第9話 カイラシン・トォグラ

それは、雨の翌日だった。


ハルキオンの空はまだ厚い雲に覆われ、通りには小さな水たまりがまだ残っていた。アラベスクの窓辺から見える市場も、この日は人影がまばらで、野菜の籠には濡れた布がかけられていた。


サラはその朝、いつもより少し遅れて厨房に入った。


「今日は……空気が重いわね」


と、呟いたとき、扉のベルが控えめに鳴った。


入ってきたのは、トルクとレナだった——いや、正確にはトルクがレナを背負っていた。


「……おはようございます……ごめんなさい……」

レナの声はかすれていた。


「ちょっと転んで、足を……」

レナは片足を庇うようにして降りた。どうやら歩けないほどではなかったが、膝をひどく打ったらしい。


だが、サラが立ち上がろうとしたその時、トルクが言った。


「……サラ。もっと重症なのは、俺じゃない」

その視線の先にいたのは、ルディだった。


いつものように軽やかに入ってくるはずのその若者は、今日は右腕を吊っており、顔色も悪かった。左の肩口には包帯が巻かれ、明らかに戦傷の直後だった。


「昨日の任務で……ちょっと、不意を突かれて……」


サラは言葉を失った。トルクは続けた。


「大きな怪我じゃねぇ。命には別状ない。だが……剣を握るには、しばらく無理だろうな」


ルディは口元をかすかに歪めて笑った。


「俺、しばらく“飯を食う”以外は、ここでやれることなさそうっす……」


厨房に戻ったサラは、しばし無言で作業台に両手をついた。


彼の姿が、どうしても頭から離れなかった。


いつも飄々としていて、どこか人を突き放すような距離感を保っていたルディ。だがその態度の奥にある繊細さも、もうサラにはわかっていた。


(今、彼のために私ができること……)


思考のなかに、ふとレナの言葉が蘇る。


——「サラさんの料理は、癒やされるんです。たぶん、火とか塩とか、そういうんじゃなくて、思い出が……溶けてるみたいで」


“思い出”。

そうだ。ルディの“記憶”に触れる料理。


それがきっと、いま必要なことだ。


その日、サラはレナにルディのことを訊ねた。


「ルディくんの出身地、聞いたことある?」


「えっと……たしか、“北方高地のミルドラ郡”って言ってました。山ばっかりで、冬は長くて……ごはんも保存食が多いって」


(北の……寒冷地。となると、使われる食材は限られてくる。塩干し肉、根菜、乳製品、乾燥豆……)


サラは一度厨房に戻り、棚の奥から古い手帳を取り出した。


外交時代、北方のミルドラ大使から教わった料理——ページの隅に、かすかに残っていたメモ書き。


「カイラシン・トォグラ」

発酵バターと乾燥キャベツ、干し羊肉の煮込み。

塩気と酸味が主調。冷えた身体と心を“強制的に”温める料理。


「……これね」


試作に入ったサラは、厨房を臨時で“火の実験場”にした。


まず干し肉を戻し、脂の部分だけを取り分ける。バターを焦がさないように火を入れ、乾燥キャベツと塩豆を炒める。香草は最小限、乳の風味と発酵の酸味を活かす調整が必要だ。


