第21話 すれ違う心、そして見えない亀裂
隣国での大成功は、「エミリー・デザイン」を世界的なメゾンへと押し上げた。宮廷の依頼は絶えることなく、リチャードが主導する国際的な事業拡大は、目覚ましい成果を上げていた。エミリーの名は、美と革新の象徴として、社交界の頂点に君臨していた。しかし、この輝かしい成功の裏で、エミリーとリチャードの心には、見えない亀裂が広がり始めていた。
リチャードは、その才能と行動力で、事業の規模を指数関数的に拡大させていった。彼は、世界の主要都市に新たな拠点を設立し、高級百貨店との提携を進め、ファッションショーを企画した。彼の瞳は常に、数字と市場、そして、未来のビジョンに輝いていた。エミリーは、彼の成功を心から誇らしく感じていたが、彼の言葉の端々から、かつて彼女の魂の輝きを見抜いた、あの純粋な情熱が、薄れていくのを感じ取っていた。
エミリーは、以前のようにリチャードと語り合う時間が少なくなったことに、深い寂しさを覚えていた。彼は、多忙な日々の中で、エミリーのアトリエを訪れる回数も減っていた。たとえ訪れても、会話は常に、次のコレクションのデザインや、事業の進捗状況といった、ビジネスの話題ばかりだった。二人の間には、かつて存在した、言葉では言い表せないほどの心の共鳴が、希薄になっていくような気がした。
ある夜、エミリーは、珍しく早く帰宅したリチャードに、勇気を出して尋ねた。
「リチャード…最近、私たち、あまりゆっくり話せていませんね。何か、悩んでいることはありませんか?」
リチャードは、一瞬、戸惑った表情を見せたが、すぐに笑顔を作った。
「心配ないよ、エミリー。今は、事業拡大の重要な時期だからね。少し忙しいだけさ」
彼の言葉は、穏やかだったが、エミリーの心には、氷のような冷たさが走った。彼は、自分の心の奥底を、見ようとしていない。あるいは、もう、見えなくなってしまっているのかもしれない。
「でも…私、あなたが、以前のように、私のドレスを…ただ美しいだけでなく、そこに込められた物語を語ってくれることが、少なくなった気がするんです」
エミリーの声には、切ない響きが混じっていた。リチャードは、彼女の言葉に、初めて真剣な表情を浮かべた。
「エミリー…私は、あなたのドレスの無限の可能性を信じている。その美しさが、もっと多くの人々に届くように、私は、ビジネスの力を尽くしているだけだ。それが、あなたの夢を、真に叶えることだと信じている」
リチャードの言葉は、彼の揺るぎない信念を示していた。しかし、エミリーの心に、それは響かなかった。彼女が求めていたのは、ビジネスの成功だけではなかった。それは、ドレスに込められた魂を、リチャードが以前のように、心から理解し、共感してくれることだった。
「私の夢は…ただドレスを作ることだけではないんです。それは、ドレスを通して、人々の心を温め、希望を与えること。路地の片隅で、私が初めて針と糸を持った時からの、変わらない願いです」
エミリーの声は、熱を帯びていた。彼女は、リチャードが、この原点を忘れているのではないかと、不安に感じていたのだ。
リチャードは、エミリーの言葉に、深い沈黙を返した。彼の瞳は、遠くを見つめ、どこか葛藤の色を帯びていた。彼は、エミリーの理想と、現実のビジネスの狭間で、自分自身の価値観が揺らいでいることに気づいていたのかもしれない。
その夜、二人の間に、埋めがたい溝ができたような気がした。言葉は交わされているのに、心は、すれ違っていく。
工房の職人たちも、エミリーとリチャードの間にある、微妙な変化に気づき始めていた。以前は、二人が並んで作業台に向かい、時に笑い合い、時に真剣に議論を交わしていたが、最近では、その機会も減っていた。彼らは、二人の絆が、成功という重圧に蝕まれていくのではないかと、不安に感じていた。
そんな中、エミリーは、新たなプロジェクトに着手した。それは、リチャードが提案した慈善事業の一環として、貧しい子供たちのための、特別なドレスの制作だった。彼女は、この仕事に、宮廷のドレスをデザインする時以上の情熱を注いだ。路地の片隅で、自分を支えてくれた人々の優しさを思い出し、恩返しの心を込めて、一針一針縫い上げた。
完成したドレスは、豪華な素材や装飾はないものの、着る子供たちの未来を祝福するような、温かい輝きを放っていた。エミリーは、そのドレスを、子供たちに手渡すため、自ら貧しい地域へと足を運んだ。
子供たちの、純粋な喜びと、輝く瞳を見た時、エミリーの心は、言いようのない充足感で満たされた。それは、宮廷でのどんな成功よりも、はるかに温かく、真実の喜びだった。彼女は、自分の創作の原点を、改めて再認識した。
その夜、エミリーは、工房に戻り、リチャードに、子供たちの様子を語った。彼女の顔は、喜びで輝いていた。しかし、リチャードの反応は、エミリーが期待していたものとは違った。
「それは、よかったね、エミリー。今回のチャリティイベントは、ブランドイメージの向上にも大きく貢献するだろう。次のコレクションのプロモーションにも、効果的に活用できるはずだ」
リチャードの言葉は、まるで、エミリーの心に冷水を浴びせるようだった。彼の瞳は、相変わらずビジネスの成功を見据えており、そこに、エミリーが感じたような、純粋な喜びや、社会貢献への共感は、見られなかった。
エミリーの心臓が、ズキリと痛んだ。彼女は、リチャードが、もはや自分の心を理解してくれないのではないかと、深い孤独感に包まれた。彼らは、同じ夢を追いかけているはずなのに、その夢の捉え方が、大きくすれ違ってしまっていたのだ。
路地の花は、今、名声という眩い光の中にいた。しかし、その光の中で、彼女は、愛する人との心のすれ違いという、新たな闇に直面していた。エミリーの物語は、成功の代償としての心の葛藤と、絆の危機という、最も切ない章へと、その舞台を移したのだ。このままでは、二人の間に、修復不能な亀裂が生じてしまうかもしれない。
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