『影日向横丁のたんぽぽ』

漣 

第1話 咲けない場所でも

影日向横丁——。

その名前の由来は諸説あるが、一説には「日が当たらない場所にも、誰かの影がある」という意味が込められているという。けれども実際のところ、そんな詩的な言葉とは程遠い。

そこは、錆びたシャッターとひび割れたアスファルトの並ぶ、都心からわずかに外れた下町だった。


小さな飲み屋と、潰れかけの商店が軒を連ねるその横丁には、今や観光客の姿もなく、通りを歩く人々の足取りは重く、目線はいつも地面の先に落ちている。


まるでこの町全体が、人生からうつむいているようだった。


その横丁の一角に、ひときわ古びた看板を掲げる小さな駄菓子屋がある。

看板には、かすれた文字で「はるや」と書かれていた。



「……ハルばあ、今日のもやし、二束で百円だった。晩メシに入れとけって」


小さな袋を提げて現れたのは、十二歳の少年、ユウト。制服はしわくちゃで、袖のところに泥の跡がある。言葉はぶっきらぼうで、目はどこか冷めている。


「そうかい。えらいねぇ。お父さんに言われたのかい?」


「いや……俺がやった。アイツ、寝てっから」


「そっか。ほら、飴ちゃんも持っていきな」


ハルはにこりと笑って、梅ジャムの袋をそっとユウトの手に忍ばせた。

彼はそれに小さくうなずくと、すぐに踵を返して駄菓子屋の裏手にまわる。誰とも目を合わせない。


店の隅の縁台には、もう一人の常連がいた。

細くて小さな女の子。ボサボサの髪。制服もランドセルもない。


名前はミナ。小学四年生だが、もう何ヶ月も学校に行っていない。


「ねえ、ハルばあ。今日、あれ、読んで」


彼女が差し出したのは、よれよれの絵本だった。

『ちいさなかえるのぼうけん』。表紙の角が折れている。


ハルは眼鏡をかけ直し、ゆっくりと読み上げる。


「むかしむかし、あるところに、ちいさなかえるがおりました——」


その声は穏やかで、ゆったりと耳に染み込んでくる。

ミナは目を閉じて、静かに聞き入っていた。

家では、誰も絵本を読んでくれない。いや、家にいることすら怖いのだ。



「はるや」に集まる子どもたちは、みな何かしらの事情を抱えていた。

学校に行けない子。家庭に居場所がない子。名前で呼ばれたことのない子。


大人たちは彼らに無関心だった。教師も、近所の人も。

子どもたちは「問題児」とひとくくりにされ、そのまま野放しにされた。


でも、ハルだけは違った。


「今日、何か楽しいことあった?」


「……ない」


「そっか。じゃあ、明日探してみようか」


ハルは、そんなふうに話しかける。無理に聞き出そうとせず、ただ「隣にいる」。


それが、子どもたちにとってどれほど大きな救いだったか、本人たちにもまだ分かっていなかった。



ある日、ハルは荷物を取りに、横丁の外れにある古い倉庫へと足を運んだ。

その帰り道、ふと脇道に逸れた先の空き地に立ち寄った。


そこは、ごみと空き缶が散乱する、誰にも顧みられない場所だった。

風にあおられたビニール袋が電柱に引っかかり、鈍い音を立てて揺れていた。


ハルは立ち止まった。何かに引き寄せられたように、足元を見た。


——そこに、一輪のタンポポが咲いていた。


ひび割れたアスファルトの裂け目。

わずかな土を押しのけて、濃い黄色の花が小さく揺れていた。


「まあ……」


思わずつぶやいたハルは、しゃがみ込んで花を見つめた。

指でそっと触れると、花は微かに首を揺らした。


「よく、こんなところで……」


この町では、花すら生き延びるのが難しい。

けれど、確かにそこに、それは咲いていた。


誰にも気づかれず、踏み潰されもせず。

ただ、ひっそりと、力強く。


ハルの胸の奥に、忘れていた感情が湧き上がってきた。

それは、希望に似たものだった。



翌朝、ハルは「はるや」の壁に、白い紙を一枚貼った。

黒いマジックでこう書かれていた。


「空き地に、タンポポが咲いていました。

コンクリートの隙間から。

この町にも、まだ花が咲く力があるのかもしれません。」


それを見たユウトは、目を細めて言った。


「花? あんなゴミだらけのとこに?」


「そう。わたしも、驚いたよ」


「……そんなとこで咲いたって、意味ねぇだろ」


「そう思うかい?」


「誰も見ねぇし、誰も喜ばねぇし。すぐ誰かに踏まれるだけだ」


「でも、それでも咲いたんだよ。その花は」


ユウトは黙った。何も言わず、ただ壁の紙を見つめていた。



その日の夕方、ハルは子どもたちに紙とペンを差し出した。


「今日あったこと、ここに書いてみない? どんな小さなことでもいいんだよ」


ミナが最初に動いた。


彼女は震える手で、「ハルばあの読む声がすきです」と書いた。

ハルはそれを、壁に貼った。


「すてきな花が、ひとつ咲いたねぇ」


続いて、ユウトもペンを取った。


彼は、しばらく黙ったまま考えていたが、やがて一言、書いた。


「今日、だれにも怒鳴られなかった」


ハルはそれを読み、何も言わず、そっと貼った。


「それは、いい日だったねぇ」



こうして、「はるや」の壁には、子どもたちの言葉が一枚、また一枚と増えていった。


誰にも見せたことのない感情。

誰にも話せなかった夢。

小さな、小さな、芽吹き。


その壁は、やがて「花の壁」と呼ばれるようになる。


コンクリートの隙間に咲いた一輪のタンポポから始まった、小さな革命。


それはまだ、誰の目にもとまらない。


でも確かにそこに、「咲けない場所でも咲く」という物語が始まりつつあった——。

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