レナは黙ってその様子を見守りながら、パンの仕込みを進めていた。


「……サラさん、もしかしてあの人の故郷の料理……?」


「うん。記憶の匂いを、取り戻せたらと思って」


「じゃあ、私……スープの器、ちゃんと磨いておきます」


昼時、ルディはいつもの席にいた。顔色はまだ優れないが、他の客と小声で話す姿が戻ってきていた。


サラは、鍋を持って静かに歩み寄る。


「今日は……あなたの故郷の味を、思い出してみました」


一皿の煮込み料理。

湯気の奥に、塩と乳の重なった香り。酸味と肉の旨みの交差。食欲を刺激するには強すぎるはずの香りが、なぜか懐かしさを帯びて広がっていた。


ルディはスプーンを取り、一口食べた。


その瞬間、手が止まった。


「……っ……なんで……」


声がかすれていた。


「なんで、こんな味を……。これ……うちの婆ちゃんが……冬になると……」


トルクが、隣で静かに目を伏せた。


「うまいだろ」


ルディは言葉を返せなかった。ただ黙って、最後の一滴まで、すくい取った。


サラは言った。


「料理は記憶です。帰り道がなくても、舌が覚えている。だから……いまここに、あなたの“帰る場所”を出せたらと思いました」


ルディは小さく、震える声で言った。


「……俺、戻ってくる。ちゃんと治して、また斥候に戻るから。サラさんの飯、ずっと食えるように」


サラは静かに笑って頷いた。


その日、アラベスクの厨房では、煮込み鍋の火が長く長く燃えていた。


“誰かのための一皿”が、またひとつ灯った。




それから数日間、ルディはアラベスクに通い続けた。


冒険者としての任務には出られず、剣の訓練もできない。だからこそ彼は、“できること”として、日々の回復と向き合いながら、サラの料理に癒され、静かに自分を取り戻していった。


最初の頃は腕を吊ったまま片手でスープを啜っていたが、やがて包帯が減り、箸が使えるようになり、ついには食後に食器を下げるまでになった。


「ルディくん、今日はもう傷、痛まない?」

レナが小鉢を下げながら訊くと、彼は少しだけ照れくさそうに笑った。

「うん。なんか、食ってると治りも早い気がしてさ」


「それってつまり、アラベスクの効果ってことですね!」

「……ま、それは認める」


サラは厨房の奥からそのやり取りを聞きながら、鍋の火を見つめていた。


(料理は、時間を重ねるもの。味を育てるっていうのは、きっと人と同じ)


ある夕暮れ、ルディが閉店間際のアラベスクにひとり現れた。


トルクも仲間たちもいない。珍しい光景だった。


「……ごめん、急に。でも、どうしても話したくて」


サラは頷き、カウンター席を示した。ルディは深く息を吐いてから言った。


「……あの料理。ミルドラの“カイラシン・トォグラ”。あれ、食った瞬間、頭真っ白になった。……あんなに覚えてる味、ないのにさ。俺、あの土地のこと、全部忘れたかったんだ」


「忘れたかった?」


「……寒くて、貧しくて、いつも吹雪の音しか聞こえない場所。酒飲んで暴れる大人と、寒さで死ぬ牛と、凍った井戸と……それが俺の“ふるさと”だった。でも、食卓だけは違った」


ルディの声が震えた。


「婆ちゃんの作る料理だけは、あったかくて……黙ってても、そばに置いてくれて。食べてるときだけは、“生きてていい”って思えた。だから、あの味に触れたとき、あの匂いに戻されたとき……俺、初めて……“帰っていいんだ”って思った」


