第27話 鏡欲の間

 黒鉄の大剣の切っ先が、カシアンの喉元に届く。

 レオンは無言のまま、視線を逸らさずにその位置を保った。

 反対側では、グレゴールのデウス・クラストが同じく首筋を狙い、二本の刃が挟み込むように輝く。



 しかし、カシアンは全く怯まなかった。

 ゆっくりと天井を見上げ、細く長い吐息を漏らす。

 その瞳がじわじわと濁り、血のように深い赤に染まっていく。

 瞳孔は縦に裂け、光を呑み込みながら獣じみた妖気を放った。


「……レオン。」

 視線を戻し、口元を歪めながら言葉を紡ぐ。

「またしても……私の機嫌を損なわせる気ですか?」


 声は低く湿って、耳の奥を直接撫でるように響く。

 同時に、作戦室の空気がじりじりと熱を帯びはじめ、背後の壁に掛けられた地図の端がかすかに焦げた。


「フッ……困ったものですね。せっかく私が寛大に、この国の未来を導いてやっているというのに。」

 その笑みは人の形をしていながら、底知れぬ異形の牙を隠している。

 炎の残滓が瞳の奥で瞬き、部屋の影を不自然に揺らめかせた。



 グレゴールが息を吐き、低く言い放つ。

「悪魔ごときに好き勝手にやらせはせん。」


 その言葉にカシアンはピクリと止まり、表情が更に歪んでいく。


「ごとき…?ごときだと!?

 俺に言わせれば人間こそがごときだ!

 クズだ!ゴミだ!害虫だ!

 虫けらにも劣る下等な存在だあぁ!」


 作戦室の空気が一瞬で灼熱に変わり、床の金属板がみしみしと音を立てた。

 赤い瞳がぎらつき、炎の気配がその輪郭から滲み出していく。


「俺が下等なものを導いてやっている……それをありがたく思えぇッ!」


 吐き出された声は衝撃波のように壁を叩き、壁際の書類や計器が吹き飛ぶ。


「悪魔とは何度か戦ったことがあるが、貴様は他の悪魔共とは違うな…。」

 グレゴールが剣を構え、眼光を鋭く光らせる。


「奴等と俺を一緒にするな!

