砂の城

深月 唯

砂の城

 彼の訃報が届いた。酷く、冷たい雪が降った日の事だった。


 嘘だ。本当に死んだのか、彼が。つい三日、四日前に、僕といつものBARで、酒を飲んだばかりだというのに。彼はその時、普段の彼らしい陽気な口調で喋っていた。小説が上手く書けないだとか、他にも色々と、小難しいような話を延々聞かされた覚えがある。彼はすこぶる健康そうであって、怪我さえも、どこにも、見当たらなかった。君が知らなかっただけでは無いのか。と、言われてしまえばそれまでだが、ともかく僕は、彼が逝った理由(わけ)を知らない。


 しかし、僕は彼の死んだ原因というものを、探ることをやめた。否、死んだというのを、信じられないから、かもしれないが。確か、今までも、これと似た状況があった。重い病に罹ったと聞いて駆け付ければ、ただの風邪、なんてこともあった。その時彼は、僕の反応を見て笑った。きっと今回の訃報というのもまた、その日と同じことなのかもしれない。彼を訪ねれば、きっと彼はこの訃報を見て、

「実によく出来た手紙だったろう。君の反応というのは、いやはや、まったく面白いものだ」

などとおどけて、冗談だと僕を揶揄うに違いない。そう、嘘だ。これは、きっと何か、彼の大きな作品のひとつであって、最後には、恐らく僕の想像を遥かに越えるような、種明かしが待っているのだ。

 僕はそう信じることにした。そうして手紙を封筒にしまい込み、机に置いて、さっさと地下のアトリエにこもった。古びた籐椅子に腰を下ろせば、それは軋んで音を立てる。僕はその音を好いていた。このアトリエには僕しかいない、けれども、彼がいるような。不思議と心地の良いこの感覚に包まれる瞬間が、僕は好きなのだ。しかし、今日はどこか違っている。彼がいないのだ。何故、いないのだろうか。彼は生きていると、確証を得ることが出来ていないからだろうか。それとも、僕は不安なのか。ともかく、これではとても絵など描けぬ。所詮ただの感覚だとて、彼は僕が絵を描くのに必要な存在なのだ。故に、今僕のいるこの空間は、嫌いだ。依るべき相手の居ぬ、この孤独が、嫌いだ。

「なあ、どうか生きていてくれよ。君が生きていなければ僕は、落ち着いて絵すら描けないのだ」

 眼前のキャンバスを見つめる。真白の舞台には、ただ一人山吹の瞳を持つ男が、花束を抱き、こちらを見ていた。頭髪は短く、目を引くような栗色をしており、柔らかく微笑んでいる。本来ならば安堵するような絵であるのに、僕は酷くそれに恐怖した。絵からは、不思議と生気が抜けていたのだ。まるで彼の死を信じていない僕に、現実を知らせているかのようだった。僕は耐えきれず、逃げるようにアトリエから出て行った。


 家に留まるのも嫌になり、僕は外へ飛び出した。ある程度家から離れた所で目を上げると、いつの間に雪は止んでいた。しかし、真白の蔓延る辺りの景色が、あの恐ろしいキャンバスに見えて仕方なかった。足が竦んで動けない。僕は怯えて目を瞑った。けれども、中々白は離れてくれず、むしろ、あの絵とまるで同じように、花束を抱いた山吹が、こちらを見ている気さえした。彼の異変というのを悟る事が出来なかった僕の罪を咎めるような、鋭く冷たい刃の瞳が、僕を刺している。


 しばらくして目を開ける。辺りは何も変わっていなかった。そろそろ、この景色に怯える事も無くなって来たので、家に帰ろうかと思ったが、やはりあの絵と過ごすというのは少しばかり憂鬱だった。せめて彼の家へ行こうかと、思った。彼の死について、何か分かるはずだ。生きていれば、それで良い。そうでないとしても、覚悟は出来ていた。一度深呼吸をしてから、僕は彼の家へ行くため、キャンバスのように真白の雪道を進んだ。


 しかし、どうやら雪は、僕が思っていた程積もっていなかったらしい。雪道、と表しこそしたものの、実際はただ、辺りの草木を軽く覆っているだけであって、道も、雪などとっくに溶けていた。

「ああやはり、あの絵が悪いのだろう。背景に雪を降らせてしまったから、いけないのだ。あれは、まるで呪いだ……」

「呪いの、絵画?」

 まさか、口に出ていたのか。声の聞こえた方を向くと、十、くらいであろうか、美しい黒髪と、灰がかった瞳を持った少女が、ぽつりと一人だけで、そこへ立っていた。しまった、と思った。子供は余り、得意ではないのだ。


