雨庭の鳥籠女神
市野花音
第1話
曇天の空の下、雨が庭園に降っている。
庭園に敷き詰められた石畳を、一人の青年が傘もささずに駆けていた。
雨水に濡れたやや長い黒髪を鬱陶しげに耳に掛け、淡い青の瞳で必死になにかを探している。
庭園は並の貴族の邸宅なぞよりも広い。青年は所狭しと花が咲く花原、緑の葉が生い茂る藤棚、整然と並んだ高木と低木に目を凝らし、何物にも変えられないその色を探す。
初夏を迎え、夏の花がそれぞれの色で咲き誇っている。
青年の主が慈しむ花々を横目に、青年は敷き詰められた石畳を駆ける。小高い丘を登り切ると、ぽつんと建てられた
年は十五ほど。美しいが、触れたら壊れてしまうような、儚い容貌。花盛りだが、どことなく哀愁の漂う薄幸そうな乙女であった。
雨に濡れた若草色の長い髪を垂らし、深い緑の眸から留めなく透明な涙を溢し続けている。
「コレー様」
青年は静かに少女に駆け寄った。
コレー。それが、青年が終生仕えると決めた主の名前だった。
「あら……、アドニス」
涙をはらはらと溢したまま、コレーは立ち上がるとアドニスと呼んだ青年の濡れぼそったコートに手を当てた。
「御免なさい、こんなに、雨に濡れて、」
「良いのです、コレー様。これは傘を差さなかった私の不手際です」
「でも、この雨は、私が降らせているのよ」
ぽたり、ぽたりと溢れた涙が石造りの床に染みを作る。
この箱庭は、コレーのために作られたもので、コレーと同調する。コレーが楽しければ日は照り、悲しければ雨が降る。コレーが泣けば、バケツをひっくり返したかのようなどしゃぶりになる。今の様に。
「失礼します」
アドニスはまるで壊れ物に触れる様に慎重に、白い手袋をした手でコレーの涙を拭った。
「私はコレー様の従者です。主の痛みは我が痛み、主の苦痛を和らげることが我が使命です。どうかこのアドニスに、コレー様の心を支える役目をくださいませんか」
コレーは若草色の睫毛を瞬かせた。こぼれ落ちる透明なものは、ない。雨も和らいでいる。けれど止まらない。
ざあざあと雨が降る中、東屋で碧の少女と黒の青年は静かに向かい合う。
やがて、コレーは口を開いた。
「今日はね、あの子と出会った日だったのよ」
あの子、という言葉が示す人物を知るアドニスは、苦い顔になるのを必死に堪えた。
「あの時はまだあの子は幼くて、白銀色の長い髪を靡かせて、小さな手足で一生懸命私の元へ走ってきたの。そして一輪の美しい水仙を差し出して、こう言ったのよ。『美しい女神様、どうか僕を豊穣の地の王にしてくれませんか』って。顔を真っ赤にして、けれど真剣な灰色の瞳でそう懇願したから、私は運命というものがあるのなら、きっとこの瞬間を指すのだと思ったのよ」
唐突に、泣いていればよかったのに、とアドニスは思った。泣いていれば、コレーこんな話などできず、アドニスが話を聞くこともなかったのに、と。
ふと心に差した黒い影を振り払うと、アドニスはコレーの大地と同じ色をした瞳を見つめた。
「……だから、泣いておられたのですか」
少し迷った末、アドニスは口を開いた。
「ええ、そうよ。きっとあの子は、この日のことを覚えていないもの」
コレーは目線を庭園の奥の方へと向けた。そのさらに奥には、この北の大地を支配する大国の王城がある。コレーの庭園は王都の北を覆う森の中に隠されている。並の貴族では庭園があることすら知らないだろう。
皆知らない。誰のおかげでこの国に安寧がもたらされているのか。
「アドニス、お顔が怖いわよ」
主の声で我に帰ったアドニスは、「すみません」と表情をいつもの真顔に戻す。
「いいのよ。私のために怒ってくれたのでしょう?ありがとう」
穏やかに笑む主はとても美しく、同時にアドニスをざわつかせた。
何故こんなにも優しい少女神が、この場所に閉じ込められているのだろう。
「悲しまないで、アドニス。私はこの地に止まったことを、後悔はしていないのよ?」
目を細めて笑うコレーに、アドニスは叫びたくなった。
貴方は、自分が犠牲になっていると分かっているのですか、と。
「おかあさまを天界にひとりきりにしてしまったことは、申し訳なく思っているけれど」
コレーは切なげに東屋から天を仰いだ。まだ雨が枝葉を揺らしている。悲しまないで、というなら、貴方も悲しくあってほしくない。
コレー。アドニスの主は、この地で強く信仰される大地母神の一人娘である。
豊穣をもたらし天を操る、絶大な力を持つ少女神は、天界の数多の神々から求婚されるほどの美貌を持っていた。
しかしコレーは神よりも地上で生きる人間たちを慈しみ、正体を隠して地上に降りては人の営みに紛れ込んでいた。
