第36話 最近、寝つきが悪くて……
二月ももう終わり。暦の上では春が近いというのに、現実はまだ厳しい冬のまっただ中だった。
三寒四温とは、よく言ったものだ。暖かい日と凍えるほど寒い日が交互にやってきて、私の自律神経を容赦なくかき乱してくる。
そのせいか、ここ数日、私は軽い不眠に悩まされていた。
ベッドに入っても、なかなか寝付けない。
頭の中で、仕事のさまざまな懸案事項が、ぐるぐると回り続ける。
来年度の感染対策の年間計画。新人看護師向けの研修内容の見直し。そして、美加子から投げかけられた、あの大学講師の話。
考えれば考えるほど、脳は冴えていく。
羊を数えても、その羊が次々とウイルスに感染していく悪夢のようなイメージしか浮かんでこない。
「……はあ」
私はデスクの上で冷めてしまったコーヒーを飲み干し、今日何度目か分からないため息をついた。
目の下のクマは、もはやコンシーラーでは隠しきれないレベルにまで達している。
「なんか、今日、顔色悪くないすか? ちゃんと寝てます?」
週に一度の嵐、小日向ひまりはドアを開けるなり、人の顔をじろじろと値踏みするように見てくる。
そのデリカシーのない観察眼は時として腹立たしいが、今日ばかりは、彼女のその能天気な明るさが、少しだけ羨ましかった。
「……まあ、少し寝不足なだけよ」
「やっぱり! ダメじゃないすか、睡眠は美容と健康の基本ですよ!」
ひまりはいつものパイプ椅子に腰を下ろすと、まるで自分のことのように憤慨している。
「何か悩み事でもあるんすか?」
「……別に。ただ、少し考え事が多いだけ」
「考え事、かあ。分かります、それ。あたしも、四月からの学校のこととか考え出すと、マジで眠れなくなりますもん。期待と不安で、心臓がバクバクしちゃって」
彼女も、そうなのか。
いつも太陽みたいに笑っている彼女も、夜は一人で不安と戦っているのかもしれない。
そう思うと、ほんの少しだけ親近感が湧いた。
「そういう時は、どうしているの? あなたは」
「あたしですか? あたしは、もう、これ一択っすよ!」
ひまりはそう言うと得意げにスマホを取り出し、自分のバッグからワイヤレスイヤホンを取り出した。
そして私の両耳に、有無を言わさずそのイヤホンをねじ込んできた。
「え、ちょっ……」
私が抗議する間もなく、耳の中に直接囁きかけるような甘い男性の声が流れ込んできた。
『……おやすみ。いい子だね。……君の、その頑張ってる姿、俺はちゃんと見てるから。……大丈夫。俺が、そばにいてあげる……』
ぞわわっ!
全身に鳥肌が立った。なんだ、これは。
鼓膜に直接、蜂蜜を流し込まれているような、この甘ったるくて、むず痒い感覚は。
私は慌ててイヤホンを耳から引っこ抜いた。
「……な、なんなの、これは……!」
「ASMRですよ! RENくんの、おやすみ前の囁きボイス!」
ひまりは、うっとりとした表情でそう言った。
「どうです? この吐息混じりのイケボ! 脳がとろけるような感じしません? これ聴いてると、いつの間にかすーって、眠りに落ちてるんすよ」
「……私には刺激が強すぎるわ。安眠どころか、逆に覚醒してしまう」
私は、まだムズムズしている耳を押さえた。
「えー、マジすか!? こんなに癒されるのに! じゃあ、室長はどうしてるんですか? 眠れない夜」
「私? 私は……」
私は、自分の安眠法を思い浮かべた。
医学雑誌の最新の論文を読む。特に統計学に関する難解な考察部分を重点的に。
あるいは、感染症法の感染症の分類を一類感染症から五類まで暗唱する。
大抵は、その途中で意識が遠のいていく。
「うわ、なんすかそれ!? 絶対、つまんないやつだ! 室長って、ほんと、人生損してますよね!」
ひまりは心底呆れたという顔で、肩をすくめた。
「まあ、いいや。好みは人それぞれっすからね。でも、もし気が向いたら試してみてくださいよ!」
彼女はそう言うと、いらないと言う私の声を無視して、ASMR動画のURLを私のLINEに送りつけてきた。
『頑張る君への、頭ぽんぽんボイス』
……タイトルだけで鳥肌が立つ。
***
その日の夕方。
ひまりが帰り、一人になった感染対策室。終業時間はとっくに過ぎている。
私は、やはり集中力が続かず、パソコンの前でぼんやりとしていた。
頭が重い。思考がまとまらない。
私は、自分のスマホに目を向ける。
(……せっかく教えてくれたんだし……ちょっと、試すだけ……)
ほんの出来心だった。魔が差したとしか言いようがない。
私は辺りを見回した。もちろん誰もいない。ドアの向こう側にも人の気配はない。
私は、自分のスマホにイヤホンを接続した。
誰かに聞かれるわけではないのに、なぜか心臓がドキドキしていた。
昼間、ひまりから送られてきたLINEのURLをタップする。
『……お疲れ様。今日も一日、頑張ったね』