「あ、いや、呪いの絵だなんてない、ない。冗談さ。笑えないけれど」


僕はさっさと逃れようとした。けれども少女の表情は変わらずいて、次々と言葉を投げかけて来る。


「でも、あなたが呪いと思ったなら、それは立派な呪いの絵よ」

「確かにそうだが、しかし、あの絵は……僕の大切な作品なのだ。呪いなんて、言えない。否、言ってはならないのだ。例えそう思っても……」

「その絵、見せて」

「駄目だ、あれはまだ描き終えていない」

「雪を見て怯えていたのに、描くの」

「見ていたのか」

「あたし、ずっとあそこにいたわ」

「それは、困った。どうかよそで僕のことを話さないでくれよ」

「じゃ、言わない代わりに見せて」

「分かった、分かった。ただし、描き終えるまで待てるなら」

「どれくらいかかる?」

「一時間で済む」

「ついて行ってもいい?」

「じっと動かず、黙っていられるか」

「勿論」

「なら、良い」

 僕は背を向けて家に向かった。少女も、後に続いていた。困ったことになった、と思いながらも僕は、殆ど無意識の内に、少女との距離を縮めながら歩いていた。


「ねえ、名前、教えて」

「和泉(いずみ)だ、君は」

「朔真(さくま)よ。歳は、九つ」

「それは、驚いた。君、よく賢いと言われないかね。僕が呪いだと思えば立派な呪いだなんて、その歳の子供には中々考えつかないぞ」

なんと聡明な少女だろうか。まだ年端も行かぬというのに、その言葉はまるで、小説家の様だった。

「お父様が同じ事を言っていたの」

「小説家か、何かか」

「ええ、そうよ」

「名前は何だ」

「お父様が、名前は誰にも言うなって」

「作品を世に出しているだろうに、隠すのか」

「不思議よね」

 少女の笑う姿を見た。口元を手で隠しながら、くすりと上品に。やけに大人びていると思った。加えて、頭もよく回る。最近の子というのは皆こうなのだろうか。それとも、やはり予想した通り、小説家の子だからか。

「ここを曲がれば、すぐだ」

「静かな場所ね。まわりになんにもない」

「何かあると、うるさくて適わん」

「一人は、寂しくないの」

「平気だ」

「強いのね」


 返答出来ず、僕はただ上がれ、とだけ言った。

何故なら僕は、胸を張れるほど強くない。今だって、アトリエに向かうのが恐ろしく、とても耐え切れそうにない。一段、また一段と地下への階段を降りる度、絵に描いた男が、そして、彼が、僕をじっと見つめているような感覚に支配されてしまいそうで、僕は怖くて、怖くてたまらないのだ。降りきった先、アトリエへ続く短い一本道でさえ、僕には、いやに遠く感ぜられて、仕方なかった。


「僕は、油絵を描いているのだがね、どうも、絵具の匂いが全く駄目だ、という人が多いのだ。君は、平気か」

「ええ。お父様も油絵を描いているから、すっかり慣れたわ」

「小説と、油絵を? ずいぶん多才な父のようだね。ああくれぐれも、服を汚さないように」

「分かっているわよ。心配いらないわ」

「そうかい」

 躊躇いながらも扉を開け、中へ入ったその時、嗅ぎ慣れた絵具の匂いと、甘ったるい花のような匂いとが混じりあった。

「……この香りは、」

「百合の花ね」

「分かるのか」

「お父様の好きなお花だから」

「そうか。……ああ、そうだ。そこの椅子に座って、静かに待っていてくれ。今から、描き始める」


 僕は筆を手に取った。微かに震えてしまうのを抑えながら、背景に暖かな黄色を置く。雪の冷たさに凍えてしまわぬようにと、太陽の光を差し入れた。そのおかげだろうか、完成した絵は、綺麗だった。先程まで感じていた鋭さ、恐ろしさなど、はじめっから無かったように、思えた。

 声を掛けようと、少女のいる方へ目をやった瞬間、僕は愕然とした。少女が見ている絵は、それは、……


「なあ、君。その絵をどこで見つけた」

「そこの、棚の隙間よ。これだけぽつんと置いてあったから、気になったの」

「朔真、朔真。その絵は、駄目だ。貸しなさい」

「何故、いけないの。とても綺麗な黄色の百合だわ」

「綺麗などの問題では無いんだ。その絵こそ、呪いだ。あの絵は完成したのだから、そっちを見ていなさい。僕はこれを処分してくるからね、決してアトリエから出てはいけないよ」

 ひったくる様に少女の持っていた絵を奪い、僕は走って出て行った。何故、あれほど焦っていたのだか分からない。言い表せもしない恐怖が、全身に回って息が苦しい。この絵は、あれとは到底比べものにならぬ。おかしい、おかしい。異常なのはこの絵か、はたまた僕か? 否、最早、どちらも狂っているのではないか。

「この絵は、早く捨てなくては……いいや、燃やさなければ、ならない。全て灰にしてしまえば、もう心配などいらないはずだ」


 僕は、火を付けられる道具をありったけ集めて、庭に出た。これだけあれば、全て、燃え尽きるに違いない。この恐怖と共に、消え去ってくれるに、違いない。僕は絵に火を付けた。赤く煌々と上がる炎を見つめて、灰に成るのを待とうとした。──嗚呼、しかし、僕の試みは失敗した。絵は、何故だか全く燃え尽きる気配が無いのだ。それどころか、炎に包まれているのに、分かる。花の黄色のみが、黒く、黒く変わってゆく様が。

「これは、黒百合? ああ何故だ、何故だ。僕は、絵にこんな仕掛けなどしていない! それに、この香りは、黒百合そのものだ……」

恐怖はむしろ、じわりじわりと悪化して往くようだった。

「早く水を、」

 よろめきながら、水を汲みに走ろうと、扉に手を掛けた直後、ばき、と歪んだ音が聴こえた。──まさか、絵が。振り向くと、真っ二つに割れた黒百合が、目の前にあった。加えて、ぼうぼうと燃えていた炎は、端から無かったように、消えていた。ああ、なんたる、怪現象。手に取り確かめてみれば、ひんやりと冷たさすら感ぜられる。ほんの数秒前まで、あれほど燃えていたと云うのに!