 俺は悪魔の中でも高位な存在であるアスモデウス、愚かな人間共を導くものだ。」


 悪魔真の名を名乗ると、周囲は熱風が渦を巻く。


「どうやら悪魔共の中でも自意識過剰らしい…。」



 レオンも覚悟を決め、戦闘態勢に入り視線を逸らさない。


「俺はお前が悪魔だと知ったのは、ザフィーラが教えてくれたからだ。彼女はその手の学問にも精通していた…。

 アスモデウス…。それは欲望・嫉妬・破壊の化身だとされている。

 そんな奴に国を動かされたら、この先に待つのは滅びだけだ!」



 その言葉に、カシアンの口角が引きつり、不気味な笑みと憎悪が同時に浮かぶ。

「ならば……滅びを与えてやろう。まずは灰狼の頭と、英雄崩れの騎士に。」



 次の瞬間、床下から炎が噴き上がり、灼熱の奔流が室内を呑み込んだ。

 鋼鉄の床が赤く焼け、空気そのものが軋む。


「──消し炭になれ。」


 カシアンの右手に、紅蓮を宿した細剣が形を成す。

 同時に左手から迸るのは幻惑の魔力。視界が揺らぎ、部屋の四方にカシアンの影が現れる。


 レオンは咄嗟に足を滑らせるように横へ跳び、背後から迫る影を薙ぎ払った――が、斬ったはずの影は煙のように散っただけだった。


「正面だけを見ていては、私には届きませんよ。」


 背後から聞こえた声。反射的に振り返った瞬間、細剣の突きが眼前に迫る。

 レオンは剣で受け止めたが、衝撃と共に左肩を焼くような痛みが走った。


「チッ……!」

 グレゴールが割り込み、大剣でその細剣を弾き飛ばす。

 だがアスモデウスはすでに横へ回り込み、再びレオンの死角へ移動している。


「遅いなぁ、ヴァンデンベルク。」


 その声と同時に、足元の影が蛇のように絡みつき、二人の動きを阻もうとする。


 グレゴールは影を断ち切り、距離を詰めようとするが、アスモデウスは一歩も下がらず、挑発するように細剣の切っ先をわずかに揺らす。


「おやおや……その剣。怒りで重くなっていませんか?」


「黙れ!」


 グレゴールの斬撃が唸りを上げたが、アスモデウスは身体を紙一重で捻り、左手の炎弾を至近距離から放つ。

 爆炎が二人の間を裂き、熱風が全身を打った。


「はぁ……やはり人間は反応が鈍い…。」

 アスモデウスが不気味に微笑んだその瞬間――。


 この作戦室に轟音が走り、壁が蹴り破られ紫の影が炎を切り裂いて飛び込んできた。


「口ばっかり……本当にうるさい悪魔だね。」


 ザフィーラの蹴りがアスモデウスの顔面を直撃し、紅蓮の気配が一瞬だけ揺らぐ。


 アスモデウスは蹴りの衝撃でわずかによろめき、頬を指で拭った。

 その赤い瞳がザフィーラを捉えると、歪んだ愛情と執着が入り混じった光が宿る。


「……なあぁんだ、来てしまいましたか…。それにしてもその脚の美しさと強さ…最高だ!」


「気持ち悪い悪魔だね。顔なんて見たくなかったけど…。」


 ザフィーラは軽く肩を回し、全身をぶるぶると震わせてストレッチする。


 その横顔を見たレオンの表情が固まる。


「……ザフィーラ…もう蘇ったのか…?」


 十年という歳月を無視するように、そこに立っていたのは記憶のままの彼女だった。

 強く、しなやかで、決して屈しない瞳。


「レオン……久しぶり。」


 ほんの一瞬、微笑がこぼれる。だがすぐに視線はアスモデウスへと戻った。

「感傷に浸る暇はない。まずはこいつを倒すよ!」


 レオンは短く息を呑み、頷く。

「……ああ。」


「もう少し復活したのをバレたくはなかったのですがねぇ、仕方ない。

 今目の前でザフィーラを私のものにする!」


 アスモデウスは不気味に笑い、細剣を軽く構え直す。


 三人の動きが同時に爆ぜた。


 グレゴールの大剣が炎の壁を割り、レオンの黒鉄の刃が斜めから切り込む。

 ザフィーラは死角から踏み込み、アスモデウスの細剣を絡め取るように弾く。


 炎と影が交錯する刹那、アスモデウスの唇はなおも笑みを浮かべていた――。


 炎が唸りを上げて迸る。アスモデウスの左手から放たれた火柱は、まるで生き物のように三人を包み込もうと襲いかかる。

 グレゴールが大剣で炎を払い裂き、レオンが低く踏み込んで細剣の突きを受け流す。


 その一瞬、ザフィーラが地を蹴った。

