第27話 暴走した狼

◇◆◇◆◇


何か背中がふかりとしたものに包まれた一方で息苦しいと感じて、ミディアははっと意識を浮上させた。

すぐに起きあがろうとするもずしんと腹の上に何かが乗っていて、ろくに動けない。

膝をついて上半身だけどうにか持ち上げるが、そうすると暗闇の中で金色の双眸が光っていることに気がつく。


ぎくりと本能的に怯えが走った。

じぃと穴が開くのではと思うほどまっすぐにミディアを見下ろしてくるその金の瞳は黒い瞳孔が開いていて光も刺さない、どこかもわからない部屋の中が一方的によく見えているのだとなぜか理解できた。


そのうえ、ぐるぐる、がるがるとずっと低い唸り声が自分の上から響いている。

両肩には強い力で上から押さえつける手がかけられていた。


ミディアはまさに獣に食われる寸前の獲物そのものだった。


「ひ………っ」


恐怖に喉が引き攣る。

その音を聞いた途端、ギリリ……と肩を掴む手が強くなり、体を支えていた腕を掴みあげると万歳をするように両手首を一纏めにして寝台に押し付けられる。


そう、ここは寝台の上だ。

そして気絶する寸前のあれこれを思い出して、ラーダが自分をここに連れ込んだことを理解した。


ちょうどその時、雲がかかっていた空から月光が差し、大きな窓を通じて光が室内にも差し込む。


艶やかな黒髪と男らしい顔立ちは確かにラーダだったが、いつもへなりとしている銀色の触り心地のいい耳がピンと芯が入ったように立ち上がっており、よく笑う口元は憎々しげに歪み大きな牙を見せている。

ミディアの腕を掴み上げる手と反対の手は鋭い爪が伸びていて今まさに服を引きちぎらんとしていた。

ずっとぐるぐる、ふーふーと唸り声が聞こえる喉は、元々太い首の中にあったけれど、いつも以上に逞しさを感じる。首周りだけでなく、全体的に元々大きい体格がまた一回り大きくなったようにも感じた。


ミディアはガクガクと震えるしかできない。

こんなのラーダじゃない、獣だ、と。


くんくん、と首筋に高い鼻梁が押しつけられる。食べられる前の獲物を味見しているみたいに、大きな舌がべろんと何度も首や喉を舐めた。

噛みつかれたことを思い出し、今度こそ息絶えるまで噛みちぎられるのではと恐ろしくなる。


「ら、ぁだ……?」


それでもいつも甘えてくるときのラーダの匂いがする。バジルのような香草のいい匂いとそれに混じるどこか甘い匂い。


「なんで、なんで、なんで……っ」


何度も何度も首周りをひたすらに舐め回して、はっはっと短い獣じみた息がかかる間に溢れる声はあまりにも悲痛で、ミディアは困惑するしかない。


けれどいつものような撫でようと思っても腕はがっちり拘束されているし、名前を呼んでも返事もしてくれない。


「ヒ…ッ」


ビリッとついに仮初の服がちぎられた。

まるで桃の皮を剥くように容易に鋭い爪が服を切り裂いていく。

これが肌に触れたらと思うとゾッとして、身じろぎ一つできずに青ざめていた。


そんなミディアを見たラーダの顔は、どれほど苦痛なのか想像もできないほどの痛みに耐えているようだった。


「き、らいに……」


嫌いにならないで。


そう聞こえた気がしたが、答える前にまた唇が塞がれたのでミディアは何も言葉を返すことができなかった。

そのままぴたりと首に狙いをすましたかのように大きな手がミディアの細い首を覆う。

爪はそのままだ。

一気に切り裂かれたら事切れる恐ろしい想像とあのラーダがそんなことをするはずがないという反論とで、頭の中はぐちゃぐちゃだ。


そうでなくても、ちゅ、くちゅ、と執拗に舌を絡めて唾液を啜り尽くされてもうわけがわからないというのに。


息があまりに苦しくなってきて、どうにか引き剥がそうと首を振った。ぷはっ、とやっと息がつけた音がする。

口の周りは唾液でベタベタだったがそんなことは気にならないほど息を吐くのに必死で、胸が大きく上下した。


「…………拒絶するのか」


ぐるっ、と唸り声とともに聞こえてきた声はあまりにも低く、暗く、澱んでいた。


金色の瞳がその一挙手一投足を見逃すまいと恐ろしいほどの圧でミディアの全身を集中して睨みつけているのがわかった。


人は本能的に恐れるものに出会うと息の仕方がわからなくなるものらしい。

吸っても吸っても酸素が入ってきている気がしなくて、肩が大きく上下する。ラーダといつものように呼びかけたいのに、ちっとも音にならず、短い息の音だけが唇からこぼれた。


「逃げても無駄だ。俺の、俺のもの。逃がすものか。嫌がったって怖がったって俺のものなんだ。あぁでもヒトはすぐ死んでしまうというから気をつけないと。大丈夫。全部俺がやる。指一本動かす必要なんてない。俺から与えられるものだけで生きていればいいんだ。他の誰も見なくていい。見られなくていい。全部俺だけ。俺だけしかいなくていい。ははっ、それって最高だな。番が全部俺だけ。俺しか見ないんだ。俺がいないと生きていけない。すがる先が俺しかないんだ。誰にも取られる心配がない。ああ、最高だ」