「和泉」

 ふと、聴こえる、この声の所在は。僕の名を呼ぶのは、誰だ。凛と鳴る、鋭くて、僕を刺すようなこの、声は。

「朔真、出るなと言っただろう! 何故待っていなかった」

僕の声は震え、訳も分からずに涙を溢れさせていた。子供のように、なんとも情けなく。目の前に居る少女の姿すら歪むほど。

「なかなか戻らないから、心配だったの」

「だからと云って、」

「和泉、……」

泣かないで、と、少女は蹲っていた僕に触れた。するりと頬を這うしなやかな指先。と、先ほどと違った、全て包み込むような声。驚き、目を見張りながら尚も涙を零していると、今度は、優しく抱き寄せられる。嗚呼、何処か懐かしいこの感覚。最後に、誰かに抱き締められたのはいつだったろう。そもそも、あの日抱き締めてくれたのは誰だったろう。思い巡らす度、少女の体温が身に染みてゆく。それから、同時に、離してくれとも、思った。孤独が嫌いなこの身に、溢れんばかりの、これ以上の優しさはかえって、逆効果であるから。

「朔真、離してくれ。僕はもう平気だから」

「あたしが、こうしていたいの。あと少しだけ」

僕は、思い出せなかった。ぬくもりを感じ、抱き返してやりながら考え続けたが、まるで駄目だった。誰が抱き締めてくれたのだか、思い出せない。

「……朔真、僕は、思い出せない事があるのだ」

「思い出せない事?」

「ああ。何か、きっと、僕にとって大切なことだと思うのだ。だが、どうにも分からない。その記憶だけ、すっぽりと抜け落ちているような……」

「和泉。それは、きっと……疲れているのよ。今日は、もう休んだ方が良いわ」

少女は体を離し、壊れた絵を手に取る。

「この絵、一度、家に持って帰っても良い?」

「だが、朔真。その絵は……」

「本当に呪いの絵だったなら、捨てれば良いわ。それに、貴方はもう、これを見ていたくないのでしょ」

「それは、そうだが……しかし、」

「だから平気よ。それじゃ、あたしは帰るわ。あの絵、また今度見せてね」

言うや否や、少女は僕が止めるのにも構わず、さっさと走って行ってしまった。まるで、彼のようだ。決めたら直ぐ行動に移し、僕の話を聞きやしないところ。次第に見えなくなる後ろ姿さえ、彼に、とても良く似ていた。


「なあ、あの子は、もしや君の子ではないか」

自室に戻った僕は、机に散らばった彼の写真を眺めながら、呟いた。無鉄砲と表すのが正解か、とにかく、そんな人だった。それだのに、無闇矢鱈と人の為動こうとしていたのだ、彼は。そして今、彼に良く似た少女が、私の為にあの絵を持ち帰った。きっと、彼もそうしていたことだろう。

「君が生きて、今この場に居てくれさえすれば、きっとあの子の事も分かると云うのに」

ふと、花の写真が目につく。これは、あやめの絵、だろうか。しかし、僕は、見た事が無い。撮ったと云う、覚えもない。

「……いつの写真だ、」

日付は何処にも無かった。他の写真と違い、比較的新しく見えるというのが、唯一、これがいつ撮られたものか判断する糸口であった。と云っても、僕ではさっぱり分からない。探してみるにしても、無駄だ。あやめが咲き誇るのは五月、それに、どの場所に咲いていたのを描いているかなども至極曖昧なものだ。花の周囲、つまり風景を緻密に描いてあれば、話は別なのだが、この絵の中には生憎、あやめの花しか存在していない。

「名前すら書かれていないが、……絵画に詳しいあの子なら、全てとは言わずともなにか、知っているかな」

 この写真を送り、聞いてみようかと考えた。あの子なら、若くから絵の才能を持つ、僕の友人ならば恐らく、僕の一抹の期待と云うのを裏切らないのでは無いか。封筒に写真を入れ、この絵についてなにか知っていれば教えてくれと、手紙を添えて送った。例え、どんな返事であれども良い。ほんの少しだけでも、手掛かりさえ掴めれば、それだけで、僕は充分なのだ。

「……朔太郎、」

 ふと呟き、彼と僕の、笑っている写真を握って、じっと眺めていると、やがて、ぷつりと意識が途絶えた。僕は、どうやらその場で、眠ってしまったようだった。


 僕は、夜明け前の海辺に居た。朧な月光に照らされて、煌めいた水面が微かに揺らでいるのに、見惚れていた。ここは、一体、何処だろう。考えていると、声が掛かった。きっと、僕に向けた声だ。それでいて、聞き覚えのある、彼のもので、僕は一心不乱に彼を呼んだ。

