第30話 混沌の拡大

 血の臭いが濃く漂う。

 砂の上に倒れ伏したまま、グレゴールは胸を押さえ、喉の奥から泡混じりの血を吐き出した。心臓を貫かれた傷は致命的で、もはや一歩動けば命が尽きるほどだ。


 それでも、彼は這った。

 地を爪で引っかき、爪が剥がれて血がにじんでも前へ。

 ──あの悪魔を、アスモデウスを、このまま野放しにしてはならぬ。

 怒り、そして英雄としての執念と意地が、彼を死の縁から引き戻していた。


 だが、力尽きるのも時間の問題だった。

 視界が霞み、遠のいていく。


 その刹那――空間が震えた。

 空間が裂け、禍々しい異音が響き渡る。

 そこから現れたのは、闇そのものを纏った威容。


 人の姿でもなく、獣の姿でもなく。

 ただ、見る者に「神」と錯覚させるほどの底知れぬ威光と、同時に「悪魔」をも凌駕する絶対的な畏怖を放っていた。

 まるで闇の太陽が、虚空に昇ったかのようだった。


 「……まだ逝くには早いな。」


 声が響くと同時に、グレゴールの鼓膜を震わせるよりも先に、脳へ直接刻み込まれる。

 彼は震えながらも問いかける。


 「……お前は……神か……悪魔か……?」


 その存在は応えず、ただゆっくりと彼の胸に手をかざした。

 刹那、光と闇が混ざり合ったような禍々しい奔流が心臓へ流れ込む。


 「彼らだけではアスモデウスには勝てないだろう…。

 意地と執念に身を焦がす者よ……命を繋いでやろう。」


 裂けた胸が脈動を取り戻し、死にかけた心臓が強制的に動き出す。

 呼吸が、戻る。視界が、冴える。


 グレゴールは絶叫した。

 「ぐ……ぉあああああッ!!」


 威光の主はそれを満足げに見下ろした。

 「立て。お前の執念はまだ消えていない。

 加勢せよ。アスモデウスを討つためにな。」


 言葉と共に、その存在は闇の亀裂へと戻り、消え去った。


 残されたのは、黒く脈打つ胸の傷と、燃え盛る復讐心。

 そして、恐怖すら凌駕するほどの力を得た、異形の執念。

 グレゴールは、震える足で立ち上がった。

 ──もはや人ではなく、闇に身を捧げた者として。



--------


 飛空艇から飛び降りた銀鎧の男――ノア連邦の英雄、グレアム・ウェクスラー。

 彼が砂塵を巻き上げながら槍を構えた瞬間、カシアンの眉が一瞬だけひきつった。


 (グレアム……かつて数多の悪魔を葬った、あの悪魔殺し……!)


 だが、すぐに表情を整え、いつもの薄ら笑いに戻す。

 彼は人間の姿を必死に保ちながらも、演技を始めた。


 「よく見ろ! 善良なる村人達よ、神の名のもとに戦う騎士達よ、そして全世界の民よ!」


 カシアンはグレアムを指差し、カメラが彼を映し出す。


 「ノア連邦のかつての英雄が……いま善良な村人を斬殺したのだ!

 彼らは敬虔なるザイファの信徒! 

 無垢なる女であり、母である者だった!」


 村人たちはカシアンに呼応し、一斉に叫ぶ。

 「ザイファの神は偉大なり!」

 「異端を許すな!」


 その狂信の波の中から、一人前に出る。

 まだ十歳にも満たぬ子供。

 その小さな体には粗末な爆薬が巻き付けられていた。


 「ザイファのために……!」

 恐怖の顔も涙ひとつも流さず、その子供は小さな足で、一直線にグレアムへと駆けた。


 その瞬間、グレアムの胸が締め付けられる。

 彼が過去に救おうとした多くの命――だが今、目の前の「命」は爆弾そのものだった。


 「……っ!!」


 ほんの一瞬だけ躊躇が生まれる。

 だが爆薬の金属音が彼に決断を迫る。


 「……俺は覚悟を決めたのだ!!」


 グレアムは左腕の腕輪に魔力を注ぎ込む。

 次の瞬間、空を裂くような鋭い風の刃が生み出され、迫る子供を無情にも切り裂いた。


 赤黒い血と破片が砂に散り、爆薬は制御を失って爆発する。

 閃光と爆炎が広がり、砂漠の村は地獄のような光景に包まれた。


 その様子は――全世界に中継されていた。


 カシアンは勝ち誇った笑みを浮かべる。

 「見たか!? これが英雄の正体だ!

 無垢な子供をも殺戮する怪物! 