サラはカウンター越しに静かに彼を見つめていた。


「帰る場所は、土地じゃない。“あのときの心”を思い出せる味なら、それが帰り道になる」


ルディは俯いたまま、声を絞り出すように言った。


「俺、また斥候に戻る。でも、それは“遠くに行くため”じゃない。いつかちゃんと、“ここに帰ってくるため”にする」


「……じゃあ、そのときも、またあなたの好きな味を出して待ってます」


ルディの目が潤んだまま、ゆっくりとサラに向けて頷いた。


その夜、閉店後の厨房で、レナがぽつりと言った。


「料理って……すごいですね。あんな風に、人の奥にあるものまで、溶かしちゃうなんて」


サラは微笑みながら、冷ましたスープをゆっくり鍋に移していた。


「火って、怖いけど優しいんだよ。どんなに冷たいものも、ゆっくり時間をかければ、必ずあったかくなる」


「……それが、アラベスクの火なんですね」


「ええ、そう。誰かが絶やさずに、誰かのために燃やし続けてきた火」


その言葉に、レナはしっかりと頷いた。


「じゃあ、私も。ちゃんと火の番ができるようにならなきゃ」


翌朝、アラベスクの扉が開くと、すでにルディの姿はなかった。


だが、厨房の扉に小さな包みが結びつけられていた。


中には、擦れた手帳の切れ端と、乾燥した山のハーブ。


『この香り、婆ちゃんの畑の隅にあったやつ。今度は、これで何か作ってください』

『いつか、帰ってきたときに。ルディ』


サラはその紙を読み終えたあと、しっかりと両手で握り締めた。


彼の帰りを、またひと皿で迎える日を、心に刻んだ。




ルディが旅立ってから、一週間が経った。


彼の姿がアラベスクの扉をくぐらない日々は、はじめのうちは寂しさよりも、ぽっかりと空いた小さな違和感のように感じられた。


けれど日を追うごとに、その不在が静かに厨房の一隅に沁み込んでいった。


「なんだか、あの椅子だけ、ちょっと空気が違う気がするよね」


レナが言ったある日、サラは頷いて返した。


「料理を食べてくれる人がいなくなると、その場所だけ温度が下がるの。……でも、そのぶん、次に火を灯す理由にもなるのよ」


サラはその日、朝の仕込みを終えると、厨房の奥からひとつの布包みを取り出した。


ルディが残していった、乾いた山のハーブ。


指先で葉をつまみ、鼻先に近づけると、草木の奥にほのかに苦みのある、乾いた清涼感があった。


「この香り……確かに、冬を越す土地のものね」


その日、サラは新しいスープを仕込んだ。


干し肉と豆、野菜は根を中心に。香草はこの“ルディの置き土産”をベースに。乳は使わず、香りだけで風味を整える。


熱が通ると、初めて作るのに“懐かしい”と思えるような匂いが立ち上った。


サラはふと、鍋のふちに手を添えて、声には出さず呟いた。


(ちゃんと、ここに帰ってきてね)


その日の昼、アラベスクにはいつもの常連たちに混ざって、新しい顔があった。


年配の旅商人と、隣町から来たらしい若い職人。そのどちらにも、サラは同じ新しいスープを出した。


「これは……どこかの郷土料理かい?」

旅商人がそう尋ねる。


サラは微笑んで答えた。


「旅人が置いていった香りです。……その人が、無事に帰ってくるようにって、祈りを込めて煮ました」


その言葉に、職人の青年が少し目を伏せて言った。


「……じゃあ、あったかいうちに食べなきゃ、祈りが届かなくなるかもな」


二人は、静かにスープを口に運んだ。


「うまい。……だけじゃない。胸の中まで、染みてくる」


「旅先で疲れてた味覚が、一気にほぐれた……こんな感覚、久しぶりだ」


レナがうれしそうに客の皿を見ながら言った。


「サラさんの料理って、やっぱり誰かの“ため”なんですね」


「ええ。人の記憶や心が宿ってるから、料理は“待つ力”にもなれる」


夜になり、店じまいを終えたサラとレナが厨房を片付けていると、ミーナばあさんが差し入れの焼き菓子を持って現れた。


「今日のスープ、評判よかったねえ。あの香草、面白い使い方したじゃない」


「ルディくんの置き土産です。……彼の居場所を、ちゃんとここに作っておきたかったから」


「帰る場所っていうのはね、自分の中だけじゃなくて、誰かが覚えててくれることでできるもんなのよ」


オスカーじいさんが笑って言う。


「火を焚きつづける者がいる。それだけで、旅人は迷わない」


その夜、サラは厨房の片隅でひとり、ルディのノートの切れ端をもう一度開いた。


『次は、ちゃんと自分の足でここに立って、“ただいま”って言えるようになる』


その文字をなぞるように、指先が震えた。


火は揺れていた。だけど、決して消えなかった。


“待つための料理”は、たしかに今日も誰かの体と心を温めていた。


明日もきっと、同じように鍋に火を入れる。

そしていつか、あの椅子に彼が座るその日まで、今日の味を忘れないように。


サラは火を見つめながら、ゆっくりと微笑んだ。

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