EP 2


目も眩むような光が収まった時、田中貴史の体は硬い地面に叩きつけられていた。いや、正確には、何かの植物がクッションになったおかげで、強打は避けられたようだった。


「いっ…痛でござるよ…」


思わず呻きながら身を起こすと、そこは見渡す限りの森の中だった。天を突くような巨木、嗅いだことのない濃密な土と植物の匂い、そして耳をつんざくような鳥の声。地球のそれとは明らかに異なる生態系が、そこには広がっていた。


「……ここは、どこでござるか?」


呆然と呟き、貴史は自分の服装を確認する。コンビニバイトの制服ではなく、転生直前に着ていた安物のTシャツとジーンズ。背中には、いつの間にか見慣れない革製のリュックサックが一つ。中を探ってみると、愛用のハーモニカと、なぜか昨日のバイトの残り物のあんパンが一つ、そして…それだけだった。スマホも財布も見当たらない。


(トラックに轢かれて…女神が出てきて…異世界に送るって言ってたな…)


記憶を手繰り寄せる。あまりに突飛な出来事の連続に、現実感がまるでない。サバイバル動画で見た知識が頭をよぎる――まずは状況把握、安全確保、水の確保…。しかし、それよりも強烈な欲求が貴史を襲った。


「…夢でござるな、これは。疲れてるんだ、きっと。うん、寝よう」


そう結論付けると、貴史は手頃な木の根元にリュックを枕にして横になった。こんな非現実的な状況、寝て起きればいつもの薄汚れたアパートの天井が目に入るに決まっている。それが一番合理的で、彼にとって最も都合の良い解釈だった。


微睡みかけた、その時。


「きゃあああああっ! やめてっ! あっちに行ってちょうだい!」


甲高い女性の悲鳴が、静かな森を切り裂いた。


「…ナニィ!? 女の声だと!?」


眠気も吹っ飛び、貴史は勢いよく跳ね起きた。夢だとしても、この手のイベントは元中二病の血が騒ぐ。いや、騒いでしまうのだ。彼は音のする方へと、茂みをかき分けながら駆け出した。


少し開けた場所に出ると、そこには映画のワンシーンのような光景が広がっていた。栗色の髪をした、麻布の簡素な服を着た少女――ルーナと呼ばれた気がする――が、手にした木の棒を必死に振り回し、見るからに柄の悪い男たち数人に囲まれていた。男たちは錆びた剣やナイフを手に、下卑た笑みを浮かべている。


「へへへ、ねぇちゃん、そう暴れるなって。ちょっと楽しい事をしようぜ?」


「金目の物と、ついでにお前も頂いていくぜ、ヒャハハ!」


貴史は茂みからその光景を眺め、ふぅ、と一つため息をついた。


「全く、見る夢はもう少し品が有る夢が良いでござるな。こんなベタな展開、三流ラノベでももう少し捻るでござるよ」


ぶつぶつと文句を言いながらも、貴史の足は自然とルーナの前へと進み出ていた。夢の中の自分は、いつだって正義の味方なのだ。


「な、何だおめぇは!?」


突然現れた貴史に、盗賊の一人が驚きの声を上げる。


「黙れ! 雑魚キャラめが!」貴史はビシッと盗賊を指差す。「この聖なる森を穢す不届き者め! 我が聖剣の錆びにしてくれるわ!(…よし、夢ならこういうカッコイイ台詞の一つもないとな!)」


内心でガッツポーズを決めた貴史だったが、ふと気づく。腰に聖剣の感触がない。あれ?


「…あれ? 聖剣は? 拙者の聖剣エクスカリバーMk-IIマークツーは何処へ行ったでござるか?」


貴史は自分の腰や背中をペタペタと触り、きょろきょろと聖剣(もちろん存在しない)を探し始めた。その間の抜けた姿に、盗賊たちは一瞬呆気にとられたが、すぐに怒りの表情に変わる。


「な、何だコイツ、頭おかしいんじゃねぇか!?」


「邪魔だ、とっととやっちまえ!」


一番近くにいた盗賊が、錆びた剣を振りかぶって貴史に襲い掛かってきた。


「ヒッ!?」


夢の中のはずなのに、やけにリアルな恐怖。貴史は思わず目をつむった。


その瞬間、ヒュンッ、と鋭い風切り音が空気を裂き、盗賊の肩に一本の矢が深々と突き刺さった。


「ギャアァァァッ!」


盗賊が悲鳴を上げて倒れる。茂みの中から、弓を構えた屈強な男が姿を現した。年は四十代半ばだろうか、日に焼け、使い込まれた革鎧を身に纏い、その目には獲物を狩る狩人のような鋭い光が宿っている。


「貴様らァァッ! よくも俺の娘に手を出そうとしたなァッ!?」


男――サンダは、怒声を上げながら残りの盗賊たちに突進する。その動きは熟練されており、盗賊たちは赤子のようにあっという間に斬り伏せられていった。


「お、お父さん!」


ルーナが安堵の声を上げる。


最後に残った盗賊を仕留めたサンダは、荒い息をつきながらも、すぐにルーナの元へ駆け寄った。


「ルーナ、無事か!? 怪我はないか?」


「だ、大丈夫よ、お父さん…。でも、この人が…」


ルーナが貴史の方を指差す。サンダはそこで初めて貴史の存在に気づいたように、怪訝な顔で彼を見た。


「ん? 君は…?」


貴史は、目の前で繰り広げられたあまりにも生々しい光景と、鼻をつく血の匂いに、ようやく現実を認識し始めていた。


「え…? あの…夢じゃ…ない…?」


口から洩れたのは、そんな間抜けな言葉だった。


「どうしたの? 大丈夫?」ルーナが心配そうに貴史の顔を覗き込む。「私はルーナ。あなたは?」


「え、えっと…た、貴史…たなか、たかし、でござ…です」混乱で口調が安定しない。


「ありがとう、タカシさん!」ルーナは花が綻ぶような笑顔を見せた。「あなたが飛び出してきてくれたおかげで、お父さんが来るまで時間を稼げたわ! 本当に助かりました!」


サンダも、まだ少し訝しげではあったが、貴史に向かって頷いた。


「うむ。娘を助けようとしてくれたこと、感謝する。タカシ殿、と言ったか。しかし…その服装は、この辺りでは見ない、不思議な格好だな」


貴史は自分のTシャツとジーンズを見下ろす。確かに、革鎧や麻布の服が当たり前のようなこの世界では、浮きまくっているだろう。


「本当に、ここはいったい…」


「タカシさん、顔色が悪いわ。きっと驚いたのね」ルーナが優しく声をかける。「こんな森の中で話しているのも何だから、私たちの村、ププル村に帰りましょう? きっとお母さんが温かいスープでも用意してくれるわ」


サンダも頷き、貴史に村へ来るよう促した。


他に当てもなく、状況も全く飲み込めていない貴史は、ただ茫然としながらも、二人の申し出を受け入れるしかなかった。


こうして、田中貴史の異世界ララリララ大陸での第一歩は、一人の少女とその父親との出会いから、ププル村という未知の場所へと続くことになったのである。


(拙者の牛丼…結局食べられなかったな…)


そんなことを、ぼんやりと考えながら。

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