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  • 痺れますね。
    一卵性双生児という存在は、
    何か亡霊のような不気味さがあるモチーフとして描かれる事があるのか、という感想が偏見も入った意味で心に浮かんでいたのです。
    間違われる、という事を一種のフリークスとして捉える意味での不気味さの事なのですが、何か独特な存在として一卵性の双子という存在があって、この物語では、これ以上にない愛情の込められた名前の付けられた双子の少女としてこの二人は出てきます。
    死が受け入れられないというのは、ごく分かる心情だとするなら、もう一度自分自身も死ぬ事でしかそこ背きの感情を拭い去る事が出来ない。
    己だけ生き残るというのは裏切りであるという隠れた主題を感じずにはいられません。
    この物語は、右手と左手を間違えずに頭に乗せるという形で、この家族の幸せを形容した。
    実は左右の手で長男と次男に交差をさせて手を置き、弟の方を頭として祝福をするという主題が旧約聖書でよく描かれています。
    その時に、「こちらが長男だからこちらを右にしなくてはいけません。」と言っても「いや、弟の方が偉大になり、また兄もまた一つの大きな民になる。」という描写がマナセとエフライムの箇所。エサウとヤコブの箇所、さらに言えばアベルとカインの箇所と、開始間もない箇所で三回も弟を兄よりも立てる記述が見られるのです。
    こういった、幻想的で寓的な物語というのは原元モチーフという神話から繰り返し人びとが行っていた抗いがたいストーリーへのアンチテーゼ——対抗、抗い——が含まれる物だと最近考える事があります。
    私自身は抗わすその真をこそ掘り下げより鮮烈に、より強く、より分かりやすく再提示し一切の改変をしない人間なのでそれが出来ないのですが、そうです。姉と妹を間違えたままでは、姉と妹は、そのやさしい嘘の中で守られているままで、嘘のない、裏表のない、母の心が痛みでもって亡き夫への償いをしない世界では、母と生きる事は出来ないのです。
    果たして償いというのはどこまで続ければ完成するのでしょう。それは一度きり、罪を自覚し、その罪が罪などではなかったという赦しを得れば、その一度きりで安けさを得てよいものだと私は思っています。
    この母は、自ずからの力で、自分自身を殺すところまで娘達を愛し切る事で、己を赦すことが出来た。これが、彼女にとっての罪滅ぼし。
    命には命を。目には目を、歯には歯をで、彼女のするべき事を波乱の中で貫いてみせたのです。
    寄り添うピエロは、トリックスターのようではなく善良な男として描かれており、目立ちませんが、しかし、彼が起点となり、娘がそのまま罪に囚われている母を憶い悲しんでいる事に気付きはじめる一因になったようにも感ぜられる。
    亡き夫が悪いのでも、亡くした妻が悪いのでもない。残された者が辛い、ただそれだけの事を純真な娘は「大人」という存在に流れる異質な暗い塊に目を向け、そしてそれを救い出すのは自分達の純真にしかないと知っていたのかもしれません。
    ピエロは波乱をもたらしました。道化、トリックスターの存在が見事に展開を差し込んだ好ストーリー。されど、水でもって、また肉でもって給餌するこの姉妹が求めていたのは、曇りのない心で、今も自分達は何も欠けているものなどないという事を己の「血」と、母の「償う気持ち」にある中に確かに見い出して、そして、命を賭けるという物語によって彼女は、娘達の母は確かに贖われたのです。
    それによって、意味の込められた娘達の名は掛け違えられる事はなくなりました。愛は愛として、好は好として、混乱がない、混沌がない世界がこの物語には訪れたのです。
    命を賭する経験に踏み出してこそ初めて、報われなかった罪責の念や、真の罪責から解放される事が出来る。
    人は、必ず心に己を許せない感情や後悔を宿してはいても、大きな掛け違えに苦しみそこから来る間違いの輪廻から抜け出せなかったとしても、命を持って叫び、行った時、それは例え相手が故人であっても届く真の力になる。
    そこにあるのは平穏な食卓。安けさがある、愛のみが流れ、好きだという喜びだけが響く、美しい音楽の流れる家族の食卓が、長く続いていくことなのでしょう。
    この娘達はこのドラマを越える事で人より強い双子の少女に、そして掛け違えを克服した鉄仮面として歩んでいく事が出来る。
    母はそれを見つめながら、ただ、己の内にいつも愛のみがあったことに心の中で涙を流し、己が夫を失ったという罪を乗り越えたことを夫に感謝しながら、力強い一歩を自分自身という一人の人間として歩んでいくに違いありません。
    力作に感謝をして、感想を綴じさせて頂きます。

    作者からの返信

    応援コメントありがとうございます!

    この物語を、聖書に登場する物語で例えるほどに考え深い視点で読んでいただいけて嬉しく思います!

  • コメントお邪魔します。

    最後のルビがない文章、締めくくり方としてこれ以上にない!という感じがしました。

    読み応えがあって面白かったです!


    大根を3本に切ってフライパン……w

    作者からの返信

    応援コメントありがとうございます!

    これしかないと思ってこのオチにしました、褒めてくださって嬉しいです!