ぎゅうと強く抱きしめられた。強すぎて握りつぶされるかと思うほど。

最高だと言いながら、いつもふさふさと揺れている彼の大きな銀色の尻尾はちっとも動いていなかった。


「なあ、もう二度と逃げられないようにしないとな」



**


それからどれくらいの時間が経ったのかもはやわからない。


巣の中にいる雛のように、ひたすらに食べ物も飲み物も全部、ラーダの口移しで与えられ、ぴたりとどこかの肌が触れ合っていた。

逃げると思っているのか、決して離れない。

何度も何度も耳を擦り付けて、ベロベロと舐め回して、「嘘つき」「裏切り者」「でも俺の」「誰にもやらない」「愛してるんだ」とひたすらにブツブツと呟いている。


ラーダが壊れた、と思った。


そんなにもアデルに裏切られたのが悲しかったのだろうか。

いつだってはにかんで可愛かった彼の心の傷を思うと胸が痛い。

だからアデルなんかやめたらよかったのに。

私だったら、ラーダを泣かせなかったのに。


ーーそう。

ラーダは途中からずっと泣いていた。


しくしくと金色の瞳からひたすらに涙を溢れさせて、「俺を愛して」「捨てないで」と項垂れて、そうしてまたふとした瞬間に「逃げるな」「逃げるなら殺してやる」「いやダメだ、ずっと一緒に。一緒に、一緒にいるんだ。ずっと」と怖い言葉を言う。


なんでそれをミディアに言うのかわからない。あまりにも悲痛な声を聞き続けているとこちらまで錯覚してしてしまいそうだ。


彼に自分が求められている、と。


「なんで。なんで泣く。幸せにする。なんでもあげる。なんでも、なんでも用意する。全部、手に入れないものなんてないようにする。だから、俺といて。俺のものになって。逃げないで。泣かないでくれ……」


頬が冷たいのは涙が溢れているからだとラーダの言葉で知った。

ぺろぺろと涙を舌で拭われているのに、ラーダがこぼした涙でまた汚れていく。


しょっぱい。

彼の涙が口の中に入り、苦い気持ちになる。

嫌だ、と体を捩るとラーダが怒りに振れた。


「逃げるな!」


ビクッと反射的に体が震えて縮こまると、ニタリと金色の瞳が潤みながらも凶悪に笑った。


「そう、どこにも行ったらダメだ。俺のそばにいて。いい子」


またペロリペロリと頬や耳や首を肩と順番に舐めていく。毛繕いをする獣のようだ。

何度か嫌がると怒らせたので大人しくされるがままでとラーダの機嫌が浮上してくる。ついでにぎゅうぎゅうと抱きしめる力も強くなる。


「うまい。ミディアはどこもかしこも甘くて、うまいな」

「あっ、あ、……んんっ!」

「はぁ、ん、くちの、なか、も、……あまい」


潰れる息苦しさにだらしなく開いたままの唇を貪られ、もっと息苦しくなり、助けを求めるようにラーダの肩に爪を立てた。


そうしたらラーダはぱあっと輝くように笑って、ふーふーっと獣の息を吐く。


「ああ、俺に印をくれるのか。かわいい、かわいい。もっともっと痛みをくれ」


とんだ変態発言であるが、興奮して力が強くなりすぎだ。

もうミディアはそれどころではない。息が苦しくて命の危機を感じてガブリとラーダの舌を噛んだ。

途端に血の味がひろがったので、馬鹿になっていた頭がさっと冷える。


しかしラーダは何を思ったのかますます喜んでミディアの顎を掴むとほぼ真上を向かせて、そのまま血の味がする唾液を飲み込めとばかりに唇全体を喰んだ。

あまりにも苦しい。

げほ、ごほ、とむせかえるのに許されず、血生臭い舌が喉奥まで無理やりに侵入し、白目をむきそうにさえなった。


「うぁ、げほ、うぇ、っ、は…かは…っおえ……っ」


ようやく解放された時には気管に入ってしまったものを生理的に吐き出そうと嘔吐めいた音をあげ、ひゅうひゅうと胸を押さえた。


「はっ、はは……。俺の番。俺の血を呑んだ。俺のもの。ずっとずっと俺の……これで、俺のだ……っ、う、ぅう……っ」


一方のラーダは笑いながら泣き出した。

唾液を口の端から溢しながら涙目で見上げたミディアは悟る。


ラーダはちっとも笑ってなんかいなかった。


ただひたすらに悲しい顔をして、またポロポロと泣いていた。

ミディアも大概ろくな人生ではなかったが、こんな絶望を見たことがないと思うほど、ラーダは打ちひしがれていた。


もう大きな銀色の耳は立ってなんかいない。

ぺしょりと潰れて二度と立ち上がらないんじゃないかと思ったほどだった。


「こんなの……ちっとも、ちっとも……嬉しくない……俺は、俺はただ、番に、ミディアに、愛して、あい、してほし……笑って、いつも、みたい、に……俺に、たくさん、たべさせて……」


銀色の狼はミディアの肩に頭を乗せて、ただひたすらに力なく泣いていた。

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