第3話 シェレニア・アルマ

一夜明けて、ハルキオンの空は曇っていた。


朝霧は薄く、空気は冷たいが、冬の気配にはまだ早い。にもかかわらず、サラはこの朝、妙な“冷たさ”を肌で感じていた。


アラベスクの扉に描かれた赤い十字の跡は、すでにオスカーじいさんが洗い落としていた。けれど、痕跡は消えても、そこに込められていた無言の意思は残る。


それでも、サラは厨房に立った。何かが変わろうとしている。いや、すでに変わってしまっている――そんな直感だけを頼りに。


その日、再びランドグレイス商会の使いが現れた。


来訪したのは、前回とは違う男だった。ヴァルマーではなく、彼の部下らしき青年で、年は二十代半ば。褐色の髪を七三に撫で付け、肩にかけた外套の留め具は銀細工。だが服装とは裏腹に、その態度はどこかぎこちない。


「アラベスク、というのはこちらで?」


「はい。いらっしゃいませ」


サラは変わらぬ声で応じた。男は鞄を抱えたまま、厨房を一瞥し、少し緊張したように頭を下げた。


「……代行で参りました。ランドグレイスの第七交渉課、シグ・ヴェルトナーと申します」


「どうぞ、座ってください。何かお飲みになりますか?」


「……いえ、結構です。こちら、正式な“再評価通知書”になりますので、まずはご確認を」


差し出された書面は、行政印が偽造された粗悪な書類だった。サラは一瞥するだけでそれを見抜いた。


「これは……偽物ですね」


「ッ……なっ」


シグの表情が崩れる。サラは、じっとその顔を見つめた。


「あなた、それを本気で使うつもりでした?」


「…………指示でした。私はただ、文書を……届けるだけで……」


その言い回し。どこか硬く、語尾の抜き方が微妙に違う。

しかも「届けるだけで」の「で」に、ほんのわずかな巻き舌が混じっていた。


(……この訛り、どこかで……)


サラの記憶の奥底で、何かが反応した。


「シグさん……その口調、北方出身ですね?」


「えっ……?」


「発音の調子が、“ロエシュナ地方”の人たちに似てます。昔、旅の商人から、あの辺の保存食や雑炊の話を聞いたことがあるんです」


彼の表情が一気に緊張へと変わった。まるで、何かを知られたくないという焦りが見えた。


「私は……ここでの仕事をしているだけです」


「本当にそれだけ?」


サラは、ただ静かに微笑んだ。何も責めず、ただ問いかけるように。


「……ロエシュナ地方は、冬が長くて、食べ物の保存も大変だって聞きました。塩や発酵に頼るしかなくて、でも、そのぶん工夫がすごいんだって」


シグは何も言わなかった。だが、視線だけが揺れていた。


「うちでは、昼は“まかない”を出してるんです。今日のスープは、塩鱈と野菜の雑炊風。……少し、寄っていきませんか?」


「…………」


「寒い日に食べる、あの“白い煮込み”。きっと、あなたの記憶にもあると思います」


シグの肩が、わずかに落ちた。緊張が、言葉の外から抜けていくのがわかった。


「……なんで……どうして……そんな、こと……」


「食べ物は、心をほどくんです。だから私は、それで話をしたい」


厨房に入り、サラは鍋を火にかけた。


玉ねぎ、人参、じゃがいも、干し鱈、干しキノコ。塩と香草と少量の白麦酒で風味をつけ、仕上げにバターでとろみを出す。味は素朴だが、どこか雪の中で火にあたっているような安心感がある。


