第38話 三上真澄争奪戦
三月下旬の月曜日の午後。
私は、自分の城である感染対策室で、珍しく頭を抱えていた。
目の前のパソコンの画面には、今年度の院内感染発生率のエクセルシートが広がっている。だが、私の頭痛の原因は、その複雑な数字の羅列では、断じてない。
原因は、これだ。
「それで真澄さん! 来月からあたしが通うネイルの学校なんですけど! 入学式の日にどんなネイルしてくか、マジで悩んでて!」
「……三上室長。先日ご指導いただいたコミュニケーション術ですが、早速実践してみたところ、上司から『君、少しはマシになったな』とお褒めの言葉をいただきまして。つきましては、次なるステップについてご教示願えませんでしょうか!」
「あ、あの、三上さん! 先日お褒めいただいたマニュアルの改訂案なのですが、その後のMRSAの感染予防策をまとめたところ、新たな手順仮説が浮かびまして! 一度、三上さんのご意見をお伺いしたく……!」
私のデスクをコの字型に取り囲み、三者三様の熱烈な言葉を浴びせかけているこの三人の若者たち。
小日向ひまり、佐々木大輝、そして高田理沙。
いつの間にか、私の平穏だったはずの感染対策室は、こんな人口密度の高いカオスな空間へと変貌してしまっていたのだ。
「……静かに」
私は、頭に手を当てたまま呟いた。
「一人ずつ順番に話しなさい。あなたたち、一度に喋られると、何も聞き取れないわ」
私のその一言で、三人は、はっと我に返ったようだった。
そして顔を見合わせる。
「じゃあ、あたしから!」
「いや、自分が!」
「あ、あの、私からお願いします!」
……ダメだ。まとまる気配が一切ない。
このままでは埒が明かない。私がそう判断したその時だった。
ひまりが、ポンと手を打った。
「よし、分かった! こうなったら、順番は『真澄さんへの想いの強さ』で決めましょう!」
「……は?」
「一番、真澄さんのことをリスペクトしてて、大好きだって気持ちが強い人から、話す権利を与えられる、と! どうです、この画期的なアイデア!」
画期的でもなんでもない。ただの面倒な余興だ。
私が却下しようとする前に、佐々木くんと理沙さんが、その提案に乗ってしまった。
「……なるほど。異議ありません」
「は、はい! 私も、それで大丈夫です!」
「で、判定は、もちろん真澄さん本人に決めてもらいましょう!」
「……私を巻き込まないで」
「固いこと言わない! じゃあ、トップバッターは佐々木くんから! どうぞ!」
ひまりの強引な司会進行で、第一回『三上真澄への愛を叫べ』選手権が、勝手に始まってしまった。
佐々木くんは、ごほんと一つ咳払いをすると、直立不動で私に向き直った。
「……三上室長。俺は、あなたに出会うまで、自分に自信がありませんでした。口下手で不器用で、営業には向いていないと、ずっと思っていました」
彼は、一言一言噛みしめるように語り始めた。
「でも、あなたは、そんな俺のダメな部分を否定せず、『それがあなたの武器になる』と言ってくれました。あの日のあなたの言葉が、俺の心のお守りです。俺は、あなたのような、強く優しく、そして人の本質を見抜けるビジネスマンになるのが目標です! 」
そのあまりに熱く、そしてまっすぐな告白。
私は、少しだけ気恥ずかしくなりながらも、悪い気はしなかった。
「はい、次! 理沙ちゃん!」
ひまりに促され、今度は理沙さんが一歩前に進み出た。
「あ、あの! 私は、三上さんの作るマニュアルに感動しました! どんな文献よりも分かりやすく、論理的で、そして美しい! 三上さんのその知識と経験に裏打ちされた完璧な仕事ぶりに、いつも憧れていました!」
彼女は、まるでアイドルのファンが推しへの愛を語るように、目をキラキラさせている。
「私も、いつか三上さんのように、エビデンスに基づいて冷静に物事を判断できる看護師になりたいです! 三上さんは、私の道標です!」
……これもまた、嬉しい言葉だ。
私の仕事ぶりを、そこまで見てくれている若者がいたなんて。
「じゃあ、最後は真打ち、あたしの番っすね!」
ひまりが、自信満々に胸を張った。
「まあ、あたしと真澄さんの関係については、今さら語るまでもないっていうか。ねえ、真澄さん?」
彼女は、私に馴れ馴れしく笑顔を向けてくる。
「毎週こうして会ってるし、プライベートでも遊んだことあるし。真澄さん家にも行ったし、友達っていうか、もはや家族みたいな。ね?」
その自慢げなひまりの言葉に、佐々木くんと理沙さんが、同時に異議を唱えた。
「……小日向先輩、それはただの仲良しアピールじゃないですか?」
「そ、そうです! 私たちは、三上先生の仕事への姿勢について語っているのであって……!」
二人のもっともな反論に、ひまりは一瞬ぐっと言葉を詰まらせた。
そして、何かを思いついたように、顔を輝かせた。
「……分かった。じゃあ、あたしが、どれだけ真澄さんの影響を受けてるかって話をしますよ」
彼女は、真剣な顔つきになった。
「あたしが会社を辞めてネイリストになるって決心できたのは、他でもない、真澄さんがいたからです」
その真摯な言葉に、佐々木くんと理沙さんも黙って耳を傾けている。
