烏のバケットさん

増田朋美

烏のバケットさん

そろそろ暑くなってきて、汗が出てくるような季節になった。そうなると、みんな部屋の中にいることが多くなるが、食べるということは、いつでもどこでも行われるのである。食べるものはご飯とか、パンとか、ラーメンなど、いろんなものがあるけれど、日本には食べ物だけでもいろんな種類のものがあり、なんだか世界的にも、これだけ食いしん坊な民族は、日本人ばかりのような気がする。

富士駅の近くに、ちょっと変わったパン屋さんがあった。そこでは、食パン、アンパン、カレーパンなど、いろんな種類のパンが売られているが、他のパン屋さんとはちょっと違っているところがあった。

「いらっしゃいませ。」

中年の女性が、二人の客を出迎える。二人の客のうち、一人は車椅子に乗っていて、単衣の着物を身に着けている。そしてもう一人は、富士駅の制帽をかぶっていて、駅員の制服のまま、店を訪れている。

「えーと、ここが噂の、江川さんとかいう、パン屋さんだね。」

と、車椅子の男性が言った。

「なんか、パンの元祖である江川英龍さんとおんなじ苗字やな。」

そう言われて、店の店主である江川敦子さんは、そうですか?という顔をした。

「何だ、パン作ってるから、パンの元祖である、江川英龍さんを知っているかと思ったら、そうじゃないのか。それに、パン屋としては、ちょっと細身だなあ?」

「杉ちゃん、そんなこと言わないで、早く水穂さんにパンかってこう。」

杉ちゃんと言われた男性は、そうだねえと言った。

「えーと、じゃあ、お願いしますだ。アンパンと、焼きそばパン、あと、水穂さんにバケット一本ください。それでなんぼになる?」

「はいわかりました。アンパンがお一つと、焼きそばパンがお一つ。そして、バケット一本ですね。3点で、990円になります。」

江川敦子さんは、それぞれのパンを一個づつ取って、それぞれ袋に入れてくれた。

「そうか。じゃあ、スイカで払うことはできるかな?」

杉ちゃんが言うと、

「ええ、できますよ。こちらへかざしてください。」

敦子さんは、そう言って、杉ちゃんからスイカを受け取り、支払いの手続きをして、杉ちゃんに領収書を渡した。

「ありがとうございます。これで、本日の昼飯は大丈夫。」

そういう杉ちゃんに、

「あの、失礼ですけど。」

と、駅の制帽をかぶった女性が言った。

「何だ由紀子さん。なにか聞きたいことでもあるのか?」

杉ちゃんが言うと、

「あの、こちらのお店では、本当に米粉のパンを専門に売っているのでしょうか?」

と、由紀子と呼ばれた女性は言った。

「ああ、そういうことは、よく聞かれるんですけどね。当店では、米粉のパンのみを販売しています。なので、小麦でできたパンは一切販売していません。なので誰でも、安心してパンを食べられるような店にしたいと思って、やってるんです。」

敦子さんはにこやかに笑ってそういった。

「そうなんですか。実は、私の大事な人が、小麦を食べれないで悩んでいるのです。酷いアレルギーがあって、食べれないものが多いのです。もちろん、パンだって、食べられない。でも食べれないと、本当に死んでしまうというところから、なにか食べて貰わないと、困るんですけどね。だから、ここのパンだったら食べてくれるかなって思って。」

由紀子はそう、敦子さんに言った。

「そうなんですか。うちは、小麦を一切使っていませんから、その人でも安全に食べてくれるんじゃないかしら。いつでも、この店はやっていますから、買いに来てください。」

敦子さんが優しくそう言うと、

「そうかい。それなら、どんどん食べてもらわなくちゃ。なんか救いの店ができたな。それなら、嬉しいな。そうだろう、由紀子さん。」

「そうね。」

杉ちゃんと由紀子は、そう楽しそうに言い合っている。

「本当は、もっと早く、この店をそういう人に見つけてもらいたかったんですけどね。」

敦子さんはなにか悲しそうに言った。

「それどういうことかな?」

耳ざとい杉ちゃんはすぐに彼女に聞いてしまう。

「なあ、それどういうことや?ちょっと話してもらえないかな?初めから頼むよ。そして、終わりまで聞かせてもらうってことで。」

と、杉ちゃんが、でかい声でそういうので、

「実は、今月いっぱいで、店を閉めることになったんです。」

と、敦子さんは言った。

「はあ、なんで店を閉めるんや。」

杉ちゃんはすぐに言った。

「ええ、皆パンというものから離れてしまうんでしょうね。パンは、今の時代、コンビニでも、どこでも買える世の中でしょう。それに負けて、こういう手作りのパンは、もう売れないのよ。」

