言ノ葉クラスター
みんと
第1話
酸性雨が、黒曜石めいたアスファルトの地面を執拗に叩き続けていた。
2084年ネオトーキョーの夜の闇は、空を覆う鉛色の雲と、都市そのものが放つ過剰な光によって、どこにも純粋な暗がりを見出せないでいる。
摩天楼は天を突き刺す黒い剣のように林立し、その表面を爬虫類の鱗のごとくホログラム広告が絶え間なく流れ落ちていく。
毒々しい原色のネオンサインは、雨に濡れた路面に反射し、現実と虚構の境界を曖昧に溶かしていた。
AIが歌う合成音声のラブソング、刹那的な快楽を煽るゲームの宣伝、思考を必要としないエンタメ番組の断片的な映像――それらが巨大な光の洪水となって、眼球の奥まで侵食してくるかのようだ。
空には無数の個人ドローンが、神経質な虫のように明滅しながら飛び交い、その軌跡だけが、この都市の息苦しい秩序をかろうじて縁取っていた。
重く湿った大気には、排気ガスの匂いと、どこかの屋台から漂う合成香料の甘ったるい匂いが混じり合い、人々の嗅覚を鈍らせている。
雨に煙る巨大集合住宅群の一角。
その壁面は、まるで古代遺跡のレリーフのように、無数の室外機と錆びついた配管で覆い尽くされていた。
ひとつひとつの窓からは、異なる色の光が漏れ、そこからはAIが生成した“ジャンクストーリー”の残響――けたたましい効果音、単調なBGM、そして感情の抑揚を失った簡易化された言葉の応酬――が、途切れ途切れに、しかし執拗に響き渡り、集合住宅全体を巨大な不協和音の塊に変えていた。
それは、孤独な魂たちが奏でる、虚ろな喧騒だった。
、十七歳。
彼の部屋は、その巨大な建造物の中層階、ネオンの光が辛うじて届く薄暗い一室にあった。
壁一枚を隔てた隣室からは、AIコメディアンのヒステリックな合成音声と、それに呼応する観客のプログラムされた哄笑が、まるで悪夢のサウンドトラックのように侵入してくる。
「――マジかよ! それヤバくね? 腹筋崩壊! マジ卍なんだけど!」
意味も、ウィットも、人間的な温もりも、そこにはない。空虚な言葉ばかりだ。
識は、その音の奔流に耐えるように眉間に深い皺を寄せ、使い古されたヘッドフォンをゆっくりと両耳に押し当てた。
スイッチを入れると、人工的な静寂が訪れる。
彼の顔に、ようやく微かな安堵の色が浮かんだ。それは、荒れ狂う海の中から、小さな浮島にたどり着いた漂流者の安堵だった。
ヘッドフォンの奥で、彼だけが知る古いノイズミュージックが、心の壁を築く。
机上に置かれた小さなポータブルLEDライトが、黄ばんだ紙のページを聖域のように照らし出していた。
識は、その古びた本――この時代には存在しないはずの、紙の束――を、まるで壊れやすい蝶の翅に触れるかのように、両手でそっと開いた。
彼の目は、普段纏っている夢見るような虚ろさを振り払い、一点に集中して文字の森を分け入っていく。
そこには、飢えた獣のような知的な渇望と、禁断の果実に触れる瞬間の、背徳的な緊張感が宿っていた。
ページをめくる乾いた指先の音が、この部屋で唯一許された、意味のある音だった。
彼が読んでいたのは、遠い昔、まだ人間が自らの魂を削り、言葉を紡いでいた時代の、ある作家の禁書。
その言葉は、ネオンの光よりも鮮烈で、AIの囁きよりも深く、識の乾いた心に染み込んでいく。
不意に、識は顔を上げた。
ヘッドフォンをわずかにずらすと、現実の音が、再び彼の聖域を侵食しようとする。
窓ガラスを蛇のように伝う雨粒の向こうには、相変わらず巨大なホログラム広告が明滅し、音もなく個人ドローンが、黒い夜空を無感情に横切っていく。
地上では、人々が虚空に浮かぶホログラムUIに視線を固定したまま、雨に打たれるマネキンのように無表情に歩いている。
彼らの口から漏れるのは、思考の放棄を宣言するような、断片的で意味のない言葉の残骸。
識は、その光景をただ静かに見つめた。
深い、底なしの井戸を覗き込むような感覚。
彼は長いため息を一つ吐き出し、再び世界との間に、ヘッドフォンという名の防壁を築いた。
彼の意識は、再び古びた紙の上に綴られた言葉の海へと、深く、そしてどこまでも沈んでいく。
そこは、ネオンの虚飾も、AIの甘言も、そして人々の無関心も届かない、彼だけが知る宇宙。
彼にとって唯一の現実であり、唯一の救済であり、そして、おそらくは唯一の戦場。
識の眼は、そこに刻まれた一文――「我々が作り出すべきは、幸福の機械ではなく、幸福を感じ得る人間である」――を映し出す。
そのインクの滲んだ文字の上を、窓の外のケミカルなネオンの反射光が、まるで血の涙のように揺らめき、一瞬だけ、奇妙な美しさで輝いた。
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