第16話 社交界の狭間、秘められた感情の萌芽
宮廷専属デザイナーとしての名声は、エミリーに限りない栄誉と、終わりのない創作の機会をもたらした。彼女のドレスは、女王の威厳を象徴し、国の顔として国内外の注目を浴びた。しかし、その輝かしい成功の裏で、エミリーは、自身の心が求める真の充足とは何かを模索し始めていた。リチャードとの会話は、彼女の中に、宮廷の華やかさだけではない、人々の心に触れる美しさを追求する新たな情熱を灯した。
アトリエでの創作は、エミリーの魂を震わせるものだった。最高級の絹が指先を滑り、宝石のような刺繍糸が光を放つ。彼女は、王室の伝統と自身の革新的な感性を融合させ、比類なきドレスを生み出した。しかし、夜、一人アトリエに残された時、その完璧な美しさの中に、一抹の虚しさを感じることもあった。それは、まるで、自分の心が、ドレスの中に閉じ込められているかのようだった。
ある日の午後、エミリーは、女王からの新たな依頼を受けるため、宮殿の一室に呼び出された。そこで彼女は、思いがけない人物と再会することになる。それは、かつて工房を訪れ、エミリーの才能を軽んじた、あのセシリア貴族令嬢だった。
セシリアは、以前にも増して華やかなドレスを身につけ、その顔には、相変わらずの高慢な笑みが浮かんでいた。彼女は、エミリーの姿を認めると、一瞬、驚きの表情を見せたが、すぐにその表情を消し、冷淡な視線を向けた。
「あら、あなた。まだこんなところで、こそこそと針仕事を続けているの?」
セシリアの言葉は、まるで過去の屈辱を思い出させるかのように、エミリーの心を抉った。エミリーは、自分の現在の地位を誇示するでもなく、ただ静かに、セシリアの言葉を聞いていた。
その時、リチャードが、ちょうどその部屋に入ってきた。彼は、女王への報告のために宮殿を訪れていたのだ。リチャードは、エミリーとセシリアの間に流れる不穏な空気に気づくと、すぐにセシリアに挨拶をした。
「セシリア様。ご機嫌いかがですか?まさか、このような場所で、エミリーさんとご一緒にお目にかかるとは」
リチャードの登場に、セシリアの顔色が、一瞬にして変わった。彼女は、リチャードが、この国の有力な実業家であり、社交界でも一目置かれている存在であることを知っていたからだ。セシリアは、媚びるような笑みを浮かべ、リチャードに応対した。
「リチャード様。まぁ、偶然ですね。ええ、わたくしは至って元気ですわ。この方が、女王陛下の新しいお召し物を担当されていると伺いまして…」
セシリアは、言葉巧みに、エミリーへの軽蔑の言葉を、称賛の言葉へとすり替えた。エミリーは、そんなセシリアの豹変ぶりに、驚きを隠せなかった。
リチャードは、セシリアの言葉に、何も言わず、ただ静かに微笑んでいた。しかし、その瞳の奥には、セシリアの本質を見透かすような、鋭い光が宿っているのを、エミリーは感じた。リチャードは、エミリーの過去の境遇も、セシリアとの軋轢も、すべて知っていたのだ。
女王との打ち合わせは、滞りなく進んだ。女王は、次の晩餐会で身につけるドレスのデザインについて、エミリーに具体的な要望を伝えた。その場に同席していたセシリアは、女王とエミリーの親密な会話を、悔しそうな表情で聞いていた。
打ち合わせが終わり、セシリアが去った後、リチャードは、エミリーに近づいた。
「セシリア様とは、また会うことになるとは思いませんでしたね」
リチャードの言葉に、エミリーは苦笑した。
「ええ…彼女は、私のことを、まだ路地裏の物乞いだと思っているようです」
エミリーの声には、かすかな諦めが混じっていた。どれだけ成功を収めても、自分の出自が、常に影のように付きまとう。それが、エミリーの心の奥底に潜む苦悩だった。
リチャードは、そんなエミリーの肩をそっと抱き寄せた。その温かい手に、エミリーの心臓が、再び大きく鳴った。彼の温もりは、エミリーの不安を、そっと溶かしていくようだった。
「エミリーさん。他人の評価など、気にする必要はありません。あなたの真の価値は、誰かの言葉や、あなたの出自で決まるものではない。それは、あなたが作り出す作品の美しさと、あなたの心の輝きによって決まるのです」
リチャードの言葉は、エミリーの心に、深い安堵と、温かい感情をもたらした。彼は、いつも、エミリーの最も弱い部分に寄り添い、彼女を支えてくれた。彼が、どれほど自分のことを理解してくれているのか、エミリーは改めて痛感した。
「あなたを信じるのは、あなたの作品だけではない。私たちがいる。アンナさんも、私も、あなたの人間性そのものを信じている」
リチャードの言葉は、エミリーの心に、静かなる光を灯した。彼女は、彼の瞳を見つめた。そこには、単なるビジネスパートナーとしての関係を超えた、深い信頼と、そして、かすかな愛情の光が宿っているように見えた。
その夜、エミリーは、リチャードの言葉を反芻しながら、アトリエで一人、ドレスに向き合っていた。これまで、彼女の人生は、自分の力で切り開いてきた。しかし、今、リチャードというかけがえのない存在が、彼女の傍らにいる。彼の存在は、エミリーの心を温め、彼女の孤独を癒してくれた。
エミリーは、リチャードへの特別な感情が、自分の心の中に、ゆっくりと、しかし確実に芽生え始めていることに気づいた。それは、これまで感じたことのない、甘く、そして、切ない感情だった。彼は、彼女の才能を誰よりも理解し、彼女の心を誰よりも深く支えてくれる存在だった。
この日、エミリーは、宮廷の華やかな社交界の片隅で、自身の心の変化に気づいた。成功と名声の光に包まれながらも、彼女の心は、真の愛と絆を求めていたのだ。路地の花は、今、新たな創造の喜びを見出し、そして、秘められた感情の萌芽によって、さらに美しく、そして、人間らしく輝き始めていた。彼女の物語は、心の内なる変化と、愛の予感の章へと、その舞台を移したのだ。
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