と、敦子さんは答えた。

「でもねえ、水穂さんみたいに、米粉のパンを必要としている人もいるわけだからさあ。やめないでほしいなあ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「そういう人が、いてくれたらいいんですけどね。ちょっと遅すぎたんですね。あたしがもう少し、行動的で、しっかりパン屋をやっていればよかったんですけどね。あたしは、しっかりと店をやるどころか、店のことは主人に任せっきりでしたから。主人が生きていたころは、店もしっかりやれたんですよ。それなりに、店も繁盛していて、米粉のパンを買いに来るお客さんだっていてくれたわけです。でも、今は、主人が亡くなってしまって、もう、私一人ですから、ものを作る人間が経営者になってもだめなんですよね。私はただの、パン職人で、主人みたいに、経営の知識も何もありませんでしたからね。」

と、江川敦子さんが言った。

「なるほど、ご主人は江川英龍さんみたいな、立派な方だったわけか。どうして、亡くなられたの?まだ、自然死するような年じゃないでしょ?」

杉ちゃんがそう言うと、

「まあ、いい人ほど早くなくなるというのは、よく言うものですよね。あの人、すごいいい人だったんですよ。私の話も聞いてくれたし。だけど、そういうことは突然訪れるものですね。あの人、災害に巻き込まれてしまって、電車に乗ったまま、大地震に遭遇してそのまま帰ってきませんでした。」

敦子さんはそういったのであった。

「そうなんですよね。人間の運命なんてわからないですよね。私の大事な人も、医者に見せることもできないで、こうしてあたしたちが食べ物を気をつけてあげるしか、対処しようがないんですよね。それが、本当に辛いんです。」

由紀子が、思わず言ってしまった。敦子さんが、そういうのを見て、由紀子に優しく言ってくれた。

「本当にそうですよね。あたしもそう思いました。由紀子さんと同じ。なんでいい人ほど早くなくなってしまうのかな。人間の世界って、そういうふうにできているものですかね。」

「そういうことなら、仲間同士じゃないか。同じように大事な人を、消されそうになっている。あるいはすでに消されてしまった。それなら、仲良くなって、同じ何だと、ずっと語っていればいい。」

そう杉ちゃんがでかい声で言った。

「そうやって、仲間同士で同じ事を語り合うってことも、必要なことだぜ。それができるってのは、人間の特権でもある。機械は、話し合って語り合うことが、できるもんじゃないから。それで、ご家族は、なくなった旦那さんだけ?」

「そういうわけではありません。あと一人、娘がいるんです。」

杉ちゃんの質問に、江川敦子さんは答えた。

「娘さんは、おいくつなんですか?」

由紀子が言うと、

「ええ、もう、25にもなるんですけどね。まだ、症状が強くて、なかなか外に出られないんです。」

江川敦子さんは答える。

「症状が強いとはどういうことなんや?なんか、いけないことでもあったんか?」

杉ちゃんがそうきくと、

「いけないことではないのかもしれないけど、自分で感情をコントロールできなくなってしまって、今、病院に。」

と、江川敦子さんは答えた。

「なるほど。それでお前さんの娘さんはどこの病院へ?僕達、偏見はないから、ちゃんと話してみな?」

杉ちゃんはすぐに言った。

「ええ、以前は、富士市内の病院にいたんですけど、今は症状が強いということで、沼津の病院へ。なんか、医療刑務所に送られているみたいで、すごく辛かった。」

「なるほどねえ。沼津と言ったらあそこだよな。あそこは、人間として扱ってくれないって聞いた。患者さんだけど、患者さんとして見てくれない。むしろ動物園だってさ。そんなところで、治療ができるのか甚だ疑問だけど、まあそうなっちまうんだろうね。」

杉ちゃんが、そう「現状」を言うと、江川敦子さんは、そうですねと答えた。

「それで、よくなりそうな感じではないんですか?」

由紀子が聞くと、

「ええ、多分、正気に戻ってくれることはないと思うって、医者に言われました。だから私も、こんなところでのうのうとパン屋さんをやっているわけには行かないと思って、店を閉めることにしたんです。まあ、障害者の母親が経営しているパン屋さんなんて、どうせ売れはしないですよね。あの、烏のパン屋さんのお話みたいに、うまくはいかないでしょう。」