「……っ!」
来た。あの甘い声だ。
『えらい、えらい。……よしよし』
ポン、ポン、という効果音と共に、頭を撫でられているような錯覚。
まずい。これは、まずい。
顔が熱い。誰もいないはずのこの部屋で、一人、顔が燃えるように熱い。
分かっている。これはただの音声データだ。
用意された台本通り、マイクに向かって囁いているだけの虚構だ。
なのに。
私の疲弊しきった心に、その優しい言葉が、あり得ないほど深く染み込んでくる。
『……君は一人じゃないよ。俺がちゃんと見てるから。……だから、安心して』
その最後の一言が、私の理性の最後の砦を崩壊させた。
(……これは、これで……なかなか……)
不覚にも、キュンとしてしまった自分が信じられない。
私はイヤホンを耳につけたまま、デスクに突っ伏した。
もう何も考えられない。この甘い声の海に、溺れてしまいたい。
そう思った、その瞬間だった。
ガラ、とドアが開く音がした。
「よかったー、まだいた! あたし、忘れ物しちゃって…… って……」
そこに立っていたのは、忘れ物を取りに戻ってきた、ひまりだった。
そして彼女の視線は、私のスマホの画面に釘付けになった。
画面には、慈しむ様な笑みでこちらを見つめるRENくんの姿が大写しになっている。
「!!!!!!!!」
私は動揺のあまり、スマホを床に落とす。
そのはずみでイヤホンが抜け、RENくんの甘い囁き声が響き渡る。
「…………」
「…………」
気まずい沈黙。
ひまりの顔が、最初は驚きに、そしてやがてすべてを察した悪魔のような満面の笑みに変わっていく。
「……これは、違うの」
私の口から出たのは、そんな苦すぎる言い訳だった。
「これは、その、学術的な興味というか……現代の若者の文化を理解するためのフィールドワークというか……そう、音響が人間の心理に与える影響についての考察を……」
しどろもどろの私の言い訳を、ひまりはゆっくりと首を横に振りながら遮った。
「いやー、分かりますよ、真澄さん。ついに目覚めちゃったんすね、ASMRの沼に」
「だから、違うと言っているでしょう!」
「いいじゃないすか、素直になれば! どうでした? RENくんの頭ぽんぽん。脳、とろけました?」
「……とろけてなど、いないわ!」
「えー、ホントっすかあ? 顔、真っ赤ですよ? ていうか、耳まで真っ赤!」
「……うるさいわね!」
しどろもどろの私の言い訳を、ひまりはうんうんと優しく頷きながら聞いていた。
そして、まるで悩める子羊を諭すかのように、静かに口を開いた。
「……分かりますよ、真澄さん。疲れてるんすよね」
「え?」
「毎日、一人でこの病院の平和を守って。誰も分かってくれない、孤独な戦いを続けて……そりゃあ、優しい声に癒されたくもなりますよ。……大丈夫。あたし、ちゃんと分かってますから」
その、あまりに優しい同情の眼差し。
それが、どんな罵詈雑言よりも、私のプライドを深く深くえぐっていく。
「だ、だから、違うと言っているでしょう!」
「いいんですよ、真澄さん。恥ずかしがることはないんです。むしろ、あたし、嬉しいです。真澄さんがやっと、自分の弱さを見せてくれたっていうか。人間らしい一面を見せてくれたっていうか」
彼女はパイプ椅子を持ってくると、私の隣にそっと座った。
そして、まるでカウンセラーのように、私の目をまっすぐに見つめてくる。
「でも、一つだけ言わせてください。ASMRは、用法・用量を守って、正しくお使いください」
「……は?」
「こういうのは、一度ハマると抜け出せなくなる危険な沼なんですよ。最初は、ただ声を聴くだけで満足できたのに、そのうちもっと刺激が欲しくなって……気づけば、ライブに通い詰め、グッズを買い漁り……」
「……あなた、自分の話をしているでしょう」
「あたしと真澄さんは、もう運命共同体です! 沼の先輩として、後輩を正しい道に導くのが、あたしの役目!」
ひまりはそう言うと、私の両肩をがっしりと掴んだ。
「だから、提案があるんすよ! 今度、一緒に行きません? RENくんのファンミーティング!」
「……絶対に行かないわ」
「えー、なんでですか! 生の囁きボイス、聞けますよ!? 『頭ぽんぽん』どころか、ハグもできるかもしれないっすよ!」
「……結構よ」
「じゃあ、まずは形から入るってことで! ファンクラブに入会しましょ! あたしの紹介ってことにすれば、特典でクリアファイルとアクスタ、もらえますよ!」
彼女の、善意の皮をかぶった悪魔のような提案が、次々と繰り出される。
私の安眠への道のりは、どうやらとんでもない沼への入り口だったらしい。
私は、ひまりに安眠法を聞いたことを、激しく後悔したのだった。
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