鍋の湯気が立ち上り、店内の空気が柔らかくなる。


シグが席につき、スプーンを手にした。


「……これは……」


ひと匙、口に運ぶ。その瞬間、彼の喉がわずかに鳴った。目尻が濡れているのを、彼は隠そうとしなかった。


「こんな……味……もう、何年も……」


「あなたのふるさとの味ですね?」


「……はい……」


彼はぽつぽつと語り出す。なぜハルキオンに来たのか。なぜランドグレイスに雇われたのか。雪深い村で、農業も出来ず、家族が病で倒れ、金のために街へ出たこと――


「でも、こんなのは……俺のしたかったことじゃなかった……でも……もう……引き返せなくて……」


「引き返せない道でも、立ち止まることはできますよ。……そして、また温かい場所を見つけることも」


サラの声は、風のように静かだった。


その日、シグ・ヴェルトナーは何も取引せずに店を去った。


だが去り際、深く頭を下げてこう言った。


「……この料理のこと、絶対に忘れません。俺、……もう一度、考え直してみます」


サラは微笑んで答えた。


「またいつでも、食べに来てください」


その夜、ヴァルマーが一報を受けた。


「シグが“交渉に失敗”した……?」


「はい。交渉記録に記載がなく、提出書類は返却。報告書には“再考の余地あり”との一文のみ……」


ヴァルマーは書類を見つめ、わずかに眉をひそめた。


「……なるほど。“郷愁”を使ったか。……やはり、あの娘――只者ではない」


彼の声には、ほんの少しだけ、驚きと、興味が混じっていた。


「次は……こちらから招待しよう。“交渉の場”ではなく、“試練の場”へと」




夜明けとともに、サラの手元に一通の封筒が届いた。


厚手の羊皮紙に、銀箔の封緘。差出人はランドグレイス商会・第七交渉課。宛名は「アラベスク調理人 サラ殿」。


内容は、“個別対話の場の設営”という名目の、半ば強制的な招待状だった。


「……招待、ね」


サラはゆっくりと封を閉じる。これは交渉ではない。試されている。あのヴァルマーという男が、彼女を「舞台」に引き込もうとしているのだと直感していた。


だが、逃げるつもりはなかった。


「私の料理で、心を動かすことができたなら……次は、もっと深くまで届けてみたい」


その夜、サラは鍋を三つ並べて火を入れていた。


用意していたのは、シェレニア・アルマ――ロエシュナ地方、雪深い山間の郷土料理である。


干し鱈と雪下人参、乾燥茸、干し馬鈴薯を戻し、白麦の発酵酒とバターでじっくり煮込む。塩の加減が命。強すぎれば保存食になり、弱すぎれば味が飛ぶ。最後に山羊乳のクリームでとろみを出す。まるで、雪解けのように穏やかで、ぬくもりに満ちた味になる。


「……シグさんが、心の奥底で震えた味。あの寒さを知っている人たちなら、きっとわかるはず」


彼女は、その“白き煮込み”を、銅鍋ごと丁寧に梱包した。


交渉の場は、街の西側にある高級社交サロンだった。


磨き上げられた黒曜石の床。壁には抽象画と鋼鉄製の意匠。空調は完璧、だがどこか“人の匂い”がなかった。これがランドグレイスが目指す“都市”の象徴なのだろう。


サラが案内されたテーブルの向かいには、ヴァルマーが既に腰かけていた。


「ようこそ、お越しいただき感謝します。今日は形式的な交渉というよりも、少しだけ……“実験的対話”とお考えください」


「では、私からも“実験”をひとつ」


サラはそっと布をめくり、銅鍋の蓋を開けた。


一瞬で、室内に柔らかな香りが広がる。塩と鱈と麦酒、そして乳の香り。暖炉の前にいるような、胸の奥を溶かすような香りだった。


「これは……?」


「シェレニア・アルマ。ロエシュナの、冬を越すための料理。……あなた方の部下の一人が、ふるさとの味だと教えてくれました」


ヴァルマーの顔に、微かな動揺が走った。


「ロエシュナ……まさか、その名をあなたの口から聞くとは」


「ここは温度のない部屋です。空調も完璧。でも、それでは人は生きていけない。だから私は、料理を持ってきました」


「……感情論ですね」


「いいえ、“記憶”の話です」


サラはゆっくりと言葉を紡ぐ。


「あなたたちがこの街を変えようとする理由もわかります。不安定な構造、低い収益性、非効率な流通。それでも、ここには“戻ってきたくなる味”があります。それは、都市機能には代替できません」