と、江川敦子さんは答えた。

「でもさ。江川さんは、一生懸命やってきたわけだし、これから、水穂さんみたいに、パンを欲しがる客が現れてくれるかもしれないよ。そういうことなら、パン屋さんを続けたほうがいいのではないかと思うんだけどなあ?」

杉ちゃんがでかい声で言った。

「あたしも、そう思います。」

由紀子も、小さな声でそういった。

「なにか別の手段でもいいから、パンを作り続けるのはやめないでほしいです。あたしの大事な、水穂さんのためにも。」

「そうなんですね。ありがとうございます。でも、私も、パン職人として生きすぎました。今度は娘のことをもうちょっとなんとかしようという、意識を持たないとだめなんだなと思いました。だからもう、パン屋さんをやっている資格はありませんよね。」

敦子さんはそういうのであった。

「それなら、ちょっと一計があるんだ。お前さんも協力してくれないかな。そういうことなら、ちょっと、一計があるんだ。」

不意に杉ちゃんがそういう事を言った。

「一計ってなんですか?」

敦子さんが聞くと、

「ああ、僕らがやってる事業所でな、パンの販売会をするんだ。もちろん、米粉のパンでな。そこだったら、利用者さんたちも、水穂さんも、みんなパンを欲しがる。」

と、杉ちゃんは言った。

「そうか!それなら、皆さんパンを欲しがるかもしれない。ぜひ、製鉄所でやってくださいよ。ああ、ちなみに鉄を作るところではないわよ。それよりも、悩みや辛さがある人に、勉強や仕事をするための部屋を貸してあげる福祉施設なのよ。」

由紀子が説明すると、敦子さんは、にこやかに喜んだ。話は決まって、1週間後に、製鉄所でパンの販売会を行うことになった。

パンの販売会は、盛況であった。由紀子だけではなく、製鉄所の利用者たちも、みんな米粉のパンを買っていってくれる。みんな美味しそうに食べてくれて、パンの売れ行きは好調であった。最後の一個のアンパンが売り切れたとき、江川敦子さんは、急に泣き出してしまった。

「大丈夫ですか?」

と、由紀子が聞くと、

「いえ、ごめんなさい。ここにいる利用者さんのことを思い出したら、なにか悲しくなってしまうんです。だって、みんな傷ついているのはよく分かるから。だから、なんでうちの子だけは、あそこまで悪くしてしまったのかなあって。」

と、敦子さんは答えた。

「仕方ないじゃありませんか。一番遠いものが、一番近いって、言う言葉もございます。」

水穂さんが、小さな声で彼女を励ました。それは確かにそうなんだけど、敦子さんは、なき続けた。

「仕方ないって、あたしは、娘のことを救って上げるべきだったんですよね。あたし、何をするにもパン職人の仕事を優先しすぎてしまったので、娘が寂しかったことに気がついてやれなかったんだと思います。きっとあの子なりに、お母さん寂しいよって、言ってくれたと思うんですけど、それがなかったみたいに見えたから、私は、気がついてやれなかったんですね。」

「確かに、事実としてはそうなのかもしれないですけど、お辛いことであることは間違いないですよね。でも、こんなすごいパンを作れるんですから、それは、大事なこととして持っておくべきじゃないですかね。だって、僕も、バケットを食べることは、絶対できなかったわけですから。」

水穂さんはそう言って、敦子さんを心配して励ましたが、敦子さんは、涙を拭くことをしなかった。由紀子は、敦子さんの顔を、持っていたタオルでそっと拭いてあげた。

パンの販売会の翌日。由紀子は、沼津市にある精神病院に行ってみた。杉ちゃんが言っていた、症状がひどい人が行く病院というのであれば、どこなのか大体見当がつく。それほど有名な病院だった。

受付に行って、江川敦子さんの娘さんはここにいないかと、ダメ元のつもりで聞いてみると、

「ああ、綾子さんの事を気にかけてくれる人がやっと現れてくれたんですか。」

と、受付は言った。由紀子がそれはどういうことかと尋ねると、

「綾子さんは、今現在、保護室で治療を受けていらっしゃいます。でも、自分は孤独だと言い続けていて、お母さんが見舞いに来てくれないのは、寂しいと主張しています。家族以外の人で、誰か、気にかけてくれr人はいないかと尋ねますと、学校でいじめにあったことを、聞いてくれる人はだれもいなかったそうです。」

