第六章 川底のエコー

魚留羽依里のアパートの部屋には、生活の音がなかった。テレビもなければ、オーディオ機器もない。本棚には数冊の文庫本が背表紙を壁に向けて並んでいるだけで、何というタイトルなのかも分からない。クローゼットの中は、同じような色の服が数枚かかっているだけ。彼女にとって、この部屋は外界のノイズから身を守るためのシェルターであり、眠るためだけの場所だった。植物工場から帰宅し、シャワーを浴びてベッドに潜り込む。その繰り返し。世界の大部分は、ドアの向こう側にあればよかった。


璃子に「用事がある」と言った日曜日。羽依里は昼過ぎに、そのがらんどうの部屋を出た。向かったのは、繁華街でも公園でもない。多摩川の川底を貫き、川崎と対岸の羽田を結ぶ、長大なトンネルだった。

車道とは別に設けられた、歩行者と自転車のための人道。ひんやりとした空気が、地上とはまるで違う密度で肌にまとわりつく。壁のタイルは湿り気を帯び、等間隔に並んだ照明が、どこまでも続く通路を不気味に照らし出していた。

ゴォン……ゴォン……。

換気扇の低い唸りと、自分の足音だけが響く。頭上では、何十万トンもの水が、絶え間なく流れている。その重圧を全身で感じながら歩くのが、羽依里の密かな儀式だった。ここは、巨大な水槽の底だ。地上の喧騒も、人の視線も届かない、完璧な閉鎖空間。

彼女はトンネルのちょうど真ん中あたりで足を止め、壁に背をもたせ掛けた。目を閉じると、自分の呼吸の音だけがやけに大きく聞こえる。この、絶対的な孤独。守られた沈黙。これがあれば、生きていけるとさえ思えた。


その沈黙は、唐突に破られた。

コツ、コツ、と、自分のものではない足音が近づいてくる。羽依里が目を開けると、スーツ姿の男が一人、こちらに向かって歩いてくるところだった。休日だというのに、その服装はまるで平日のオフィスから抜け出してきたかのようだ。

男は、羽依里の存在には気づいているようだが、気にするそぶりも見せず、壁に何か小さな機械を当てては、数値を読み取っている。その姿には見覚えがあった。いつか、夢の中で見たような、あるいは、遠い記憶の断片のような……。いや、違う。この男は、もっと現実的な文脈で自分の前に現れようとしている。

やがて、男は羽依里のすぐそばまで来ると、ようやく視線を彼女に向けた。

「……君は。こんなところで何をしているんだね?」

その声は、詰問でも、好奇心でもなく、ただ事実を確認するような、乾いた響きを持っていた。

羽依里は何も答えられなかった。自分の聖域に、またしても土足で踏み込んできた侵入者。その男の顔をまじまじと見て、彼女は確信する。この男は、自分を知っている。

「市役所の、間宮という者だ」

男は、まるで彼女の思考を読んだかのように名乗った。「少し、調査をしていてね。このトンネルには、よく来るのかね?」

「……」

「何か、変わった音や振動を感じたことはないだろうか。例えば、壁が震えるとか、奇妙な音が聞こえるとか」

探られている。羽依里は直感した。植物工場で璃子が見せてきた、あのネットの画面。HASE-ARMAという名前。都市の幽霊の声を聴く男。そして、今目の前にいる、市役所を名乗る男の質問。バラバラだったピースが、彼女の頭の中で、不穏な形に組み合わさっていく。自分は、自分の知らないところで、何か得体の知れない渦の中心にいる。

「……あなたも」

羽依里は、か細い声で尋ねた。

「あなたも、音を集めてる人?」

その問いに、今度は間宮がわずかに目を見開いた。彼の整った表情が、ほんの少しだけ崩れる。

「……いや」

彼は、一瞬の間を置いて答えた。

「私は、音を消すのが仕事だ。世界が、定められたルール通りに、静かに動くようにする」

集める者と、消す者。

その絶対的な対比が、二人の間に見えない壁となって立ち塞がった。

羽依里は、これ以上この男と関わるべきではないと感じた。彼女は壁から背を離し、無言でその場を立ち去ろうとした。

「待ってくれ」

間宮が、背後から声をかけた。その声には、先ほどまでの無機質な響きとは違う、何かが混じっていた。

「君の周りで起きていることは、君が思っているよりも、多くの人間が注目している。……気をつけてくれ」

それは、警告のようでもあり、あるいは、困惑した大人からの、不器用な気遣いのようにも聞こえた。

羽依里は振り返らず、トンネルの出口に向かって歩き出した。自分の足音が、やけに大きく、空虚に響く。

プールも、工場も、そしてこの川底のトンネルさえも、もはや彼女だけの聖域ではなかった。自分の守り続けてきた沈黙が、内側から発する微かな振動が、意図しないままに外界に漏れ出し、反響し、観測され、意味付けされている。

それは、羽依里にとって、想像したこともない恐怖だった。

前方に、トンネルの出口の、四角い光が見える。地上へと続く、眩しいほどの光。その光が、今は自分を暴き立てるためのスポットライトのように思えて、彼女は思わず足を止めてしまいそうになった。

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