ヴァルマーは、何も言わなかった。だが視線は鍋の中の煮込みから離れていなかった。


「昔……母がよく作ってくれた。シェレニア・アルマ。あの頃は家に暖房もなくて、雪が窓から吹き込んでいた。だが、あれを食べた夜だけは、全員で笑っていた」


サラは、その声に耳を傾けた。


「けれど、もう戻れない。都市に出た者は、二度と“あの夜”には戻れないんだ。過去は、郷愁のなかで腐っていくだけだ」


「でもその郷愁が、今日も誰かの火を灯すのなら――それは、過去ではありません」


沈黙が訪れた。


室内の空気が、少しだけ変わった。香りが心の奥まで染み込むように、サラの言葉もまた、ヴァルマーの中にしみ込んでいた。


会議は予定より長引いた。最後にヴァルマーは言った。


「……今日の話は、正式な記録には残さない。“余白”として、私の心に留めておきましょう」


「ありがとうございました」


「ひとつ、お願いがあります。……“あの味”、またいつか、もう一度いただけますか?」


サラは微笑んだ。


「もちろん。街がまだ在る限り、いつでも」




それは、サラが帰った直後のことだった。


ランドグレイス商会の応接室に戻ったヴァルマーは、重く背を預けるようにして革椅子に沈んだ。背広の第一ボタンを外し、緩やかに息を吐いた。


あの味が、喉の奥に残っている。


シェレニア・アルマ。

あの土地の、あの夜の、あの家の匂い。


「……もう忘れたと思っていたのにな」


彼の脳裏には、母の背中と、雪の夜に家族4人で囲んだあの木製の食卓が浮かんでいた。あの料理の香りは、理屈では説明できない記憶の扉を開く。


だが、その思いに浸る間もなく、扉が無遠慮に開かれた。


現れたのは、商会の上層部直属の監査官、エルネスト・ヴァッツェル。


「ヴァルマー。今朝の報告、読ませてもらった」


「……内容に問題が?」


「あるとも。“感情的な要素により、交渉の継続に再考の余地あり”とはどういう意味だ?」


ヴァルマーは口を開かなかった。ただ、机上に置かれた鍋の蓋を、無意識に撫でた。


「まさか、調理品を持ち込まれて“説得”されたわけではないだろうな?」


「それが、もし本当に人の心を動かしたとしたら?」


「お前は何を言っている。ここは、再開発の戦略拠点だ。情緒や郷愁に揺れる場所ではない」


「けれど、人間は“それ”で動いてしまう生き物です」


しばしの沈黙。エルネストは冷たい視線を送った。


「ヴァルマー。任務に私情を持ち込むなら、交渉主任の立場を再考する。これは通告だ」


彼が部屋を去った後、ヴァルマーは立ち上がり、しばらく鍋の中を見つめていた。


そこにはもう料理はなかったが、温もりだけが確かに残っていた。


その翌日、アラベスクの厨房では、サラが再び仕込みをしていた。


「サラ。あんた、何をやってきたんだ?」


オスカーじいさんが腕を組みながら訊いた。新聞には、“ランドグレイス商会、再評価交渉一時停止”の文字が小さく載っていた。


「……少しだけ、“揺らいだ”みたいです。ほんの少しだけですけど」


「火が灯ったのかい?」


ミーナばあさんが皿を磨きながら言った。


「ええ。まだ弱いけど、あの人の心の中に、小さな火種が」


「そいつを絶やすなよ。街の未来は、風まかせにしちゃなんねぇ」


サラは頷き、鍋に向き直った。


彼女は、もう“ただの調理人”ではない。


料理を通して、街と人の記憶をつなぎ、対話の火種をともす存在。誰も見向きもしない「温もりの言葉」を、スープの湯気に乗せて届ける人間。


午後。ふと、扉が控えめにノックされた。


立っていたのは――シグ・ヴェルトナーだった。


少し顔色が良くなっており、手には旅の鞄と、小さな包みを抱えていた。


「……俺、商会辞めました。あんなやり方、もう続けられません」


「おかえりなさい、シグさん。お昼、まだですよね?」


「ええ……また、あの“シェレニア・アルマ”、いただけますか?」


サラは微笑んだ。


「今度は、少しだけアラベスク流にアレンジしてます。どうぞ、召し上がれ」


街ではまだ、風が吹いていた。


ランドグレイスの影も完全に消えたわけではない。再開発は止まっておらず、他の交渉員もまだ動いている。けれど――


アラベスクの扉をくぐる者の中には、確かに“帰ってくる顔”が増えていた。


街の味。記憶の皿。そして、心の雪を溶かすスープの湯気。


それらが、人と場所をゆるやかに結び直していく。


小さな店の片隅に、たしかな「雪解けの席」ができていた。


そしてサラは、今日もまた、火を守っている。

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