と、受付は答えた。

「そうですか。それでは、誰かにひどいことをされているとか、そういういじめを受けたのでしょうか?」

由紀子が聞いてみると、

「いいえ、綾子さんは、そうではなくて、強い女子生徒の腰巾着のような役割だったそうです。それに、被害にあって自殺に追い込まれた方は、本当は綾子さんと仲が良かった方だと、綾子さんは話しておられました。」

と受付は答えた。

「学校って本当に、密閉社会だからそうなってしまうんですよね。それでは、綾子さんにお会いして話すことはできませんか?お母様がパン作りをやめてしまうほど、苦しんでいるとお伝えしたいのです。」

由紀子は、急いでそう言うと、

「いいえ、それはできません。綾子さんは、症状が激しいので、自分や他人を傷つけてしまうおそれがあるからです。今投薬治療などで、様子を見ています。でも、ご家族以外の方が、そうやってあいに来てくれたことは伝えておきます。」

と、受付は言った。由紀子は急いで、手帳を取り出して、

「じゃあ、綾子さんが、回復したら、ここに来てもらうように言ってもらえませんか。お母様は、ここでパンの販売会を定期的にやっていて、パンの売れ行きは好調です。それをぜひ、綾子さんにも見てもらえたらなって。」

と、製鉄所の住所と電話番号を、書いて受付に渡した。受付はにこやかに笑ってそれを受け取った。

それから、数日が経って、第二回目のパンの販売会が開始された。敦子さんの作ったアンパンやバケットは、他の利用者たちにも好評ですぐに売り切れてしまった。みんな、美味しいねとか、いい味だねと言いながらパンを食べていた。それと同時に、

「失礼いたします。沼津記念病院のものでございます。あの、江川綾子さんが、お母さんにお会いしたいと言っているので、こちらに連れてまいりました。」

という声が聞こえてきた。杉ちゃんたちは、江川敦子さんの娘さんだとすぐに分かった。入れと言う声といっしょに入ってきた娘の綾子さんは、胴回りが痩せこけた敦子さんの倍近くある、おばけキノコのような体格をしていた。綾子さんの周りには、いざ暴れても押さられるように、看護師がしっかりくっついていた。まるで犯罪者を取り囲むようであった。

「綾子!」

「お母さん!」

綾子さんと敦子さんはそう言って向かい合った。敦子さんが、綾子さんにむかってごめんなさいと言おうとしたとき、水穂さんが、綾子さんの前に現れた。綾子さんは、げっそり痩せて、でも、美しい顔をした水穂さんに、何も言えなくなってしまったようだ。

「綾子さんが、お母さんのことを許せないのは、わかります。ですが、僕はお母さんのパンのお陰で、長年パンを食べられなかったのが、バゲットを食べるようになったのです。」

水穂さんは静かに言った。それと同時に、

「そうそう。あたしだって、こんな美味しいアンパンは食べたことなかった。」

「あたしもね、ふんわり丸くて美味しいメロンパンっていうのは、こういうパンのこと言うんだと思った。」

と、製鉄所を利用している女性たちが、口々に言い始めた。綾子さんは、涙をこぼしたが、殴りかかるとか、そういうことはしないで、

「でもあたし本当は。」

と言ったのであるが、

「いいえ、綾子さんのお母さんは、パン作りで言えば天才よ!」

別の利用者がそう言ったので、綾子さんはそれ以上言えなかった。ただ、すすり泣いているだけの綾子さんに、

「綾子ごめんね。寂しい思いをさせてしまって。」

と敦子さんが、綾子さんに向かって静かに言ったのであった。もちろん、敦子さんが謝る必要はないという人もいるかも知れないが、どこかで人というのは妥協するというか、思いとどまらないと、解決できなくなってしまうことは結構あるのである。こういう母子のいざこざばかりではなくて、最悪の場合、領土問題とか、戦争の理由になることもある。

「じゃあさ、みんなでさ、パンを食べて乾杯しようよ。敦子さんの作ったパンは、ほんとうに美味しいんだってことを、わかってもらうためにな。」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、水穂さんが、お茶を湯呑みに入れる作業を始めた。他の利用者たちもそれを手伝った。綾子さんと、敦子さんは、お互いの顔を見合って、にこやかに笑っていた。

その時から、もう、そらには黒雲が流れていた。もう本格的な雨の季節が到来する事を表しているのだった。でも、製鉄所の中庭では、みんなその天気とは裏腹に、喜びの言葉を交わしていたのだった。ときに、人間のすることというのは、自然の流れとは全く正反対の事になってしまうこともあるのだ。




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烏のバケットさん 増田朋美 @masubuchi4996

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