「あたし、ずっと悩んでて。でも、ある日、真澄さんが、あたしの背中を押してくれた。……忘れもしない、あの冬の朝。あたしが、真澄さんのベッドで目を覚ました、あの日のことです」
「…………は?」
部屋の空気が凍りついた。
佐々木くんと理沙さんの目が、点になっている。
私も、自分の耳を疑った。
この若者は、一体何を言い出すつもりだ。
「あたし、その前の晩、真澄さんとバーで飲んで。で、酔っ払って、記憶なくしちゃったんすけど。気づいたら朝で。あたし、なぜか服、着てなくて。全裸で真澄さんのベッドに……」
まずい。まずい。まずい。
話の方向性が、完全にあらぬ方向へと暴走している。
佐々木くんと理沙さんの顔から、血の気が引いていくのが分かる。
二人の、尊敬に満ちていたはずの眼差しが、今や疑惑の色に染まっている。
「ち、違うの! それは誤解よ!」
私が慌てて割って入ろうとしたその時、ひまりが、さらに追い打ちをかけた。
「まあ、色々あったんですけど! その時、真澄さんがかけてくれた優しい、愛の言葉で、あたしは……!」
「愛!?」「ベッドで、裸で!?」
佐々木くんと理沙さんが、同時に悲鳴のような声を上げた。
もう手遅れだった。
誤解は、もはや確信へと変わってしまっている。
ひまりも、ようやく二人の誤解に気が付き、慌てて修正に入る。
「いや、違うんですって! あたしと真澄さんは、清らかな関係で!」
ひまりが言い訳をすればするほど、
「……清らかな関係……」
「……つまり、プラトニック、ということですか……」
二人の妄想は、さらに加速していく。
まずい。非常にまずい。
私の感染管理室長としての清廉潔白なイメージが、今、この瞬間、ガラガラと音を立てて崩壊していく。
その時、私の頭の中で、何かがぷつりと切れる音がした。
ゴンッ!!
鈍い音が、部屋に響いた。
「いったあ! 何するんですか、真澄さん!」
ひまりが、頭を押さえている。
私の手には、今まさに振り下ろした分厚いマニュアルが握られていた。
どうやら私は、怒りのあまり無意識のうちに、一番近くにあった鈍器で、騒音の発生源を殴打してしまったらしい。
「……黙りなさい」
地を這うような、低い低い声。
その絶対零度の声に、ひまりだけでなく、佐々木くんと理沙さんも、びくりと体を震わせた。
私は、凍りついている佐々木くんと理沙さんに向き直った。
そして、できる限り穏やかに、しかし有無を言わさぬ声で、説明を始めた。
「……いいこと? 佐々木さん、高田さん。あなたたちが想像しているような事実は、一切ありません」
「で、でも……」
「彼女は、あの日、泥酔し、私の家に押しかけてきた。そして、盛大に嘔吐した。だから服を洗濯するために脱がせた。それだけのことよ。そこに恋愛感情も、ましてやあなたたちが想像するような行為も、微塵も存在しない。理解できたかしら?」
私の、あまりに具体的で迫力のある説明に、二人はこくこくと何度も頷いた。
誤解は、解けたようだ。
その代わりに、私への尊敬の眼差しは、どこか恐怖の色を帯び始めていたが。
よし。
そして、次が本丸だ。
私は、ゆっくりと、まだ頭をさすっているひまりの方へと向き直った。
「……さて。小日向さん」
「……は、はい」
「あなたには、少し特別講義が必要のようね。テーマは『TPOをわきまえたコミュニケーションの重要性について』。それから、『個人情報の適切な管理方法』についても追加しましょうか」
「あ、あの、真澄さん……。あたし、この後、アポが……」
「佐々木さんに行かせなさい。これはあなたの今後の社会人生活を左右する重要な講義よ。感謝しなさい」
私の目に、鬼のような光が宿っているのを、ひまりは敏感に察知したらしい。
その顔が、みるみるうちに青ざめていく。
「さあ、まずはそこに正座しなさい。早く」
ひまりは観念したように、その場にしょんぼりと正座した。
そして最後の望みをかけて、潤んだ瞳で佐々木くんと理沙さんに助けを求めるような視線を送った。
『助けて!』と、その目が雄弁に物語っている。
だが、佐々木くんと理沙さんはアイコンタクトを交わすと、そろりそろりと、音を立てないように後ずさりを始める。
「あ、あの、三上さん! わ、私、そろそろ病棟に戻らないと! 今日は、ありがとうございました!」
「じ、自分も、次の営業先に! またご指導お願いします!」
そう、早口でまくし立てると、二人は脱兎のごとく感染対策室から逃げ出していった。
ドアが静かに閉まる。
裏切り者。
ひまりの小さな呟きが、部屋に響いた。
「……さて。邪魔者もいなくなったことだし。始めましょうか、小日向さん」
私は腕を組み、仁王立ちになって彼女を見下ろした。
「えー、何するんすかあ? 二人きりで、愛を育んじゃいます?」
ひまりは、へらりと笑って言った。
私は、何も言わなかった。
ただ、最高に冷たい、絶対零度の視線で彼女を見つめ続けた。
「……じょ、冗談です……。えへへ……」
ひまりの顔から、笑顔が消える。
だが、もう遅い。
その日の午後。
静かだったはずの院内の廊下に、
一人の若い女性の、長く、そして悲痛な絶叫が、いつまでも、いつまでも響き渡ることになったのだった。
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