「朔太郎! 朔太郎、そこに居るんだな!」

しかし、姿は見えない。いくら真っ暗闇といえど、何も見えぬのは、おかしい。きょろきょろと視線を彷徨わせていると、ぽんと肩を叩かれる。振り返ると、ふたつの山吹色が、僕をまっすぐ見つめていた。そして、呻くような、もしくは、囁くような、か細い声をして、僕の耳元で何か、ぶつぶつと、言葉を並べた。それは、僕にとって、全く、理解出来ないようなものに思えた。

「朔太郎、今、何を。聞き取れなかったんだ、もう一度言ってくれないか」

しかし、やはり、彼の紡ぐ言葉は分からなかった。ぽかんとしたまま突っ立っていると、その姿を見て、彼は、少しばかり悲しそうにした。暗闇で、はっきりとは見えなかったので、僕の、勝手な憶測に過ぎないのだが。

「すまない、朔太郎。何故だか、君の声が、上手に聞こえなくて。君は、悪くない。きっと、僕がどうかしているんだね、最近、寝不足気味だから、そのせいだ」

そうして彼は、再び、ぼやけた言葉を僕に掛けてから、背を向けて、海の方へ歩き出した。そのとき見た、彼の瞳の山吹は、仄暗い空へ浮かんでいる三日月のように、細められていた。どうしてか。とても、美しいと思ったのだ。そうして、気付く。これは夢なのだと。

「待ってくれ、朔太郎! 行かないでくれ、ひとりに、しないでくれ」

叫ぶように懇願すると、彼は立ち止まって、こちらを振り向いた。月明かりを浴びた彼の顔には影が落ちていて、表情が、よく分からない。それでも、彼は、微笑んでいたように見えた。そうして、またもや、彼の口元は動く。けれども、やはり、言葉として捉えることは出来なかった。唯一分かることとすれば、彼が、何故か酷く、苦しそうな顔をしていることくらいだった。

「さっきの言葉の意味を教えてくれよ! 朔太郎!」

必死になって叫んだところで、目が覚めた。あの夢は、何を意味していたのか、それを考えるだけで、胸が締め付けられるようであった。それから、しばらく経っても、眠れる気配はない。僕は、仕方なく起き上がることにした。 夕風にでも当たろうと、思い立ったのだ。窓を開けると、ひんやりとした空気が流れ込んでくる。それが、先程の不安を払拭してくれるかのように、とても、心地よく感ぜられて、僕は、目を瞑った。しばらくそうしていた後、机に置いていた、あの写真を見て、ぞっとする。彼の表情が、変わっていた。笑顔などは、微塵も無く、苦悶に歪む彼が、そこには居た。まさか、これも一種の呪いと云うものであろうか。夢に出て来たのは、これを見せる為、だったのか。僕は、酷く混乱した。


 その日を境に、同じような夢を、毎晩見るようになった。夢は、少しずつ変化していく。例えば、夢の内容は、決まって彼とふたりだ。他には、誰もいない。そこで、彼は僕に話しかけてくるのだが、それが、全くとして、聞き取れない。ただ、彼の口の動きだけが、妙に生々しく見えて、恐ろしくなる。そして、彼はいつも、目覚め際に何か、僕に囁くのだが、結局、意味するところは分からずじまいで、もやもやと疑問を募らせながら、今日目を開けると、写真に映る彼の表情は、元の笑顔に戻っていた。


 そして、明くる日、例の写真は、忽然と消えていた。誰かが持ち出したのか。いいや、違う。昨日も、一昨日も、家には誰も招いていないし、訪ねてきた者も、居ない。そうならば、自分で、捨てたのだったか。……これも、違う。僕は、最近これを眺めながらでないと、全く眠れないようになってしまったのだから、捨てるなど、断じて、有り得ないことだと言える。しかし、もしもこのまま見付けられなければ、僕は、どうすればいい。不安で、不安でたまらない僕は、一体、どうすれば……。悶々と悩み、夜二十時。


 とん、とん、扉を叩く音。やけに軽いその音から予測するに、この向こうに居るのはきっと、子供。そして、僕の家に訪ねてくる子と云えば、大体、もう分かっていた。慌てて走り、扉を開ける。そこには、案の定、風に黒髪を靡かせながら、この間と変わらぬ様子で、少女が立っていた。

「朔真!」

「和泉? どうして、泣いているの」

「僕は、……僕は、とんでもないことをしたのだ。大切な、友人との写真を、何処かへやってしまった」

「それって、これのことかしら」

少女は写真を取り出して、僕に渡した。そう、これだ。彼と、僕の笑っている、この写真。まさしく、そうだ。間違いない。

「しかし、朔真、どうして、君がそれを持っているんだ」

「あなたが、昨日、あたしの所へ預けたのよ」

「何だって? 預けるもなにも、昨日君は、僕の家へ来ていないのだから、……」

「ええ、家には行っていないわ。だって、あそこの海で渡されたのだもの」

僕は、愕然とした。海、だと? 有り得ない。あそこへは、夢の中で行ったはずだ。もし、あれが現実で、彼だと思っていた人が、この少女だとしたら? いいや、それは、おかしい、そんなはずはない。