ある時コレーは北の痩せた大地に降り立った。そこでは北の地に根付いた人々がわずかな恵みをめぐって争い続けていた。コレーはそれを嘆き悲しみ、天界の神々に内緒で死にかけた人々に施しを与えた。
コレーは北の大地で救世主ともてはやされ、荒れた北の国を統一しようとしていたとある王子から助力を請われた。
コレーは迷った。度を越した人間への肩入れは、天界では禁忌とされていた。
しかし救世を望む人々を見捨てられなかったコレーは、反対する母たる大地母神を振り切り、王子の元へ降った。これにより、コレーは天界を追放された。
コレーは王子の望み通り、痩せ細り、荒廃するばかりだった北の大地に豊穣を齎した。豊かになった北の大地に王子は大国を作り上げ、王となった。コレーは王と共に敬われ、やがて王妃にと望まれた。
しかし王は、別の王妃を迎え、コレーを小さな庭に閉じ込めた。
コレーの大地母神の娘としての力は豊穣を齎したことで弱まっていた。最早大した力は期待できない。そればかりか、圧倒的な支持を受けるコレーは王にとって脅威だった。
しかし殺してしまっては大地に何が起こるかわからない。天界を追放されたコレーは神々から一切の干渉を受けられないのだから、多少冷遇したとしても天罰はくだらない。
ならば閉じ込めてしまおうと王は考えたのだ。
かくして哀れな少女神は、せめてもの慰めにと与えられた庭で僅かばかりの力を行使し、庭園を栄えさせている。
「おかあさま、怒っているでしょうね。おかあさまが与えてくださった力を弱らせてしまって。今だって、雨を止ませられない私に呆れているでしょう」
コレーはその場にしゃがみこむと、東屋のふちにひっそりと咲く小さな青色の花にそっと触れてその形を確かめた。
コレーが庭園に雨を降らせてしまうのは、力が弱まり、うまく操ることができないからだ。感情によって、容易く左右されてしまう。
「……悪しきは、コレー様を閉じ込める国王と、見て見ぬ振りをする貴族達です。コレー様に非がないことは、大地母神様も分かっているでしょう」
「違うのよ、アドニス。私が天界の決まりを破ったことがそもそもの根源なの。有り余る力を与えなければ、あの子はこうならなかったかもしれない」
「それでも、」
「ありがとう、アドニス。私、あなたが居てくれるおかげで、この世を恨まずに済んでいるわ」
その時のコレーが本当に美しい横顔をしていたので、アドニスは口を閉じてしまう。
狡い、とアドニスは思った。そんなことを言われたら、必死に王達を否定する自分が愚かしく思えてきてしまう。
「だからこそ、アドニスがこの世を恨んでしまうのは悲しいの。もし辛くなったら、私の側仕えを辞めても……」
「辞めません!自分は、コレー様に終生お仕えします」
どれだけコレーが穏やかに否定しても、これだけは譲れない。田舎の貴族の三男坊として終わるはずだったアドニスに生きる意味を吹き込み、世界を色鮮やかにしてくれたのは、だれでもない、少女神コレーだから。
「……そう。本当にアドニスは凄いなぁ。なんでそんなにも私に響く言葉を紡げるの?」
「コレー様が、とても素晴らしいお方だからですよ。お側にいれば、コレー様を礼賛する言葉が自然と湧いてくるのです」
「私、アドニスの力になれているのね」
「当たり前です。コレー様は自分の全てです」
「なら、私も腐っているわけにはいかないなぁ」
コレーは立ち上がると、東屋を出てむき出しの地面に足をつける。
「雨、上がりましたね」
相変わらず空は厚い雲に覆われているが、もう雨が天蓋を突き破って降りてはこない。
「アドニスのお陰ね。植物達も喜んでいるわ」
その大地色の瞳で、コレーは自らの庭を愛おしげにながめた。
「迎えにきてくれてありがとう、アドニス。私、あなたに見せたい花があるのよ。一緒に来てくれる?」
「どこまでもお供しますよ、コレー様」
アドニスは主を追って雨上がりの庭に飛び出す。
*
大陸の北にあったとされる、幻の大国。
名前すらも伝わっていないその国は、気候変動により大地が栄えた時期に建国され、時代の流れによって滅びていったとされる。
その文化は同時代の国よりも水準が高く、特に王都にあったとされるとある庭園は驚くほど当時の姿をとどめている。
その庭園は建国まもない時代に作られたということ以外、何も分かっていない。
当然、庭園の主だった囚われの少女神と従者だった男の存在も伝わっていない。
しかし庭園は、今でも美しい姿を残している。
雨庭の鳥籠女神 市野花音 @yuuzirou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます