お針子さん物語

たぬき屋ぽん吉

第1話 路地の花、夜明けを待つ

その路地は、常に世界の片隅に追いやられていた。陽光が差すのは一日のうちでほんのわずかな時間、それも壁と壁の隙間からこぼれ落ちる、細く力ない光筋だけだ。石畳は常に湿気を帯び、カビと埃と、そして人々の絶望が混ざり合ったような独特の匂いが、澱んだ空気となってそこに停滞していた。


そんな路地の、最も陰鬱な一角に、エミリーはいた。彼女の年齢を正確に言い当てることは、誰にもできなかっただろう。痩せ細った体躯は幼さを物語っていたが、その眼差しは、幾度となく死の淵を覗き込んできたかのような、深く、そして諦念を滲ませていた。破れかけた麻袋を何枚か重ねただけの服は、彼女の体を凍えるような冬の寒さから守るにはあまりにも貧弱で、常に彼女は身を小さく丸めて、かろうじて体温を保とうとしていた。


飢えは、エミリーにとって日常の友だった。腹を満たすことのできる日など、年に数えるほどしかない。それでも、彼女は死ななかった。それは、奇跡と呼ぶにはあまりにも現実的で、彼女自身の内に宿る、燃え盛るような生命の炎が、どんな逆境にも負けずに燃え続けていたからに他ならない。飢えの痛みで意識が朦朧とする時も、凍える夜に体中の血が凍てつくような感覚に襲われる時も、彼女の心の中には、たった一つの願いが、小さく、しかし確かに灯されていた。


「いつか、この路地を出て、光の当たる場所へ行きたい」


それは、あまりにも漠然とした、幼い夢だった。しかし、その夢が、彼女をかろうじて繋ぎ止める命綱だった。


路地を往来する人々は、エミリーのことなど見向きもしなかった。彼らの目に映るのは、ただの汚れた物乞い、あるいは、厄介な存在として排除すべき対象だけだ。時に、腐りかけたパンの切れ端や、古くなった野菜の葉を投げつけられることもあったが、それすらも、彼女にとっては恵みだった。彼らの冷たい視線や嘲笑は、彼女の心に届くことはなかった。なぜなら、彼女の心は、彼らが決して知りえない、希望という名の砦に守られていたからだ。


ある日の夕暮れ、エミリーはいつものように、壁に背をもたせ、膝を抱えていた。鉛色の空から、今にも雪が降り出しそうな気配が漂い、一層冷たい風が路地を吹き抜けていく。空腹のあまり、胃が痙攣するような痛みを訴えていた。体は震え、唇は紫に変色し始めていた。このままでは、今夜こそ本当に凍え死んでしまうかもしれない。そんな予感が、彼女の全身を包み込んだ。


その時だった。


路地の奥から、一つの影が近づいてくるのが見えた。薄暗闇の中、その影はゆっくりと、しかし確実にエミリーの方へ向かってくる。エミリーは身構えた。これまでにも、酔っ払いや、悪意を持った大人たちが、彼女に近づいてきたことがあった。しかし、その影からは、これまでの彼らとは全く異なる、温かい気配が漂っていた。


影は、エミリーの目の前で止まった。それは、一人の老婦人だった。皺の深い顔には、人生の苦労が刻まれているが、その瞳は、まるで夜空に瞬く星のように澄んでいて、温かい光を宿していた。老婦人は、彼女が首に巻いているはずの、古びた毛糸のショールを外し、そっとエミリーの肩にかけた。


「ほら、寒かろう」


掠れた声で、老婦人は言った。エミリーは、その温かさに、思わず息をのんだ。これまで、誰からもこんなにも優しい言葉をかけられたことはなかった。そして、ショールの温かさが、凍え切ったエミリーの体を、じんわりと包み込んでいくのを感じた。


老婦人は、さらに懐から、小さな包みを取り出した。それは、まだ温かい、焼きたてのパンだった。香ばしい匂いが、飢えたエミリーの鼻腔をくすぐる。


「これを食べておくれ。お腹が空いているだろう」


エミリーは、信じられないものを見るように、老婦人とパンを交互に見つめた。躊躇しながらも、震える手でパンを受け取る。そのパンは、まるで宝石のように輝いて見えた。一口かじると、口いっぱいに広がる小麦の甘みと、優しい温かさ。それは、これまでの人生で味わったことのない、至福の味だった。涙が、知らず知らずのうちにエミリーの頬を伝い落ちた。


老婦人は、何も言わずに、ただ静かにエミリーを見守っていた。その眼差しは、憐れみでもなく、同情でもなく、ただただ、純粋な愛情に満ちていた。エミリーは、パンを貪りながら、胸の中に、これまで感じたことのない、温かい希望の光が灯るのを感じた。


「ありがとう…ございます…」


か細い声で、エミリーは絞り出した。老婦人は、優しく微笑み、エミリーの頭をそっと撫でた。


「いいかい、どんなに辛い時も、諦めてはいけないよ。お前の中には、きっと、誰もが持っていない、特別な光が宿っている」


そう言い残し、老婦人は静かに路地の奥へと消えていった。彼女が誰だったのか、どこから来たのか、エミリーには知る由もなかった。しかし、その夜、エミリーは、温かいショールとパンの温もり、そして老婦人の優しい言葉に包まれて、久しぶりに穏やかな眠りにつくことができた。


その夜の出来事は、エミリーの心に深く刻み込まれた。老婦人の言葉、「特別な光」。それは、彼女の中に眠る、まだ見ぬ才能の種を、微かに揺り動かすきっかけとなった。この、たった一つの出会いが、薄暗い路地の花だったエミリーの人生に、夜明けの予感をもたらしたのだった。彼女はまだ知らなかったが、その夜から、彼女の運命の歯車は、ゆっくりと、しかし確実に、回り始めていたのだ。


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