「そんな、馬鹿な。僕は、外になど出ていないはずなのに」

「……だって昨日のあなたは、まるで、何かに取り憑かれているようだったから。操られるように、海に来ていたのだもの。覚えていないのも、仕方がないわ」

「操られるように、……」

「ええそうよ。……まるで──」

言いかけて、少女は口を噤んだ。一瞬、ふいと目を逸らしてから、赤い封蝋のついた手紙を、僕に渡した。

「何でもないわ。それより、あなたのご友人から、手紙を預かっているの。頼まれていた、あやめの絵について調べたらしいのだけど、何故だか、とても申し訳なさそうにしていたわ。きっと、分からなかったのね。でもどうか、ご友人を責めないであげて頂戴ね」

「大丈夫だ。そんなことはしない。……それよりも、朔真、……あの、昨日の僕は、何か、言っていたか」

「いいえ。何も言っていない。でも、酷く怯えている様子だった」

「そうか、……しかし、何故、僕は覚えていないのだろう」

僕はただ困惑して、何も思い出せない、自分の不甲斐なさに苛まれて、涙がひたすらに溢れてやまなく、昨日迷惑を掛けただろう、目の前の少女を思うと、たまらない気持ちになって、霞む視界の中に居る、少女に縋りついて泣いた。

「和泉、無理に思い出さなくて良いのよ。分からないことは、悪くないのだから、気にしないで。あたしね、和泉につらい思いをして欲しくないの。だから、お願いよ」

少女は、必死だった。しかし、この子が今、何を思っているのだか、分からなくなった。僕を、哀れんでいるのだろうか、はたまた──

「ねえ、朔真。この手紙、一緒に読んでくれないか。今は、一人で居るのが怖くて、……」

「わかったわ。じゃあ、ひとまず、中に入りましょ。ここでは暗くてかなわないわ」


 まだ写真の散らばっている座敷へ、少女を通した。そうして、封筒を開け、手紙を読む。不思議なことに、宛名は無く、文章の中にも、僕の名前は、書かれていなかった。

「和泉、この、あやめの絵って、あなたが描いたもの?」

「いいや、違う。僕は、その絵を知らない。故に、あの子に聞いたのだよ」

「でもこの絵、あなたのアトリエで見つけた、あの黄色い百合の絵に、そっくりよ。ほら、この、花びらの色付け方や、構図、……」

「朔真、それは、ただの偶然だろう。もしそうならば、あの子も手紙に、そう書いていたはずだろう」

「でも、あたし、間違えない自信があるわ。だって──」

先程のように、少女は口を引き結ぶ。目を逸らしながら、何か、言葉を探している様子だった。

「朔真、」

声をかけると、少女は、はっとして顔を上げた。

「何でもないわ。……でも、試しに、百合の絵を見てみてよ。焼けて、黒くなっているけれど、油絵の特徴って、案外、分かりやすいものなのよ。あたしのお父様も、油絵を描いているって、言ったでしょ。色々聞いていたから、知っているの。ね、だから和泉、あたしの家に来て」

「構わないが、両親は居ないのか。いきなり、見ず知らずの僕が行くというのは、……」

「──お父様も、お母様も居ないわ。だから、良いの。大丈夫よ。ほら、だから着いてきて」

「ちょっと待て、朔真……!」

言うや否や、少女は僕に背を向けてさっさと家を出て行ってしまった。僕は、なんて質問をしてしまったのだろう。朔真の、あの戸惑った顔を見よ。早く、謝らなければ。手紙を開いて置いたまま、僕は、少女の後を追い掛けた。外に出ると、空にはいつの間にやら、忌々しい黒雲が立ち篭めていた。星が見えないほどだから、きっと、家に帰る時は、酷い雨降りだろう。


 先日、お見せして頂きました、例のあやめの絵についてですが、生憎、僕には分かりかねます事を、この場にてお詫び致します。そして、手紙を直接渡すことが出来なかったことも、大変、申し訳なく思っております。本当は、あなたと会って話をしたかったのですが、けれど今、……いいえ、きっと、この手紙が、あなたの元へ届くであろう日、僕は、とても外へ出られる状況で無くなってしまうのです。のっぴきならない程の用事が、生まれてしまったからです。しかし、あなたがお気になさって、心配するようなことは御座いませんので、どうぞ、ご安心下さい。この用事が終わり次第、再び、あなたに手紙を送らせて頂きたく存じます。分からない、と先述致しましたが、今一度調べ直してみますので、次、僕たちが会う頃には、何らかの進展があるという事をお約束致します。それまでは、どうか、お元気で。

