第十六章 序曲
八月の強い日差しが、アスファルトを白く焼いていた。
魚留羽依里の部屋では、窓を閉め切っていても、外の蝉の声が、熱気と共に微かに染み込んでくる。彼女は、ベッドの上で、イヤホンを耳に当てていた。そこから流れてくるのは、誰かの作った旋律ではない。ただの、音。アイスランドの火山の麓で録られた風の音。屋久島の森の、苔から滴る水の音。渋谷のスクランブル交差点の、無数の足音。
彼女は、世界の音を、まるで外国語を学ぶように、一つ一つ、確かめるように聴いていた。あの事件の後、彼女の中から、あの恐ろしいほどの『共振』は消え失せていた。それと同時に、彼女を守ってくれていたはずの、絶対的な静寂の『壁』もまた、崩れ落ちていた。
がらんどうになった世界で、彼女は、自らの意思で、世界の音を、もう一度インストールしようとしていたのかもしれない。
ふと、彼女は思い立ったようにイヤホンを外し、アパートを出た。
向かう先は、決まっていた。
旧市営第三温水プール。
以前のように、雨に導かれてではない。真夏の強い日差しの中を、彼女は、自分の足で、一歩一歩、その場所へと歩いていった。
錆びた門扉を抜け、黴と塩素の匂いがする建物に入る。全ては、あの日のままだ。だが、彼女の感じ方は、まるで違っていた。
プールサイドに立ち、濁った水面を見下ろす。以前は、自分を優しく包み込んでくれる、聖域であり、水槽だった。今は、それが、ただの、打ち捨てられたコンクリートの窪みにしか見えなかった。時間の流れから取り残された、巨大なガラクタ。
彼女は、あの日の出来事を思い出す。長谷聖真の、狂気を帯びた瞳。自分の内側から溢れ出し、世界を破壊した、あの力。
あれは、何だったのだろう。
もう、彼女の中には、あの力はない。あるいは、元々そんなものはなく、ただ、彼の狂気と、自分の孤独が、奇跡的な確率で共鳴し合っただけの、一度きりの花火だったのかもしれない。
どちらでも、よかった。
自分は、特別でも、共振体でも、巫女でもなかった。ただ、世界に対して、少しだけ耳が良すぎて、少しだけ臆病だっただけの、ありふれた人間だったのだ。その事実が、今は、不思議なほど、彼女を安堵させていた。
羽依里は、ポケットから、あのポータブルオーディオプレーヤーを取り出した。そして、その白いイヤホンを、まるで供物でも捧げるように、そっと、プールの濁った水の中へと落とした。
ぽちゃん、という小さな音がして、白いコードは、蛇のように、ゆっくりと、深い藍色の底へと沈んでいく。
さようなら。
誰かが聞かせてくれる、安全な音。
これからは、自分の耳で、自分の心で、このノイズだらけの世界の音を、直接、聴いていく。たとえ、それが、時々、心をひどく傷つけたとしても。
彼女は、水面に背を向け、出口へと向かって歩き出した。
その時、錆びた通用口の扉が、ギィ、と、軋む音を立てた。
誰かが、入ってくる。
羽依里の足が、止まる。以前の彼女なら、物陰に隠れるか、息を殺して、その侵入者が立ち去るのを待っていただろう。
だが、彼女は、そうしなかった。
彼女は、ただ、ゆっくりと振り返った。
そして、その気配がする、暗い入口の方を、まっすぐに見つめた。
恐怖でもなく、期待でもなく。ただ、凪のように、静かな心で。
その視線の先に、誰がいたのか。あるいは、何もいなかったのか。それは、もはや、大した問題ではなかった。
彼女の世界に、新しい音が、静かに響き始めた。
それは、これから始まる、長い物語の、ほんの序曲に過ぎなかった。
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