 これがノア連邦国の正義か!」


 村人たちは一層熱狂し、口々に叫んだ。

 「ザイファの神は偉大なり!」

 「異端を殺せ! 異端を殺せ!」


 狂気の大合唱。

 だが、その叫びを切り裂くように、別の声が飛んだ。


 「黙れッ!」

 シエラの怒声だった。陰に潜んでいた彼女とリタが飛び出し、襲いかかる騎士たちを魔法と刃で薙ぎ払う。


 「その子供たちを過激派テロリストとして育ててるのは誰だ!

 村も、騎士も、そしてお前達政府がテロリストを作ってる!」


 リタは涙に濡れた瞳で叫ぶ。

 「ザイファ教が母さんを殺した……母さんを返せえええッ!」


 しかし彼女達の魂の叫びも届かず、広場は完全な戦場と化した。


 騎士たちは整然と剣を振るい、善良を装いながら子供達は爆弾を抱えて突っ込み、女たちは「神のために!」と叫び、火炎瓶や投石を繰り返し、村は炎に包まれていく。


 その異様な光景に、グレアムは胸を痛めながらも槍を振るった。

 「……許せ……だが、俺は退かん!」

 疾風の刃が弧を描き、子供の自爆兵を次々と切り裂く。

 爆炎が弾け、砂塵と血肉が舞う。


 「そこの二人!」

 戦場の只中で、グレアムの声が鋭く響いた。

 槍の穂先で敵を突き払いながら、彼は振り返り、シエラとリタを見据える。

 「絶対に躊躇うな! 奴らを“人”だと思うな!」


 彼の言葉は怒鳴りではなく、覚悟を帯びた指令だった。

 「全力で戦え! 迷えば、お前たちが殺される!」


 シエラの心臓が跳ねた。リタの喉からも、ひときわ荒い息が漏れる。

 目の前の“敵”は本来守るべき子供や女のはず――だが、英雄の瞳は迷いなく告げる。


 「俺はあの男を仕留める!」

 グレアムはカシアンを指差し、歯を食いしばった。

 「お前たちは隙を見て捕らえられている二人を助けてやれ!」


 短く、しかし揺るぎない命令。

 その言葉に、リタは力を込めて短剣を握り直した。

 「……親父を助ける……絶対に!」

 シエラも強く頷き、魔力を練り始める。


 偽善の仮面を被った狂気の群れの中で――三人の決意が確かに交わった。


 その光景を見ていたカシアンの顔に、不快な歪みが走った。

 「……役立たずどもめ。たった三人に次々やられるとは…。

 所詮は無能な人間か。

 ホホホ…まぁ元英雄相手に、殺せとは酷な話か。」


 彼はカメラに向けては平然とした笑みを浮かべつつも、心中で苛立ちを募らせていた。


 グレアムが思った以上に押し返している。

 シエラとリタが加わったことで、戦況は完全に拮抗していた。


 「これでは世界に“英雄が悪魔に堕ちた”と印象づけられぬではないか……。

 ここらで終いか。」


 その瞬間、カシアンの赤い瞳が怪しく光を帯びた。

 空気が重苦しく淀み、広場全体が冷たい闇に覆われる。

 するとカメラは突然異音を鳴らしながら爆発した。


 「……ならば、人間どもなど要らん。」

 (集え…忠実な下僕よ。)