    料理が壊滅してますねw

  • カラスde.cat orダイへの応援コメント

    美しい……非常に美しい。
    しかし、少女が単に主人公に危険を知らせるがだけの物語なのだとしたら、
    この少女の存在はなぜ、カラス、という抽象的な表現として危険を知らせたのだろう?
    謎めいた表現で危険を知らせる必要が、あったのだろうか?
    少女は涙ながらに訴えているようにさえ思える。この方法しか取れなかった。
    つまり、ゲームを通じてでしか危険を知らせる事が出来なかったという何らかの制約があっだ筈なのだ。
    枕元に立って、ただ逃げろという訳にはいかなかった。どうしても、遊びの中で。
    それがもっとも安全に危険を知らせる方法でもなく、また、安全を保障する為にゲームを通じて勘付かせるのが、得策であるなら、この結末は訪れない。
    つまりこれは、主人公の希みを叶えたと取ることは出来ないだろうか。
    出来ることなら、主人公に逃げてはほしかったが、主人公は主人公なりに怜と呼ばれる女を愛しており、殺されるかも知れないことを察知していた。
    少女の願いはそこから逃げて生き延びる事だが、少女は少女で、実は生への執着を最優先しているわけでもなく、また、現実的な人間のように死というものを烈しく畏れ忌避する存在では既にない。
    危険を知らせる、ということを、遊びの中で伝える、という事にのみ、自分の出来ることを見出し、その中に微かな願いを忍ばせているものの、主人公に選択を委ね、それを尊重する意思があるのだとしたら。
    しかし思うに、主人公は、怜を愛するなら怜の異常さに気付いているのなら、彼女の心の暗がりをこそ、どうにか満たしてあげるべきだった。
    しかし、闇だ。彼女の心の暗がりは人の死で以てしか補えない。そうであるならば。
    彼女を満たす死というものは、一体彼女にとって何であるのだろう。
    それは生そのものだろうか。死を見ることで、彼女はどのような生を感じるのだろうか。
    彼女の心の歪みは、主人公にどのような救いを求め、彼と登下校を共にし、そこに手を下す決断に至ったのだろう。
    それは快楽なのだろうか。純粋なだけの陶酔がそこにあるのだろうか。
    その陶酔の後に、次なる陶酔をただただ繰り返すだけだとしたら、何のための陶酔なのだろうか?
    酒飲みが陶酔をするのは、哀しみを癒やす為ではないだろうか。
    寂しさを紛らわす為、ではないだろうか。
    彼女を陶酔させるものが、死、というあまりに強い刺激であるとすなら、彼女の心にある哀しみというのは、本当に深くないのだろうか。
    酒飲みは、酒をどこかで辞めたがっているものではないか?
    ただ、酒に溺れている自分を歓びとして、その酒を純粋善として歓びに浸っている酒飲みがいるだろうか?
    生命とは陶酔というものに純粋に永遠の歓びを見出せるようには出来ていない。
    その反復には欠乏以上の代償があり、またそれは身体的な、ただ単純に身体的な、失われた何かに対する補填というものではなく、その始まりには精神的な大きな失望が伴っているはず。
    彼女が自らのブローチに込めたものとは「私から逃げて」という彼女の中の微かな善と取ることが出来るなら、それは、
    酒飲みが「本当はお酒を辞めたい」と言いながら、恋人に縋っている心理に似ていると言えないか。
    しかし、酒を辞めさせる事はその場合は愛によっては困難であるように、
    この場合に彼女に殺人を辞めさせる事は愛によっては困難であっただろう?
    そうならば酒とは何の為にあり、
    人の死とは、極論、殺人という彼女にとっての美酒は何の為にあるのかという事になる。
    陶酔とは、何の為に?
    酒が悪とは言い難いが、殺したい程の生への執着というのも、本質的には悪とは言い難い。
    だが、人を殺すことが、善い事の筈はなく、陶酔を反復するように人を殺す事は、明らかに多くの痛み苦しみどころか、掛け替えのない生命を次々に奪う事の筈だ。
    怜、と呼ばれる彼女にもし救いがあるとするなら……それは、性、くらいしか思い浮かばなくなってしまう。性に溺れ、性の陶酔の中で死以上の愛に浸っていくこと。
    しかし、それも、答えにはならない。
    根気強い、説得と、快楽に依存してしまうその報酬への反応の仕方そのものを変えられなければ、彼女の運命を変えることは出来なかっただろう。
    身体というものの、絶望がここにある。
    身体は脆く、身体的快楽というのはあまりにも、心を癒すには不十分なものであるということを言わなければならない。
    心を癒やすのは心であって、本来は完成されるのに、人間には身体という慰めがある。
    飢えや寒さを凌ぐのは、生命の大切さを知ることになる。
    しかし、快楽というのは本来、欠乏の充足によって得られるものである一方で、陶酔という依存症を産んでしまう。
    その依存性の克服は困難であり、これな生命の仕組みの中で最も極端な傷つきの形と言っても過言ではない。
    死の瞬間まで、その快楽に抗えず、ただ陶酔の中で己自身を慰め続ける生涯というのが存在してしまうからだ。
    精神は精神によって慰められるべきものだ。
    人の死によってしか慰められない精神というのは、それは、性を以てしても、また酒を以てしても、完全には治しきることが出来ない。
    そこにはあまりにも多くの忍耐と、鋭い苦しみへの洞察、また快楽への厳しい禁止の通達が必要なことが想像される。
    この怜という女にしてあげられること、それは先ず殺人の歓びに共感をする事、しかし、同時にそれは非常な苦しみをもたらす事を教える事、もっともよくない陶酔であることを知らせた上で、もっとよい陶酔があることを、どうにかして教えてあげるしかないのではないだろうか。
    その純粋善の陶酔に彼女が簡単に納得するとは思えなくても。
    それ以外に彼女を止める方法はないように思える。つまり、主人公は逃げるしかなかった。
    心を鬼にする他なかった。
    少女は正しかった。悲しくも、美しく、また真実を伴った物語だと感想が漏れるばかりだ。

    作者からの返信

    応援コメントありがとうございます

    多くの考察をありがとうございます
    作者よりも作品を考えてくれていてびっくりしました

    これからも多くの短編を書いていきたいので、こういった考察はとても励みになります!