親愛なる、大切な友人へ。

斎森孝葉



 「和泉、ほら、これ。このあやめの絵に、何処となく雰囲気が似ているわ」

「本当だ、良く似ている。……しかし、これだけでは、僕が描いたというのは判別出来ないだろう? 何か、他に僕の絵だと証明出来る物は……」

「他に、……」

少女は、そのまま口を閉ざしてしまった。それは、先程、言葉を探していたのと全く同じ様子で、ようやっと僕は気付いた。少女は、この絵が僕の物だといえる、確たる根拠を持っていて、その上で、黙っているのだと。そして、これだけではない。海での出来事。あの時にも、少女は何も言わなかった。一体、この子は何を、どこまで知っている? 考えを巡らす度、この少女が恐ろしくなる。

「朔真、ひとつだけ、いいか」

「ええ、良いけれど……どうしたの?」

「君は、……きっと、彼の娘だろう。僕の友人である小説家の、遠野朔太郎。それで、君は彼に言われ、何かを伝えるべく、僕に、会いに来ているのではないか」

「…………」

長い間の、沈黙の後。俯き、両手を握りながら、ようやく少女は、口を開いた。

「そうね、あたしは、確かにあなたの言う通り、遠野朔太郎の娘の、朔真よ」

「両親が居ない、と言ったな。ということは、やはり、朔太郎は死んでいるのか」

「いいえ! お父様は生きているわ。きっと、近くで、……」

少女は、声を震わせてそう言った。朔太郎は、生きていると。まるで、あの日の僕の様だった。死というのを信じられず、動揺と、焦りを孕んだ表情が、僕に、良く似ていた。常に、冷静沈着で表情の崩れぬ、この少女のこころをいとも簡単に揺るがしてしまうのだから、彼の魅力というのは、恐ろしい。ただの友人である僕でさえ、彼が居なくなったことに、酷く喪失感を覚えたのだ。まして少女は、彼の娘。その悲しみはきっと、僕などよりも深い、と言えるのではないか。これ以上追及するのは、辞めた方が良い。──しかし、もう、駄目だった。この口は、もはや止まらない。

「生きていると言いたいならば、その所在を明確に示すことだ。それが出来ないのなら、もう彼の事は何も話すな。僕が、何度彼に生きていて欲しいと願ったか、分かるか? そして、全ての期待がことごとく水泡に帰す、その瞬間の虚しさが! 彼の死を悲しむのは、涙するのは、娘の君だけじゃあないんだよ」

ああ、どうか、誰か僕を止めてくれ。僕はこんなことを言いたい訳ではない。僕は、この後少女と共に、彼を捜そうとしていただけなのだ。それが、一体何故、これ程までに崩れた? 平静を欠いた僕の、荒々しい感情の決壊。どうにも、抑えの効かないこのこころ。訃報が届いたあの日から、少女にさえ打ち明けられなかった言の葉を、全てぶつけるように、声を張り上げ捲し立てる。

「君は、全ての真実を知っているような口振りだがな、一体何を、どこまで知っているんだ? 教えてくれ。僕は、海で何をしていた? そしていつ、この絵を描いた? 斎森は、何故僕に嘘を吐いたんだ? きっと知っているんだろ。なあ、朔真!」

僕が、僕でないような不安。操られているようだったと、少女は言っていた。ならば今も、僕は操られているのだろうか。きっと、他でもない彼に、呪われているのだろうか。ああもはや、僕には何も、分からない。僕は、誰だ。今、沈黙の空間に響いているこの声は、一体、誰のものだ。

「朔真、教えてくれ。どうか、どうか、……」

「……御免なさい。あたしには、出来ない。答えを見つけるのは、いつだって自分自身だ、って、あたしのお父様、いつもこう言っていたわ。ねえ和泉、覚えている? 今の言葉、……」

「あ、ああ。勿論だとも、……そうだな、朔太郎は確かに、そう言っていた事があったはずだ」

平静を偽り、さも思い出した風を装い、問いに答える。だが本当は、分からなかった。嗚呼、嘆かわしや。僕は、彼のことさえも、いずれまるっきり忘れてしまうのだろうか。否、決して忘れることなどない。このまま、阿呆な自分を放ってなどいられるか。彼の記憶を、この頭に繋ぎ止めておかねばなるまい。

「朔真、僕は決めた。君と、朔太郎の言った通りに、自分で答えを探すことにするよ。手掛かりは、あるんだ。きっと見つけたら、また報告に来る。そのときまで、斎森の所に居なさい。君を、孤独にしたくないのだ」

「でも、あたし、一人は慣れているわ。それに、……」

「いいや、駄目だ。君がどれほど賢くたって、一人は、危ない。斎森の家を教えるから、今すぐそこへ行きなさい。いいね」

懐に仕舞っておいていた数年前の覚書を取り出し、少女の小さな手に握らせ、僕は家を出た。返事は、わざと待たなかった。そうでもしなければ、きっと、ついて来てしまう。それだけは、避けなければ。僕は、必ず一人で見付けてみせるのだ。答え、と云うのが、例えどんなものであろうと。


 外に出ると、やはり、雨が降っている。深夜、真黒な雲と、雷鳴は、早く記憶を取り戻せ。と叱責するかの様に、ざあざあ激しい音を立てながら、僅かに残っていた雪を、見る限り全て、溶かしてしまっている。僕にはそれが、何かいやな予兆と感ぜられて仕方無く、ふいと目を逸らして、視界に入れぬようにと前を向いた。