 彼が手を掲げた瞬間、遠くからゾンビの群れが現れた。


 村人も騎士も、その不気味な姿に戦慄し、動きを止める。

 「な、なんだあれは……!」

 「う、動く死体…?バケモノ……!?」


 カシアンは嗤った。

 「震えるな……役立たずども。お前たちはゾンビとなり、せいぜい役に立て!」


 彼が指を弾いた瞬間、ゾンビたちは村人の女、子供と騎士に群がり、牙や爪を立てる。

 「ぎゃあああ!!」

 「助けてくれ! いやだああぁ!!」


 爪が肉を裂き、血が飛び散り、次々と村人や騎士の身体が噛み千切られていく。

 そして、痙攣しながら彼らの肉体が変質し……新たなゾンビへと変わっていった。


 「ホホホ……人間でいるより、余程役に立つ。」

 カシアンは不気味に笑い、群れを操る。


 阿鼻叫喚。

 さきほどまで「ザイファの神は偉大なり」と叫んでいた村人たち、騎士団の者たちが、いまや呻き声と共に地に転げ回り、痙攣し、そして――ゾンビへと変貌していく。


 「ひっ……! や、やめろ……!!」

 「嫌だ……ぎゃああ!!」


 血と肉片が飛び散り、かつて“人間”だったものが次々とゾンビに食い破られていく。

 その地獄の只中、シエラとリタは二人を救出に走り出す。


 「親父!」

 混乱の群れの隙間を抜け視界に飛び込んできたのは、磔にされたレオンの姿。

 傷だらけで意識は朦朧としているが、まだ生きている。

 「親父…!」


 リタは短剣で拘束の鎖を叩き切ろうとする。だが鋼鉄の枷はびくともしない。

 その背に、ゾンビが迫る。


 「リタ!」

 シエラの声。彼女の指先から凍結魔法が放たれ、ゾンビを氷漬けにする。

 「早くレオンを!」

 「ありがとう!」


 リタは短剣を逆手に持ち直し、錠前へ渾身の力で突き立てる。

 鋭い金属音が響き、亀裂が走る。

 二度、三度――ついに鉄が砕け散った。


 「親父っ!」

 崩れ落ちたレオンの身体を抱きとめ、リタの瞳から熱い涙がこぼれる。

 「良かった…大丈夫!?」


 レオンはかすかに目を開き、掠れた声で呟いた。

 「……ああ…すまねえ…。

 …リタ…俺は……。」


 「喋らなくていい!

 取り敢えず今は休んで!ここは任せてくれ!」


 一方その隣では、シエラがザフィーラの拘束具に手を伸ばしていた。


 「シエラ!?」

 ザフィーラはシエラを見て驚きの表情を隠せなかった。


 シエラも内心は動揺していた。

 目の前にいるザフィーラは、あの処刑で命を落としたはずの姿ではなかった。

 若さを取り戻し、肌は透き通るように張りを帯び、まるで別人のように蘇っていたのだ。


 しかし今はそんなことを考えてる場合じゃない。

 ザフィーラを縛る拘束ら闇を封じる呪と鎖が幾重にも絡みつく。


 「これじゃ……普通の術じゃ外せない……!」


 シエラは腰のポーチからリタに埋め込むために加工した時に削り落とした白銀の聖なる魔導石の原石を取り出した。


 「闇には聖。これなら…。」

 小さな原石を握り鎖にかざし強く魔力を込める、すると鎖はひび割れ、粉々に砕け散った。


 「……っ、ありがとう……!シエラ…よく元気で…!」

 自由を取り戻したザフィーラは涙を滲ませながら、

シエラを抱きしめる。

 

 「ホントにザフィーラおばさん、なんだね。」


 その声をかき消すかのように、地鳴りが響いた。

 アスモデウスの本性を露わにしたカシアン。

 四本腕の禍々しい巨躯が、グレアムと槍を打ち合わせていた。

 火花が散り、地面ごと震える。


 リタは短剣を握り締め、歯を食いしばった。

 「シエラ!あれって…!」


 シエラはグレアムと対峙するその異形の姿に驚愕する。

 「……悪魔…。」


 グレアム・ウェクスラーは神槍グングニルを握り、左腕の魔導石から放つ風の刃で次々とゾンビを薙ぎ払う。

 しかし、目の前にいるアスモデウスから一切集中を逸らせない苛烈を極める戦闘を繰り広げていた。


 アスモデウスは四本の腕を自在に動かす。

 上の二本の腕からは黒炎を噴き出し、直接グレアムに襲いかける。黒炎は地面を焦がし、熱風となってグレアムの周囲を包む。

 一方、下の二本の腕ではゾンビたちに闇の力を注ぎ込み、無数の死体を次々と強化させる。ゾンビは単なる群れではなく、恐るべき戦力へと変貌していく。


 グレアムは槍を旋回させ、風の刃で黒炎の炎と迫るゾンビを切り裂きながら前進する。

 しかし黒炎の熱と闇の力に強化されたゾンビの群れが、彼を包囲しようと迫る。

 アスモデウスは不敵に笑う。

 「愚かな…下等な悪魔を倒して英雄の称号か…。

 高等な悪魔である私は倒せるかな?」


 「高慢な悪魔だな、やってみないとわからんぞ!」


 グレアムは槍で薙ぎ払い、風の刃で距離を取りつつ、ゾンビと黒炎の攻撃を避ける。

 戦場は死と絶望の匂いに満ち、英雄と悪魔、そして強化されたゾンビたちによる多人数戦の光景が広がる。


----


 英雄と悪魔のぶつかり合いは、まるで天地を裂くかのような轟音を撒き散らしていた。


 その音を追い、砂塵を踏み分けて現れる影が四つ。


 先頭の男は、冷たい眼差しを戦場へと向けた。

 蒼井レイモンドが口を開く。

 「ようやく辿り着いたな!」


 隣を走るエリックがアスモデウスを見て驚愕する。

 「あれって…! バケモノか!?」


 背後でカイルが唇を吊り上げ、獣のように笑った。

 「それと俺の勘が言ってる……レオンとザフィーラがここにいるぜ!!」


 ライザは戦場を見据え、短く息を整える。

 「っ!? ザフィーラおばさんが!?

 けど、ゾンビ共がいっぱい!」


 砂嵐の向こうでは、グレアムとアスモデウスが火花を散らしていた。

 

 「グレアム殿がなぜここへ!?」


 四人は迷いなく、地獄と化した戦場へと足を踏み入れた。

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