
「脳は筋肉で出来てないが…?」
その時だった。
──ひゅうぅぅ……。
かすかな、風の音のような……それでいて、耳元で誰かが囁いたような、妙な気配が漂った。
「……今の、聞こえましたか?」
「……ああ。風じゃないな」
二人同時にベッドから起き上がる。
そっと廊下に出て、階段を下りる。宿の一階は静まり返っていた。だが──その奥、厨房のほうから。
──ぽつ、ぽつ、ぽつ……。
水滴の音。
「……漏れてる?」
「いや……音の位置が、少しずつ動いてる」
「なにそれ怖っ!? 音って歩くの!?」
警戒を高めつつ、音のする方へ近づいていくと──
がしゃん。
棚の上に置かれていた壺が、ひとりでに落ちて割れた。
「……イーリス君が言ってた、“誰もいない路地の声”と同じ現象か?」
そのとき、不意に厨房の戸棚が、音もなく開いた。
中から、何かが、顔を覗かせる。
白く、のっぺりとした、仮面のような“顔”。
──その瞬間。
「はわぁぁぁぁっっっ!!!!」
叫び声とともに、背後からイーリスが突撃してきた。
「えっ!?イーリうわぁぁぁ!?!?」
その勢いで僕にぶつかり、二人とも床に転がった。
「まって、イーリス起きてたの!?」
「しっ、白仮面のお化けっ!!この宿にずっと取り憑いてて、お客さんを呪い殺すのっ!二人に近づかないで!」
「君の宿、お化け屋敷だったの!?うわ、しょっぱい!何の粉!?!?」
イーリスが大量の塩を投げつけているのを横目に、アルヴィーが仮面の正体を観察する。
「……これ、乾燥リンゴを詰めてた保存人形だ。中身は空。恐らく、“神の残響”の正体じゃない」
「な、なんでそんな見た目にしたんですか……!?」
「合理的だったんだろう」
「合理性が人の心を殺す時もあるんだよ!!」
僕は、叫び終わったあとにため息をつく。イーリスは震えながら床に座り込んで息を整えていた。
「……でも、音はまだ……終わってない」
──確かに。
歌のような、風のような──今度は、建物の外から、はっきりと“声”が響いた。
「……アルナシェルの裏路地、か」
アルヴィーが窓の外を指差した。灯りの届かない路地裏に、何かの気配があった。目には見えないが、そこに“いる”と直感できる。
「さて……次は、対話か、戦闘か。……あるいはその両方かもな」
「寝るって選択肢は!?」
「却下」
「却下!!?」
思わず叫んだ僕の声が、静まり返った部屋にむなしく響いた。窓の外の気配は、変わらずそこに――じっと、こちらを待っていた。
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