第3話 古びた絵本と、心の奥底の憧れ

路地裏図書館での日々は、エミリーの人生に、まるで魔法をかけたかのような変化をもたらしていた。これまで、色彩のないモノクロームの世界で生きてきた彼女にとって、本は、あらゆる色と光に満ちた、未知の領域へと誘う扉だった。文字を一つずつ読み解くたびに、彼女の視野は広がり、心の中に、これまで知らなかった感情が芽生えていった。特に彼女の心を捉えたのは、図書館の片隅にひっそりと置かれていた、一冊の古びた絵本だった。


その絵本は、他のどの本よりも色褪せ、表紙も擦り切れていた。まるで、幾人もの手が、愛情を込めて触れてきた証拠のようだった。エミリーは、その絵本を初めて手に取った時、微かな震えを感じた。それは、図書館の女性が読んでくれた冒険物語とは全く異なる、不思議な感覚だった。


絵本を開くと、そこには息をのむような美しい挿絵が描かれていた。描かれていたのは、豪華絢爛なドレスをまとった貴婦人たち。彼女たちのドレスは、絹の光沢を放ち、繊細な刺繍が施され、まるで生きているかのように輝いていた。特にエミリーの目を奪ったのは、物語の終盤に登場する、主人公が身にまとったウェディングドレスだった。純白の布地が幾重にも重なり、レースが優雅に縁取られ、まるで天から降りてきた天使の羽衣のようだった。


「これは、本当に存在するドレスなの?」


エミリーは、絵本の中のドレスに魅入られ、思わず呟いた。図書館の女性は、エミリーの隣に座り、優しく微笑んだ。


「ええ、これは、かつてこの町に存在した、伝説のドレスメーカーの物語なんだよ。彼女の作るドレスは、身につける人の心を輝かせ、まるで魔法にかかったかのように、その人を美しく変身させたと言われているんだ」


女性の言葉に、エミリーの胸は高鳴った。伝説のドレスメーカー。魔法のようなドレス。彼女の心に、これまで感じたことのない、強い憧れが芽生えた。路地裏の飢えや寒さとは無縁の、美しく、華やかな世界。その世界に、自分も足を踏み入れてみたい。そんな、突拍子もない夢が、エミリーの心の中で、ゆっくりと形を成し始めた。


それ以来、エミリーは、図書館に通うたびに、その古びた絵本を何度も何度も読み返した。文字を覚えたての彼女にとって、絵本の物語は、まるでパズルのピースを埋めていくかのように、新たな発見に満ちていた。そして、物語を読み進めるたびに、ドレスメーカーの技術と、彼女がドレスに込めた想いが、エミリーの心に深く響いた。


絵本には、ドレスメーカーが使用した道具や、生地の種類、そして、ドレスを制作する過程が、詳細な挿絵と共に描かれていた。エミリーは、その挿絵を食い入るように見つめた。鉛筆を握り、借りてきた紙の切れ端に、見よう見まねでドレスの絵を描いてみた。しかし、どれだけ模写しても、絵本の挿絵のような、生命力に満ちたドレスを描くことはできなかった。


「どうすれば、こんなに美しいドレスが作れるのだろう…」


エミリーは、絵本の中のドレスメーカーの指先が、まるで魔法のように動いているのを想像した。彼女の心は、ドレス制作の秘密を知りたいという、強い探究心に駆られていた。


ある日のこと、エミリーは、路地裏を歩いていた時、道の脇に捨てられていた、古くなった布の切れ端を見つけた。それは、色褪せ、汚れもひどかったが、エミリーの目には、ドレスメーカーが使用していた生地のように見えた。彼女は、その布を拾い上げ、指先で触れた。ザラザラとした感触、しかし、その奥には、微かな温かみがあった。


エミリーは、その布の切れ端を大切に持ち帰り、図書館で借りた本の中に挟んだ。そして、図書館の女性に、そっと尋ねてみた。


「あの、この布で、ドレスは作れますか?」


女性は、エミリーの手にある布の切れ端を見て、少し驚いた表情を見せた。


「これは…ずいぶん古い布ね。でも、どんな布でも、心を込めて作れば、美しいものになるわ」


女性はそう言って、エミリーに、小さな針と糸を与えてくれた。それは、これまでエミリーが手にしたことのない、真新しいものだった。針は鋭く、糸は光沢を放っていた。


エミリーは、その針と糸を、宝物のように握りしめた。彼女は、図書館で学んだ文字を、まるで呪文のように心の中で唱えながら、布の切れ端に向き合った。絵本に描かれていたドレスメーカーの指先の動きを思い出し、見よう見まねで針を動かした。


最初は、針がなかなか布を通らず、指に刺さって血を流すこともあった。糸はもつれ、縫い目は歪んでしまった。それでも、エミリーは諦めなかった。彼女の心の中には、絵本に描かれた美しいドレスのイメージが、鮮やかに焼き付いていたからだ。


図書館の女性は、エミリーのその集中力と、決して諦めない姿勢に、静かに感銘を受けていた。彼女は、エミリーが持つ「特別な光」が、単なる知的好奇心だけではないことを感じ始めていた。それは、何かに深く没頭し、創造する喜びを見出す、才能の輝きだった。


日が暮れ、図書館が閉まる時間になっても、エミリーは布と針から離れようとしなかった。女性は、彼女を咎めることなく、ただ静かに見守った。そして、エミリーが完成させた、小さな、小さな布の塊を見た時、女性は思わず息をのんだ。


それは、まだドレスとは呼べないものだった。形も歪で、縫い目も粗い。しかし、その小さな布の塊には、エミリーの魂が込められているかのように、温かい生命力が宿っていた。まるで、路地の片隅で、ひっそりと芽吹き始めた小さな植物のように、そこには、確かな可能性の兆しがあった。


女性は、エミリーの頭をそっと撫でた。


「エミリー…あなたは、本当にすごい子ね。これほど心を込めて作られたものは、きっと、誰かの心を動かすと思うわ」


その言葉に、エミリーの瞳は、これまでにないほど輝いた。それは、単なる称賛の言葉ではなかった。それは、エミリーの心の中に眠っていた、創造への情熱に火をつける、確かなきっかけとなったのだ。


その夜、エミリーは、自分が作った小さな布の塊を抱きしめて眠りについた。夢の中には、絵本の中の美しいドレスメーカーが、微笑みながら彼女に語りかけていた。「あなたにも、きっと出来るわ」。その言葉が、エミリーの心を、さらに深い憧れと希望へと誘っていくのだった。路地の片隅で始まった、小さな物語は、今、静かに、しかし確実に、その次の章へと進もうとしていた。

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