「とにかく、家へ帰ろう。手掛かりは、きっとあのアトリエにあるのだから」

全身が濡れるのも厭わず、僕は、ひたすらに走った。彼を忘れたくないと、その一心で。


「…………」

その後ろ姿を、少女は見ていた。雨のしずく、はたまた、涙か。扉を開け放したまま、ぼうっと立ち尽くす少女の頬に一筋、伝って行った。もはや届かぬ小さな声は、雨音に呑まれ、掻き消える。瞬間、少女は、何故だか分からぬ不安に襲われて、覚書にある住所の元へと急いだ。


 アトリエは、あの日少女を家に入れたときから、何ら変わっていなかった。キャンバスは、真ん中にぽつりと佇んでいて、傍らには、少女の座った籐椅子がある。そして、空気ですらも、そのままであった。油絵具と、百合の花とが混ざり合った、あの甘ったるい香りが、一週間経った今でも尚、我が物顔でこの部屋を満たしている。まるで時が止まったように、全てが、そのままでいた。それは、僕の記憶の有様を描いているようで、僕は身を震わせた。進まぬ記憶と、忘れた過去。僕の脳の、再現。恐怖すら覚え、酷い眩暈がした。耐え切れず、僕は、体勢を崩してしまい、床に倒れ込んだ。体が思うように動かず、しばらく、この眼(まなこ)だけで、辺りに何か無いだろうかと、探していた。そうして、ふと、画材を置いていた机の下に、封筒らしきものが落ちているのを、発見した。それから、少しして、この部屋の匂いにも慣れてきた頃、僕は重苦しい体を起こし、その封筒を拾い上げて中身を取り出し、そして、文頭を見て、驚いた。そこには、僕の名前が書かれている。


 我が友、和泉へ。


 念願の画家となった事、そして、誕生日、御目出度う。君の素晴らしき才能が、世間に認められ、その名を馳せる程までになるとは、驚いた。そして、こんな大業を成したのだから、その嬉しさと云ったら、計り知れないだろう。友人の僕ですら、何よりの喜びであると、感じている。それから、君がずっと書いていた小説も、画家となった途端、今までも充分売れていた物が、凄まじい人気が出たそうじゃないか。なあ、和泉、僕は君が羨ましい。出来ることなら、僕も、君と同じ画家になりたかったものだ。しかし、あの百合の絵。あれを見た途端、その夢はきっと、叶う事は無いと知ったよ。君の作風を模して、あやめの絵を描いた。しかしどうにも、僕の絵では、到底君に及ばないようだ。故に、僕は、絵を描くことを辞めにしようと思う。君に、とびきりの祝いを込めた絵を描き終えた後で。だが、中々筆が乗らない。酒を呷っても、何をしても、君を、キャンバスに写し出せない。世の画家は、そして、君は、こんなにも苦労していたのか。と、痛感した。昔から、自分には絵の才能があると変に驕っていたせいで、ああ、僕はもう、昔のように絵を描けなくなったのかもしれない。いいや、僕には、才能なんてもの最初っから無かったのだろう。だが、僕は、もうそれ程長くはないのだから、この命果てる前に、必ず、この絵を描ききって見せようと思う。真白の雪の中、山吹の瞳(め)を持った君が、色鮮やかな花束を持っている、そんな絵だ。きっと、僕の最高傑作であるから、是非とも期待していて欲しい。

遠野朔太郎


「嘘だろう、これは、どういうことだ、」

全て読み終えて、恐ろしくなった。僕は咄嗟に、ぐしゃり、ときつく手紙を握り締めた。あのとき燃やした、黄色い百合の絵は、彼のもので、あのあやめの絵こそが、僕の作品だったのだ。才能に溢れた彼の絵の、模倣。少女が見間違えてああ言ったのは、無理もなかった。それに、この、名前。九重和泉とは、ほんとうは、彼の名で、僕は、遠野朔太郎。そして、僕が少女の、本当の父親であったのだと。百合の絵がこのアトリエにあったのを見るに、ここは、僕の家では無い。ならば、何故、僕はここで、彼の絵を描いているのだろう。

「どうして、……」

加えて僕は、単なる絵描きで、画家にすら成れぬ、落ち零れ。彼の才能を目前として、ようやっと自らの才の無さに気付いたのだと、手紙にあった。彼の誕生日に送られたこの手紙。先程初めて封を切ったのだから、彼はこの手紙を、読んでいないということだ。きっと、その前に、彼は死んだ。恐らく、何度も夢に出てきたあの海。あそこで、彼の命は途絶えた。それが、誰の手によるものなのか、というのは、わからない。────否、わかっては、ならないのだと思う。

「……まさか、僕が」

しかし、僕の脳みそは、勝手に真実を突き止めてしまった。もはや、忘れていた頃に戻れやしない。全て、思い出してしまったのだ。四月十七日。彼の、誕生日であり、命日だということ。あの海で、僕が、彼を殺したのだということ。そして、彼の首に込めた力、彼の体温。頬を流れた涙。死に際の言葉の意味まで、一言一句違わずに、全て。

