第3話 影灯の宿

雨が降っていた。

しとしと、とやわらかいのに、冷たい雨。結は肩までしみ込んだ旅装を無言で絞りながら、ぽつりとつぶやいた。


「……師匠、また雨宿りもせずに、こんな山道を……」

「雨が降るからって立ち止まってたら、人生は乾かないよ」

前を行く男――楓は、相変わらずの調子で肩をすくめる。


眼帯に華奢な身体、見た目は女性に近いのに、言葉の節々に俗っぽさがにじむ。

「ついておいで、そろそろ村が見える」


その言葉どおり、竹林を抜けた先に、小さな宿場町が顔を覗かせていた。夕闇の中、ぽつりぽつりと灯る提灯の光が、ぼやけてゆれている。


「……変ですね」

結は立ち止まる。

「灯りはついているのに、人の気配がまるでない」


「ま、よくあることさ」

楓は一歩先へ進み、村の境を軽く跨ぐ。

「妖怪でも、疫病でも、悪意でも。何かが“溜まってる”場所ってのは、空気でわかるもんだ」


結は二刀の柄に自然と手を添えた。

気配は――“沈黙”だ。それが何より怖い。





村の真ん中、かつては旅籠だったと思われる建物に二人は腰を落ち着けた。空き家だが、雨を凌げるだけましだった。


「……あの、お団子、美味しそうでした」

結がぽつりと漏らす。乾かした布の下、手足をあたためながら。


「買えばよかったのに」

「買うような人、もういなかったじゃないですか」


「まあね」

楓はくつろぎながら、懐から小瓶を取り出す。

「雨宿りの酒。贅沢な時間だ」

「……師匠、昼から酒ですか?」


いつものやり取りだった。だがそのとき、ぴしゃりと戸が鳴る音がした。


結は即座に立ち上がり、刀を抜きかける。

楓も身を起こした。酒瓶を床にそっと置く。


「結、目を凝らして。……ここは、宿場“だった”だけの話だ。今は――」


戸が開いた。

外に立っていたのは、七、八歳の女の子だった。白装束に濡れ髪、足は裸足。顔は……笑っていた。


「お兄ちゃんたち、泊まりにきたの? じゃあ、あたしが案内するよ」


ぞわりと、結の背を冷気が這い上がった。


「……あなた、名前は?」

「あやめ、っていうの。じゃ、ついてきて?」


にこにこと手招きする少女。

だがその背後、地面に落ちた影が、少女と逆方向に動いていた。


「師匠、これは――」


「影灯(かげび)だな」

楓が立ち上がる。

「昔話にある。宿に現れては、客を影だけに変える妖怪さ」


「成仏、しますか?」

「どうかな。でも――止めることはできる」


結は即座に二刀を抜いた。





「お願い、遊ぼうよ」

あやめの影が、ずるりと地を這う。

もう少女の形ではない。まるで黒い人型の霧。目も鼻も口もなく、腕だけが異様に長い。


「なら――遊んであげます」

結は踏み込み、刃を十字に振るった。


斬撃は確かに影を裂いた。が、黒い霧はすぐにまた形を成す。

影の腕が鞭のように振り下ろされ、結の頬をかすめた。


「っ……この!」


再び斬り伏せ、今度は札を投げつける。

結が使える札は、動きを一時的に止めるだけ――それでも、一瞬の隙は作れる。


「今です!」


楓は軽やかに立ち、封印の札を一枚、指先でなぞった。自身の血で呪を描き、静かに唱える。


「天地を裂くは我が意、四象を鎮めるはこの符。――封」


札が黒い影の中心に吸い込まれるように貼りつく。

風が渦を巻き、影が音もなく消えた。


しんと、静まり返る宿場。


少女の姿も、影も、もうそこにはなかった。





「……あの子、成仏したんでしょうか」


翌朝、村を出る直前。結はぽつりと呟いた。

「最後、笑ってました。……本当に、あれは妖怪だったんでしょうか」


「さあ、もとは幽霊だったのかもね?」

楓は空を見上げた。

「なににしろ、私たちが知る必要はないさ」


「……そう、ですね」


気持ちの良い風が、ふっと流れてきた。


「次の町には、ちゃんと団子のある宿がいいです」

結が呟く。

「あと、朝ごはんも」


楓は笑いながら荷を持ち、結の背をぽんと叩いた。

「さっさと起きれば、朝餉ぐらい作るさ。ほら、行くよ」


「……師匠の選択に任せます」


結の言葉に、楓はまた笑った。


ふたりは、朝靄の山道へと歩き出した。


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