第3話 希望は伝わる
初夏の風が吹き抜ける日、「はるや」の前に見慣れぬスーツ姿の男が現れた。
「失礼します。区の都市整備課の者ですが……」
その口調は丁寧だったが、手にした書類がすべてを物語っていた。
「再開発計画に伴い、こちらの建物と、隣接する空き地の撤去をお願いしたく……」
ハルは驚かなかった。ただ、静かにうなずいて書類を受け取った。
「そうですか。ここも、変わっていくのですね」
—
その日の夕方、庭に集まった子どもたちにハルは正直に伝えた。
「このお店と庭が、なくなっちゃうかもしれないんだって」
静まり返った庭に、ミナの声が落ちた。
「……なくなるって、全部?」
「そういうことらしいねぇ。立ち退き、というのだそうだよ」
「……嫌だよ」
リクが叫んだ。
「ここ、俺たちの庭なのに! ハルばあがいたから、俺……変われたのに!」
マサトが地面を拳で叩いた。
「ふざけんなよ! 俺たち、やっと……やっと何か掴めたのに!」
—
誰からともなく、子どもたちは「花の壁」に向かって紙を書き始めた。
ユウトは迷いなくペンを取った。
彼の目はまっすぐに壁を見つめている。
「ハルばあがいたから、生きてこれた」
「ここは俺の居場所だ」
「もう一度、誰かを信じてみようと思えた」
「いつか、自分が子どもを持ったら、ここに連れてきたい」
小さな紙に、大きな思いが次々と書き込まれていく。
「私は、ここで夢を見つけた」
「ハルばあの声で、本を好きになった」
「はじめて『だいじょうぶ』って言ってくれた」
店の壁は、たちまち言葉の花で埋め尽くされた。
—
次の日、何も知らずに店を訪れた主婦がその光景を見て、息をのんだ。
「……こんなに、みんな、思ってたんだ……」
そのまま彼女は町内会に足を運び、次の日には商店街の一角で署名活動が始まった。
「この場所を残してください」
「子どもたちの居場所を、壊さないでください」
「未来を繋ぐ庭を、守ってください」
—
三日後、地元新聞の記者がやってきた。
「“影日向横丁の奇跡”……子どもたちが育てた希望の庭」
記事は予想以上に反響を呼び、SNSにも拡散された。
「日本にも、まだこんな場所がある」
「これはただの駄菓子屋じゃない。希望の発電所だ」
—
一週間後、区役所から再び担当者がやってきた。
「計画を見直すことになりました」
ハルは驚いて目を瞬かせた。
「え?」
「はるやは、地域コミュニティの核として存続。ひなたの庭は、地域交流スペースとして正式に保全されることになりました」
—
その報告があった日、子どもたちは庭に花火のように飛び出した。
「やったああああ!」
「ハルばあああああ!!」
「……残るんだ……残るんだ、俺たちの庭……!」
—
数日後、「ひなたの庭」は正式に町の共有スペースとなり、整備されたベンチや案内板が立てられた。
「影日向横丁子ども花園」と書かれた立て札の裏には、こう刻まれていた。
『ここは、咲けなかった心に、太陽が届いた場所です。
誰かがそばにいてくれたら、人は変われる。
そんな奇跡が、この町にはありました。』
—
ある日の午後。ハルは、庭のタンポポの前に腰を下ろしていた。
そこへ、ユウトがやってきた。
「なあ、ハルばあ。俺、……中学、ちゃんと行ってみようと思う」
「そうかい。うれしいねぇ」
「それで、将来……先生になりたい」
ハルは驚いたように目を見開いた。
「先生?」
「ここみたいなとこ、他にも作れるような大人になりたいんだ」
その言葉に、ハルの目元がふっと緩んだ。
「それは、すてきな夢だねぇ」
—
ミナは絵本作家になる夢を口にするようになった。
リクは脚のことをネタにしてクラスを笑わせることが増えた。
マサトは不登校だった弟を庭に連れてくるようになった。
—
夕暮れ。庭の花々が赤く染まる中、ハルはふと空を見上げる。
「……ありがとう。あんたが咲いてくれたから、みんなも咲いたよ」
彼女の視線の先には、あの日、最初に見つけたあの一輪のタンポポが、静かに風に揺れていた。
—
かつて、絶望と沈黙しかなかった影日向横丁。
そこに咲いたのは、
誰にも気づかれなかった心たちの、たしかな花だった。
『影日向横丁のたんぽぽ』 漣 @mantonyao
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