「僕は、何という、……」

嗚呼、ああ、僕は。何と罪深き人間か。しかし、懺悔しようにも、彼は居ぬ。今更、思い出したところで、何を悔やもうと、彼は僕に救いの手を伸ばすことや、慈悲を与えることなど、決してないと、今、この場で、断言出来る。

「ならば、僕に出来る事は、……?」

ただひとつ。死することが贖罪か? いいや、生きて、生きて償わなければ、ならない。しかし、息を止めて彼岸へ行くのも、息を潜めて此岸に留まるのも、結果は同じ。己を罰し、果てには殺したとて、晴れる罪など、ひとつも無く、僕が罪人だと云う事実は、変わらないのだから。嗚呼、でも、それでも。やはり、僕は人を殺めたのだから、この命を以て罰を受けることのみが、僕に残された選択肢なのだとしか、考えられない。思えば、もう充分なのではないか。僕は、充分生きた。彼への絵は、完成し、少女も、斎森へ託した。もはや、この世に思い残す事などなかった。最後彼へ、詫びさえすれば、(いや、意味などないのだろうが、謝りたい。誠心誠意、彼に。許されないということは、とっくにわかりきっているけれど。)僕の人生は良いものになるのだ。

「……和泉、僕は、決めた。君の元へ、行くよ。憎まれたって、構わない。僕は、君を殺した罪人なんだから」


 手紙をしまおうと、ふと、彼の机の中を見れば、自死をするにはお誂え向きの、既に結んである麻縄がひとつ。そういえば、あの時彼は、もう死にたいから、数日前、首でも括ろうかと思って縄を用意していたのだけど、まだ君と酒を飲んでいなかったから、思い留まった。アトリエに置いてあるのだけれど、どう処分しようか迷っているのだ。と、言っていた。

「丁度いい、僕が使ってしまえば良いだろう」

そう思ってからは、早かった。藤椅子に登り、梁に麻縄を括り付けた。その瞬間感じる、不気味なまでの冷たさ。嗚呼、彼が居るというのが、はっきりとわかる。ひたりと背に伝わる、死の体温と、彼の指先。麻縄を握る僕に、爪を立てている。じっとりと、全身に冷や汗が滲む。がちがち震え、力の抜けていく手で、僕は焦燥に苛まれながら、輪に首を通し、背後の彼に向けて言葉を放った。


「なあ和泉、僕を許すなよ。僕は君の元へは行けないから、今この場で言うけれど、今まで、ありがとう。そして、すまなかった。いくら君が僕に、殺してくれと頼んだからって、それを実行したんだから。だって、本当はね、僕は君が死にたいと言ったこと、嬉しかったんだ。やっと、僕が称賛される日が来るんだと思ってね。けれど、無理だった。遠野朔太郎では、どうしても売れなかった。だから、君の名前を使わせてもらったんだ。そうしたら、世間皆、僕のことなんか忘れっちまって、変わらず、君の名を称え続けた。それが嫌で嫌で、だから、僕が君を殺したなんてこと、忘れて、君として生きてやろうと思っていたのに。あの時君を殺して、一年も、九重和泉としてやってこられたのに。ある日突然、本当に何もかも忘れてしまって、……ああ、あのまま忘れていたら、良かったのに、僕の書いた嘘の訃報が届いてしまったばっかりに、僕は律儀にも、君の死を探り始めてしまったから、……だから、いけなかった。だけれど、全てもうここまでなのだ。僕は、贖罪を遂げて、朔真は、斎森の元で、これから幸せになってゆくはずなのだから。それじゃあ、最後に。僕は、これから地獄に落ちてゆくから、そこで嗤って見ていたまえよ。さらば、和泉。永遠に」


 彼の絵の前で、僕は、思い出の藤椅子を蹴り飛ばす。苦しみなどは、もはや感じず、むしろこの魂は解放せられ、やけに晴々とした心持のまま、やがて僕の息はぷっつりと絶えた。



 駆け付けた少女と画家は、一歩及ばず、しんと静まり返ったアトリエに、ゆらゆらぶら下がっている、哀れな男の姿を、ただただ見つめる事しか、出来なかった。少女の頬を、一筋二筋、次々に涙が伝う。少女は、男の体に縋りつき、声を上げて、がくりと泣き崩れた。


 お父様、お父様。悲痛な叫びを聞きながら、画家は、自らの過去を、想い起こした。嗚呼、確か、あの時あの人が、言っていた。人の一生、人のこころは、なんとも脆く、儚く、しかし、立派な、砂の城のようなものです。と。


「ああ、まさしく、その通りですね」


 そうして画家は、己の罪を思い出し、わなわな震える両の手を、きつく、きつく、握り込んだ。羽織に染みた血液を流す、ひどい雨の匂いは、部屋を包む甘い百合の香りと混じって、なんとも居心地の悪く、そしておそろしい、罪の香りと化した。画家は、涙を堪えるように、ぎりと唇を噛んでいた。



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