現代小説、臣には荷が重い
まず結論を言うと、私はやはり現代小説に向いていないと感じています。
現代小説というものは、最初から出来上がっているレゴの小さな家のようなものに思えます。その中では自由に調整できるけれど、外枠はあらかじめ決まっているのです。家が味気なくならないように、部屋に花や草を差したり、小物を置いたりするけれど、この家に温もりを与えたり、家らしく見せたりするのは、結局あの二人の小さな人形なのです。
あの二人の人形は本物の人間ではありません。レゴで遊ぶとき、あなたならどうしますか。私は筆を手にとって、彼らの服を描き直したり、シールを貼ったりしましたし、赤い笑顔を描いたこともあります。なぜ真っ赤なペンを使ったのかといえば、その方が笑顔がはっきり見えると思ったからです。レゴの小さな家の中では、ときには組み間違えることもありました。でも「間違えも一つの味だ」と思って、別の家の部品を持ってきて飾ったりもしました。時にはディズニーのお姫様を入れることもありました。
けれど、どれだけ楽しく遊んでも、それはあくまで小さな家であり、その外の構造は変えられません。社会には一定の規則やルールがあって、それは明確なのに、必ずしも皆がそのルールを守るわけではない。そう考えると、やっぱり少し切なくなります。
それに、たぶん私は楽観的な人間ではないのだと思います。私は「誰もが生き延びる(survive)過程を歩んでいる」と感じています。純粋な喜びは存在しないし、純粋な苦しみも存在しない。だから最後にはその苦しみを掘り下げて、喜びを見つける必要があるのです。もちろん、喜びを掘り下げてから苦しみに落ちることもあります。でも私は悲劇は書きたくないのです。
それでもやはり、現代小説は私にとってとても重たく感じます。
なぜなら、苦しみを掘り下げる過程は、自分との対話を繰り返すことだからです。私が書いた『音に、音はない』の音羽にはモデルはいませんが、彼女の臆病、恐怖、不眠、幻想は、すべて私自身の臆病や恐怖、不眠や幻想そのものです。だからこの小説を書き終えても、「猫島」の小説を書いたときのように楽しく、すぐに次を書きたいという気持ちにはならず、むしろ小説を書きたくなくなってしまったのです。
そして、音羽が持つ恐怖のように、私自身も「筆を置いてはいけない、考えることをやめてはいけない、自分の音を失ってはいけない」と思ってしまう。私は勇敢な人間ではないから、一度放棄したら二度と拾い上げられないと分かっている。だからまた新しい恐怖が始まるのです。
でも、希望もあります。音羽が悪を打ち破ったかのように、指導教員を変え、再び発表できたように。それは現実の私も同じようにできたからです。ただ、こうも思うのです。「先生を変えたからといって、何になるのだろう」と。恐怖は小説のようにすぐに消えてはくれません。その環境も、まだ心地よい場所ではありません。けれど音羽がすぐに大学へ進むように、人は過去の苦しい環境を離れることができる。そして離れてしまえば、少し軽くなるのです。以前気にしていたことも、もう気にならなくなるのです。
だから私はずっと言っているのです。「音羽の未来は必ずしも順風満帆ではないけれど、彼女はずっとリセットを繰り返すだろう」と。私もまた、ずっとリセットを繰り返したいと思っています。でもそのたびに、ソフトウェアはすでに更新されている。ハードもソフトも同じではなくなっているのです。
澪というキャラクター、あるいは澪という存在のおかげで、私は小説を書くことの良さを感じることができました。それは幻想があるからです。現実はもっと残酷です。現実には彼を救う高校時代の祖父はいなくて、背負うべきでない借金を背負い、稼いだお金はすべて奪われる。でも希望や幻想があるからこそ、私は現実の彼もきっと幸せに暮らしてほしいと願うのです。だから彼について語るとき、私は「お金や権力を持ってほしい」とは思わず、ただ「自由に、笑顔で生きてほしい」と願っています。
杏というキャラクターについては、私は深く描きませんでした。杏は最初から最後まで、明るい太陽のような存在でした。でも現実の太陽は、長い間働くことを拒み、私のようにずっと勉強を続けたわけでもなく、両親に用意された仕事も嫌がり、最終的には自分が一番嫌いだった教職員になりました。そして自分を抑うつに追い込んでしまいました。それでもダンスはとても上手です。ダンスもまた自分の表現であり、もう一つの声なのです。彼女が不機嫌なとき、私はいつも「踊りに行こう」と勧めてきました。
そう考えると、現実の人間は誰もが精神的な問題を抱えやすいのかもしれません。でも人は生きている限り、精神は身体と同じように一生つき合うものです。だから自分の精神を大事にしなければいけません。臆病でもいいし、倒れてもいい。でも最後には必ず笑うこと。精神が笑えなければ、身体も一緒に崩れて、死へと向かってしまうからです。
この小説の枠組みの中で、私が最も描いたのは「日の出と月」でした。どの月も孤独なヴァイオリン曲になり得るし、どの日の出も希望の交響曲になり得る。
人は毎日、繰り返し自分の太陽を探していくのです。いつでも、暗闇から明け方へ歩いていく。太陽は夜の間も、雲の後ろに隠れているだけなのです。
こんなふうに色々と語ってしまいましたが、結局私は現代小説を書くことが好きではなく、向いていないのだと思います。爽やかで楽しい小説は書けないし、自分で書いていても心がとても疲れてしまうのです。
恋愛についても同じです。私は純愛を期待してはいるけれど、一生という時間はあまりに長く、別れることだって珍しくはないと思っています。でも、たとえ別れがあったとしても、一緒に歩んできた年月は紛れもなく青春なのです。だから私は「愛を期待すること」や「誰かに愛されること」よりも、まず自分をしっかり愛することの方が大切だと思っています。恋愛の前に、誰もがまず「自分自身」なのです。
ここまで書いてきて、私は自分がまるで老人のような心を持っているのだと感じます。けれど本当は違います。私は老人ではないし、彼らのような経験や洞察や知恵を持っているわけでもありません。だから、老いたときの私はもっと現実的になっているかもしれないし、逆にもっと楽観的になっているかもしれない。誰にも分かりません。もしかすると、老いた頃にはすべてを忘れてしまっているかもしれません。
とりあえず、考え、考え、絶えず考え巡らせている。
色々と言いましたが、私は本当に現代小説には向いていないのだと思います。だから、もうこのまま筆を置いてしまうかもしれません(笑)。
最後に、私の唯一の現代小説はこちらです。
https://kakuyomu.jp/works/16818792435869696813/episodes/16818792435886705441
興味があればぜひ読んでみてください。おそらくですが、もう現代ものは書かないと思います。
こんな文章を書いているのも、本質的には天に向かって叫んでいるようなものです。
——「臣、無能なり。もう書かぬ!」
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