第20話 勝利と、そして、新たな孤独の予感

舞踏会の夜、エミリーは、工房の静寂の中で、遠い王国からの知らせを待っていた。疲労困憊の体と、重圧にすり減った心。職人たちの病欠という未曾有の危機を乗り越え、文字通り魂を削って完成させた女王のドレスが、果たして隣国の社交界でどのような評価を受けるのか。その一点が、エミリーの未来、そして「エミリー・デザイン」の命運を左右するのだ。アンナとリチャードもまた、エミリーの傍らで、静かに、しかし、張り詰めた面持ちでその時を待っていた。


夜が更け、時計の針がゆっくりと時を刻む。外では、しんしんと雪が降り続いていた。凍えるような寒さの中、エミリーの心臓は、激しく鼓動していた。もし、失敗したら。もし、女王の期待を裏切ってしまったら。そんな恐ろしい想像が、頭の中を駆け巡った。


そして、夜明け前、ついに一通の早馬が工房に到着した。差出人は、隣国の宮廷からだ。リチャードが、震える手で封蝋を破り、書簡を広げた。その場の全員が、固唾を飲んで彼の言葉を待った。


リチャードの瞳が、書簡の文字を追うにつれて、次第に喜びと、そして、安堵の光で満たされていく。そして、彼は、深呼吸をして、はっきりと、しかし、感動に震える声で告げた。


「…成功だ…!大成功だ、エミリー!女王のドレスは、舞踏会で絶賛の嵐を巻き起こしたそうだ!『まるで、空から舞い降りた天使の羽衣のようだ』『これほどまでに、国の威厳と美しさを表現したドレスは見たことがない』と…」


リチャードの言葉が、工房中に響き渡った瞬間、それまで張り詰めていた空気が、一気に解放された。アンナは、目に涙を浮かべ、エミリーを強く抱きしめた。見習いたちも、歓喜の声を上げ、互いに抱き合って喜びを分かち合った。エミリーの目からも、大粒の涙が溢れ出した。それは、喜びと、安堵と、そして、計り知れない達成感の涙だった。


彼女のドレスは、単なる衣服ではなく、二つの国の平和の象徴となったのだ。エミリーの名は、隣国にも轟き、**「奇跡のデザイナー」**として、その名を歴史に刻んだ。工房には、この偉業を称える祝電や花束が殺到し、エミリー・デザインは、国際的な名声を手に入れた。


数日後、疲れが癒え、落ち着きを取り戻したエミリーは、リチャードとアンナと共に、今後の事業展開について話し合った。リチャードは、この成功を足がかりに、さらなる国際的なビジネス展開を提案した。遠く離れた大陸の、まだ見ぬ国々への進出。それは、エミリーが路地で漠然と夢見ていた、「もっと広い世界へ」という願いを、具体的な現実へと変えるものだった。


「エミリー。あなたのドレスは、国境を越え、言葉の壁を越えて、人々の心を動かす力を持っている。今こそ、その力を、世界中に広める時です」


リチャードの瞳は、未来への限りない情熱に燃えていた。エミリーもまた、彼の言葉に強く心を動かされた。彼女の胸には、新たな創造への意欲が、再び燃え上がっていた。


しかし、その輝かしい未来のビジョンの影で、エミリーは、ある変化に気づき始めていた。


リチャードは、この大成功を受けて、より一層、多忙を極めるようになった。海外の有力者たちとの交渉、新たな工房の設立準備、広報活動の指揮。彼の時間は、常に分刻みで管理され、エミリーと共に過ごす時間は、以前に比べて格段に少なくなった。


「リチャード、最近、疲れてませんか?」


エミリーは、時折、彼の顔に疲労の色が見えるのを見て、心配そうに尋ねた。リチャードは、いつも笑顔で答えた。


「大丈夫だよ、エミリー。これも、すべて、あなたの夢を叶えるためだから」


彼の言葉は、エミリーの心を温めたが、同時に、かすかな寂しさも感じさせた。彼が、自分ではなく、「エミリーの夢」のために頑張っている。それが、彼女の心に、複雑な感情を呼び起こした。


ある夜、エミリーは、久しぶりにリチャードと二人きりで夕食をとった。以前は、互いの夢や、日々の出来事を語り合ったが、この日は、リチャードの口から出るのは、新しい事業の計画や、数字の話ばかりだった。彼の瞳は、常に輝いていたが、それは、ビジネスの成功への情熱であり、以前のように、エミリーの魂の輝きに焦点を当てていた頃とは、少し違っているように感じられた。


エミリーは、話の途中で、ふと、彼の言葉を遮った。


「リチャード…私たちは、何のために、ここまで来たのでしょうか?」


エミリーの問いに、リチャードは、一瞬、困惑した表情を見せた。


「それは、もちろん、あなたの夢を叶えるためだ、エミリー。そして、この工房を、世界一のメゾンにするためだ」


リチャードの答えは、理路整然としていた。しかし、エミリーが求めていたのは、そんな答えではなかった。彼女は、もっと、心の奥底にある、純粋な願いを確かめたかったのだ。


「…人々の心を豊かにすること…美と創造の力で、社会を明るくすること…それが、私たちの始まりだったのでは、ないでしょうか?」


エミリーの言葉は、まるで、凍った湖に小石を投げ入れたかのように、静かに、しかし、深い波紋を広げた。リチャードの瞳に、かすかな動揺の色が浮かんだ。彼は、確かに、社会貢献というビジョンも持っていたが、目先の成功と、事業の拡大に追われる中で、その原点を、少し見失いかけていたのかもしれない。


その夜、二人の間に、これまでにはなかった、見えない溝が生まれたような気がした。リチャードは、エミリーの言葉に、深く考え込んでいるようだった。


エミリーは、この大成功の裏で、リチャードの心が、ビジネスの輝きに囚われつつあることを感じ始めていた。彼の瞳は、確かに未来を見据えているが、その輝きは、かつて彼女の魂の輝きを見抜いた時の、あの純粋な光とは、少し異なっているように見えたのだ。


路地の花は、今、世界的な成功という眩い光の中にいた。しかし、その光の中で、彼女は、愛する人の心の変化という、新たな孤独の予感に包まれ始めていた。エミリーの物語は、成功の頂点で、人間関係の複雑さと、価値観の相違という、新たな試練に直面する章へと、その舞台を移したのだ。


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