 彼女の闇の魔力を纏った脚が、一直線にアスモデウスの胸元へ突き込まれる。


 衝撃波が走り、悪魔の身体が半歩後ろに押し戻される。


「……さすがは私のザフィーラ!随分と重い一撃だ。」


 アスモデウスは口角を上げたまま、左手の指先から炎の槍を連続して放つ。

 ザフィーラは身体をひねり、炎をかすめながら懐へと飛び込むと、回し蹴りを横顔に叩き込む。


「騎士さん! 今だよ!」

 ザフィーラの声に応え、グレゴールの大剣が炎の盾を砕き、レオンの刃がアスモデウスの細剣と正面から火花を散らす。


 しかし、悪魔の笑みは消えない。


「いいですねぇ……実に美しい。

 しかし、これはどうですか?」


 その声と同時に、周囲の空気が重く淀み、黒い鏡の壁が現れ始めた。

 鏡面に映るのは、三人それぞれの胸奥に潜む恐怖、欲望、後悔。


「!?」

 ザフィーラは、闇の力をさらに解き放った。

 足元から立ち上る黒い力が、彼女の身体能力を一段と跳ね上げる。

 鏡に映る自分に目もくれず、一直線にアスモデウスへと突き進む。


 黒い鏡が禍々しい光を放つと空間がねじれる。


 映し出された幻影が、現実の攻撃と区別できない速度で三人を襲いかかる。


 グレゴールは幻影の中に、自らがかつて倒せなかった宿敵の姿を見た。しかし、その宿敵の姿はグレゴール本人にしか見えていない。実際には鏡には黒い影しか写っていない。


 「くそ!殺してやる!」


 怒りに任せて斬りかかるが、そこにあったのはアスモデウスの剣。


 胸甲を貫く鋭い痛み。血が喉を上り、巨躯が崩れ落ちる。


「英雄の末路など、この程度か。」


 アスモデウスの声が、耳の奥に直接響く。



 レオンもまた、鏡面に映った過去の己と交錯し、剣筋を乱される。


 死角から放たれた炎の矢が直撃し、全身を焼く激痛と共に床へ叩き伏せられた。意識が闇に沈む。



 残るのはザフィーラ一人。

 彼女は奥歯を噛み締め、闇の魔力を迸らせて突き進むが、その足が突然止まった。


 アスモデウスが懐から一つの黒い魔導石を取り出す。

 通常の闇の魔導石とは違い、闇の魔力を制御する、赤黒い脈動が走る魔導石。


「これはね、君を完全に手中に収めるための鍵だ。」

 低く愉悦に満ちた声と共に、魔導石はアスモデウスの手に吸い込まれ、肉体と同化する。


 瞬間、彼の姿が膨れ上がった。

 背には漆黒の翼、額には湾曲した二本の角、瞳は血のような深紅に燃え上がる。

 空気そのものが焼け付くような熱と圧力で満たされ、ザフィーラの呼吸が詰まる。


 アスモデウスは片手をゆっくりと彼女へとかざした。

 見えない鎖が全身を絡め取る感覚。意識の奥底に冷たい針が突き刺さり、思考が黒いもやに覆われていく。


「さあ……すべてを忘れ、私のものになれ。」


 ザフィーラの瞳から光が失われ、力なく膝をつく。

 そのまま、糸の切れた人形のように前のめりに倒れた。



--------


 中継橋での戦いを終え、カイルは蒼井、エリック、ライザと合流していた。

目指すは中央塔最上層──デラート騎士団長の司令室。


鉄扉の前には全身鎧に身を固めた近衛騎士が六人、無言で立ちはだかる。

次の瞬間、カイルが蒼雷を肩から外すや否や、蒼井の《雪霞》とエリックの剣が同時に閃く。

金属が砕ける音と断末魔が重なり、わずか数呼吸で六人は床に沈んだ。


「──邪魔だ!」

カイルが乱暴に扉を蹴り開ける。


中は驚くほど静かだった。

机に腰かけ、杯を傾けるデラート。その横には、薄笑いを浮かべる息子ファビアン。

だが視線を奥に向けた瞬間、空気が凍りつく。


壁際には三人の若い女。

衣服は半分剥がれ、涙と恐怖で顔を濡らし、両手を縛られて震えている。

その背後でファビアンが革鞭を握り、獲物を前にした肉食獣のように舌で唇を湿らせていた。


「……てめぇら、何してやがる!」

カイルの声は低く、地の底から響くようだった。


デラートが口を開く。

「きっ貴様ら、何だ!何でこんなとこまで…!」

その言葉を最後まで言わせず、カイルが一歩踏み出す。


「殺してやるぞ、クソがよ!」

蒼雷を片手で担ぐと、その刃が微かに雷鳴を吐いた。

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